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稲穂の先に

作者:キュウ
3分ほどで読めるあっさりしたお話です。
まだ季節は春ですが、夏の懐かし気な景色に思いをはせながら、
お茶とかコーヒーとか片手にごゆるりとどうぞ。
 いつかの記憶がふと蘇った。
 ……夏のぎらぎらと照る陽に輝く麦わら帽子、砂色に染みを付けた白い肌着、箪笥の中で今日も今日とて選ばれてきた紺の半ずぼん。それらを身に着けた少年は、幾ばくか速足に、無数の稲穂に囲まれた一本道をズンズン歩いてきた。
 幾百、幾千と広がる稲穂の海の中、もやう船の帆を揺らすヨットのように駆ける風が、少年の背中を無作法に押してきた。彼は立ち止まり、帽子を押さえてその風を受け流す。
 瞳の奥に映るのは、優しい祖母の微笑みである。今日はとても大切な日。今日だけは絶対に祖母に会わなくてはいけない。といってもさしあたって切迫した緊急事態なわけでもない。
 何か月も前から、いやもしかすると一年前の同じ日から考え始めていたのかもしれない。少年は祖母のお誕生日を何の報せも無しに祝いたくて、親にも内緒でここまで歩いてきていたのだった。親に教えてしまえば、きっと何らかの手段で祖母にも伝わると彼は考えた。なにせ祖母の家はたいそう遠くに在った。それはもう少年の筆入れに必ずと言っていいほど入ってある小さなものさし程度では、たとえ百枚並べたって到底計り得ないほどうんと遠くに在ったのだ。
 無遠慮な風に背を叩かれて、栓を抜いたように疲れがどっと全身に行き渡り始めた。妙に頭が重くなってきて、思わず膝をついて肩で息をした。
 体の至る所から絶え間なく流れる汗が、なんとも綺麗に陽を反射していたけれど、少年の目にそれしきのものは決して映らない。ぼんやりしてきた視界を彩るのは、蒸しかえるようなアスファルトの地面と、そこはかとない光を放つ稲穂の群れだった。まるで世界の果てに唐突に放り出されてしまったかのような寂しさが、にわかに溢れ出してきた。
「おまえは稲のおかげで立ってるの」なんて、いつか聞いた祖母の言葉を思い出す。目に浮かぶのは、自分よりひとまわり小さい男の子と、その手を優しく握る祖母の姿。二人して、この道を歩いていた。ふいに男の子は手を離して、稲の方へ駆けだした。その先に止まっていた、てんとう虫を見たかったのだ。しかし彼はスッテンと転んでしまった。てんとう虫だってどこかに飛んで行ってしまった。自然と目に溜まる涙と咽びにより、祖母のことを呼ぶ。祖母は彼に歩み寄り、日の中から語りかけてくる。
「ばあちゃん……」と、ポツンと呟いてみると、その続きもまた鮮明に耳の奥に響きだす。
「稲はね、うんとたくさんのこどもを持ってるの。だけどあたしもおまえも、みんな食っちゃうの。いっぱいいっぱい、こどもたちのことも食べちゃうの。……怖いかい。でもごらん。稲は怖くても、風に吹かれても、立ってるじゃない。おまえは、まだこどももいない小さなこどもだけど……ほら、立ってるじゃないの」
 男の子は祖母の、皺だらけだけど柔らかくて、大きい上に温かい手をとって、鼻をひくつかせながらも腰を上げていた。
 少年は膝から手を離して、永遠とも思えるような一本道の先へ、小さな社を見た。確かあそこには曲がり角があって、そこからまたちょっと歩いたらばあちゃんちだ。今日はとても大切な日。ばあちゃんのお誕生日。
 稲は立っているけど、立っているばかりだ。でも自分は立つだけじゃない。歩くこともできるのだ。ばあちゃんちにだってどこへだって、この田舎の果てのもっと向こうにだって、歩いて行けるのだ。
 そして少年はふいに押し寄せてきた無作法な風に、背中を後押しされるようにしながら、また歩を進めだした。
 真夏の日差しと虫の声、そして稲穂を揺らす風の音。それらに霞がかかるようにしながら、いつかの景色は白い光へと移り変わっていく。
 これらは全て懐かしい色褪せた思い出。全て夢だったと悟るのは、存外一瞬のことであった。彼は電車の中の振動に耐えきれなくなって、たまらず目を覚ましたのだった。

 ……ある青年は、数年ぶりに訪れた故郷を歩いていた。夜の街灯を反射して輝く革靴、塵ひとつ染みひとつ無い黒のスーツ、クローゼットで毎日のように引き出されるやはり黒のずぼん。それらを身に着けた青年は、幾ばくか速足に、住宅に囲われた一本道を歩いていた。
 すっかり様変わりしてしまっているけれど、ところどころ目につく懐かしの景色たちに胸を躍らせて、ある場所を目指していた。
 今日は大切な日。誰にも告げずここまで来た。すっかり成長した姿を二の一番に見てもらいたい、その一心でここまで来た。
 何も変わっていない。そう深く信じて彼は、かつて稲穂しかなかった一本道、暗がりのその先へと、ずんずん歩を進めていく。
 ……いつかは必ず訪れると知っていた灰色の「時」。それに一切の注意も、払わないまま。その「時」に相対するのはもう時間の問題。その「時」彼は、あの日のように再び、歩くことができるのだろうか。少なくとも「彼女」は、そう信じていた……その思いは今も、あの懐かしい稲穂の先に。
お疲れ様です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
HP(→http://kyunote.blog.fc2.com/)にて
コメントや編集後記、本作をもとにしたBGM、ほかのお話のまとめも掲載しておりますので
ぜひこちらにもどうぞ

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