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第6章

 札幌の北広島の自宅へ戻った次の日、僕は卒業アルバムを開いて、前田克信の電話番号を調べた。思えば、卒業して以来、一度も開いたことのないアルバムだった。前田は卒業後にみんなが東京の会社へ就職したとか、結婚して盛岡へいったとか、そうした詳しい情報を大分持っているようだったので、レッドが今どうしているかも、もしかしたら知っているかもしれないと思ったのだ。確かあいつの妹が、レッドの弟と同じ高校の同級生だと、一度話していたことがあった。もし前田がレッドのその後の消息を知らなくても――妹さんに、元同級生を通して聞いてもらえないだろうかと打診するつもりだった。

「レッド?ああ、松平さんのことか。今は結婚して、姓が園江になってるよ。もしかしておまえ、知らなかったの?いや、まあ知らなくても無理はないけどさ……平岸にサロン・ド・ソノエっていう美容室を開いてて、平日は確か十時から四時までだったかな。うん、妹の話によると、美容師としての腕前はなかなかいいらしいよ。半分、趣味みたいなものらしいけどね。何しろ旦那が弁護士だから、生活にはそんなに困ってないだろうし……」

 僕は必要最低限の話を聞くと、その平岸にあるレッドの美容室の住所を前田から教えてもらい、礼を言って電話を切った。何故かというと、あれからレッドがどうしていたかとか、詳しい話を聞くのが怖かったからだ。本当は、その弁護士が、レッドのレイプ事件の相談などにのっていて恋仲になったのかとか、詳しく聞いてみたい気もしたけど、なんとなくそうしたことはレッド本人の口から直接聞くべきではないかと、そんな気がしてならなかった。


 サロン・ド・ソノエ――。

 僕は平岸にある商店街を歩きながら、そう書かれた美容室の看板を探した。某消費者金融のビルと、銀行のある通りということだったけど、なかなか見つからない。そこで脇道に入ったりしてその通りの付近をくまなく探してやっと見つけた――たぶん、前田本人は(当たり前といえば当たり前だけど)そのレッドが経営する美容室に、直接きたことはなかったのだろう。実際には『サロン・ド・ソノエ』は大きな通りに面してはおらず、少し引っこんだ場所にあった。

 僕は打ち震える心臓をなんとか抑え、水色のパーカーのファスナーのあたりをぎゅっと両手で掴んだ。

(しっかりしろ、男だろ)と、昔よくレッドがそう言っていたように、自分に発破をかける。

 月桂樹の金色の葉っぱに囲まれた中に、『サロン・ド・ソノエ』と書かれた白い看板――僕はその脇を通ると、意を決してピカピカに磨かれたガラスの扉を開けた。

「いらっしゃいま――」

 受付のカウンターのところにいた若い女性が、一瞬凍りついている。無理もないかもしれない。何しろ長い髪に、男か女かよくわかんないけど、でもやっぱり男だよね?というような顔立ちを、僕はどうもしているらしいから。

「ミサちゃん、気にすることないよ。あたしの友達だ」

 レッドは客の髪を切りながら、鏡ごしに僕のことをちらと見て言った。ミサちゃん、と呼ばれた助手らしき女の子が、ほっとしたような顔をする。

「じゃあ、そちらのほうにお掛けになって、お待ちください」

 僕はカウンターの脇にある、布張りのソファーに腰かけた。目の前のガラステーブルの上には、女性向けのファッション雑誌やら髪型のスタイルブックやらが何十冊となく積み上げられている。後ろの棚には、とにかく漫画、マンガ、まんが――『ガラスの仮面』、『はいからさんが通る』、『キャンディ・キャンディ』、『王家の紋章』……などなど、昔の少女漫画っぽい絵柄の表紙が多い。

 先ほどの助手の女の子は、僕にコーヒーを持ってくると、「もう少々お待ちください」と、感じのよい笑顔で言った。レッドは三十代くらいの女性の髪をブローしながら、軽い世間話のようなものを、その客を相手にしている。カット専用の椅子はたったのふたつしかなかったけど、僕が本を読むふりをしながら待っている間も、予約の電話が二本、きていた。たぶん、店の全体的な雰囲気から察するに、『サロン・ド・ソノエ』はなかなか評判が良いのではないかと推察される。

 そして髪を短くしてパーマをかけた客が、とても満足そうな笑顔で店をでていくと――うちの母さんなんか、美容室へいくたびに思ったとおりじゃないと文句ばっかり言ってるけど――レッドはミサちゃんという女の子に店じまいを告げていた。

「今日はもう予約も入ってないだろ。ちょっとこの友達とはね、積もる話があるから、ミサちゃんはもう帰っていいよ。後片付けは全部、あたしがやっておくから」

 ミサちゃん、というポニーテールの女の子は、一瞬納得しかねるように首を傾げていた。なんとなく『もしかして、昔の男?』というような視線を感じるのは、気のせいだろうか。

「そんな変な顔するもんじゃないよ。こいつは高校時代、あたしの舎弟だったんだよ。同じクラスに大宮っていう威張りくさった嫌な奴がいて、よく庇ってやったのさ。ミサちゃんが考えてるような奴じゃないんだ。見た目、ちょっとカッコいいけどね、内面は女みたいな奴なんだから。うちの旦那とはまるきり月とスッポンだよ」

「えっと、わたし……そんなつもりじゃなくて、どこかで見たことあるような、そんな気がしたんですよね。でも思いだせなくて……」

 ミサちゃんは顔を赤らめると、箒で床に散らばる髪の毛を集めはじめた。

 レッドが彼女の手から、その柄の長い箒をとり上げる。

「こんなのもいいから。今日は早く帰れてラッキーとでも思って、早く帰っちゃいなさい。こいつともしつきあいたとかいうんなら、あとで電話番号でもなんでも、教えてあげるから」

 ミサちゃんはますます顔を赤くすると、「じゃあお先に失礼します」と言って、そそくさと裏口のあるほうへ駆けていった。カランカランと、ドアについた鈴の音が鳴っている。

「さてお客さん。今日はどんな髪型にしてもらいたいのかな?」

 先ほど客が腰かけていたのとは別の、もうひとつの椅子のほうへ、レッドは僕のことを誘導した。ナイロン製の前掛けのようなものに腕をとおすと、レッドが馴れた手つきでタオルを首のあたりに巻いてくる。

 ――彼女は、あの頃と全然変わっていなかった。ただ髪の色が赤から栗色に変わったという、ただそれだけだった。ふうわりと、昔と同じ香水の匂いが、微かに後ろから漂ってくる。

「……坊主でもなんでも、松……じゃなくて、園江さんの好きなようにしてください」

「ふうん。坊主になって昔あった嫌なことを忘れて一からやり直したいなんてんじゃないだろうね、あんた。ユキはあれだろ。あいつが死んだって聞いて、あたしのことを思いだしたんじゃないのかい? そうだ、僕は昔、とり返しのつかない重大な罪を犯したんだ……とかなんとか思ってさ。違うかい?」

「僕は……あなたに、本当にひどいことを……」

 思わずぐっと涙がこみ上げてきた。本当は、美容室のドアをくぐった時、彼女が僕を友達と呼んでくれた時点で、僕は泣きだしてしまいそうなくらいだった。

「馬鹿だねえ、泣くんじゃないよ。男のくせにさ。ユキがあたしに、一体どんなひどいことしたって言うんだい。あんたは何も悪いことなんか、これっぽっちもしちゃいないさ。あたしもあんたも、たまたま運悪く大宮なんていう化物みたいな奴に出会って、すっかり人生が狂っちまったっていう、いってみればまあ、そういうことだよ。あいつが死んだって聞いた時、あたしは思ったね。『ああ、神さまってのは、本当にいるんだな』って」

 鏡の前にあるティッシュで涙を拭くと、僕は小さく鼻をかんだ。レッドが屑篭をすぐ隣に持ってきてくれる。彼女はスプレーをかけて僕の長い髪の毛をなめらかにすると、どことなく断固たる意志のある手つきで、バサバサとそれを切っていった。そして職業柄かどうか、その間中ずっと喋りっぱなしだった。

「ユキは何ひとつ気にすることなんかないさ。あんたの目にはどう見えるかわかんないけど、今あたしは物凄く幸せなんだよ。旦那はあたしの過去のことも全部知ってて愛してくれるし、子供は今年で上が七つ、下が四つさ。ふたりとも可愛いよお。旦那じゃなく、あたしに似てさ。あたし、高校生の時ユキによく言ったよね。将来は氷室京介みたいな格好いい男と結婚したいって。全然逆になっちゃったけど、まあいいさ。色々あってつらかったけど、そのお陰で幸せになったっていう部分もあるからね。まあなんとも言えないさ」

 旦那さんは、あの事件の時の、と言いかけて、言葉が喉から出てこなかった。なんだか、直接会ったらそんなことは聞くべきじゃないと、急にそんな気がした。

「あたし、ユキがやってるホームページ、随分前から見てるよ。本当は何度もメールをだそうかと思ったけど、あんたにとって高校時代のことはトラウマになってるんだろ。なんかさ、つらかったよ。ユキの日記とか読んでたら、あいつのせいであんたも余計な苦労をすることになったんだなって、そう思ってさ」

 レッドが――いや、園江さんが涙声になっているのを聞いて、僕は驚いた。振り向きかけるけど、そんなことはすべきじゃないような気がして、うつむいた。鏡ごしに彼女を見ることさえできなかった。何故なら彼女は、自分の過去のことを思ってではなく、純粋に僕のことだけを思って泣いてくれていたから。

「……でも、よかったよ。今度本だすんだってね。あたしは本っていっても漫画くらいしか読まないから、難しいことはよくわかんないけど……さ来月の二十日っていったっけ、発売日。本屋にいって買って読むことにするよ」

 恥かしいからいいよ、とも、そんな大した内容じゃないんですとも、僕には何も言えなかった。ただ黙って、うつむきがちになることしか。

「ふふふ。あんたはあの頃とちっとも変わってないね。実際には結構格好いいのにさ、あんまりシャイだと損ばっかりするだろ。ユキのそういうところ、大好きだったよ。それを大宮みたいな奴が汚い手で汚してるのがあたしにはどうしても許せなかったんだ。だから今もあたしはちっとも後悔なんかしてないよ。自分は正しいことをしたって、堂々とお天道さまの下、歩けるさ。むしろあの時黙って自分を押し殺してたら――あたしはあたしじゃなくなってた。ユキだって、そう思うだろ?」

 僕は涙がとまらなくなり、ティッシュを何枚もとると、それで目頭を覆った。

 あの時も今も、どうして自分はこの人の優しさに応えることができなかったのかと、自責の念で胸が苦しくなる。

「僕は……ずっと後悔してたんです。どうしてあの時でもそのあとでも、あいつに逆らえなかったのかって。殴られてボコボコにされてもいい。どうして一言『嫌だ』って言えなかったのか……そう一言、あの三年の間に一度、言うことができてたら、何かが絶対変わってたんじゃないかって、そんな気がして……」

「馬鹿だね、ユキは」

 そっと、母親のように優しく、レッドが短くなった僕の頭を撫でる。

「言っただろ。あんたはあいつに逆らわなくて正解だったのさ。もちろん、あの時はあたしも、そのせいでユキが後遺症みたいなものに卒業後も悩まされるとは、思ってなかったけど……でももうあれから十年も経って、大宮の奴も天罰が当たって死んだ。ユキもあたしも、さっさとあんな奴のことは忘れようよ。そして幸せになる。それが一番だよ」

 涙を流しながら、僕は何度も頷いた。レッドは僕の感情が収まるのを待ってから、うつむきがちの僕の顔を両手でくいっと上げた。

「そうそう。そうやって、下じゃなく真っ直ぐ前を見るんだよ。まあユキにはね、いくらあたしが『色男』だのと言ったって、信じないかもしれないけど……さっきのミサちゃんの反応、見ただろ?ユキは結構女心をくすぐる顔立ちをしてるんだよ。まあね、一度そのことに本人が気づいたらすっかりモテだしてさ、人柄が変わっちゃうってことも十分あるんだけどね……びっくりしたよ。ユキがあんまりあの頃と変わってなくてさ。もちろんこれはいい意味でってことだけど」

 レッドは最後に仕上げとして、ムースみたいなものを僕の短くなった髪に撫でつけた。さっきミサちゃんが言ってたことじゃないけど、どこかで見た髪型だった。でも思いだせない。

「あたし、昔は氷室京介が好みの男だったけど、今はベッカムにすっかり熱を上げてるんだよ。旦那はね、自分の容姿にコンプレックスがあるせいか、娘とTV見ながらキャーキャ言うたんびに、面白くないような顔してるけど」

 レッドは軽くパンパンと手をはたくと、椅子を回転させた。そして僕の手からナイロンの前掛けのようなものをサッと抜いている。

「さあ、いい男の一丁上がり!」

 急にさっぱりと軽くなった頭に、僕は何故かとても照れくさいものを感じた。二年くらい前から、ずっと長い髪のままだったから……なんだか重みがなくなって、奇妙な感じがする。

「料金はいらないって言いたいとこだけど、ユキはそういうの気にするだろ?だから一応お金はもらっとくよ。じゃないとあんた、ずっとあたしに借りのあるまんまだって、そう思うだろ?……ああもう、いいかげん涙ぐむのやめなって!ほら、カット代二千八百円。これでユキとあたしの間で貸し借りは一切なしだよ。一度、よかったらうちに遊びにおいで。あんたがもし、あたしと会っても、昔の嫌なことを思いださないなら、ね。自慢じゃないけど、結構豪華なんだよ、あたしの家。だから仕方ない、自慢させてやるかと思って、気が向いたらくるといいよ」

 僕が三千円手渡すと、レッドは自分の住所と電話番号を書いたメモ紙を、お釣りと一緒に返してくれた。

「近くまできたら、そこへ電話をよこしな。ナビしてあげるから。まあユキも忙しいだろうから、無理にとは言わないけどね。あたし、ユキみたいな男はどんな女とつきあって結婚するのかとか、すごい興味あんのさ。だから、つまんない女に引っかかったりしたら、承知しないよ!」

 レッドは、最後に店から追いだすように、僕のジーンズのお尻のあたりをバシン、と叩いて寄こした。男だったら気合い入れろ、と言うみたいに。嬉しいのか悲しいのかわかんないけど、また涙がこみ上げてくる。そして振り返ると、何故かレッドも涙ぐんでいた。

「幸せにならなかったら、絶対承知しないんだからね」


 レッドと別れたあと、平岸から北広島まで帰る道すがら、僕は泣きっぱなしだった。一度など、涙で視界が曇って、路肩に車を止めなくてはならないほどだった。

(レッドが、僕を許してくれた。それも、とっくの昔に許してくれていた。あの頃、僕は本当に男の腐った奴と言われても仕方なかったのに……しかも十年も経ってから会いにいった僕のことを覚えていてくれた。その上、今ごろあやまりにきたのかと責めることさえなく、安い料金で髪を切ってくれて……)

 あとはもう、思いにも言葉にもならなかった。何かよくわからない暖かいものが、胸のあたりの太い血管を流れているような感覚しかない。そして胸の熱さはそのままに、涙だけがふと引いた時、僕はあることに気づいた。

 あの夢の女性はやはり、レッドではなかったかと。彼女に読心術の心得があったように、レッドにもまた、僕が何を言わなくても、すべてわかっているようなところがあった。それから、こうも思う。高校の時のレッドに対する僕の思いというのは、強い憧れや尊敬といったものだったけど――もし僕が彼女と対等に近い間柄だったとしたら、それは恋に近い感情だったかもしれないな、と。


 泣きはらした目がいつもどおりに戻るころ、僕は北広島の自宅へと帰ってきていた。そして「ただいま」と言った僕に、「おかえり」と台所から振り返った母さんは、僕の髪が短くなったのを見て、狂喜していた。

「いつも母さん言ってるじゃない。ユキオは元がいいんだから、それなりにいい服を着てビシっと決めれば格好良くなるのにって……あんたはどうしてそうファッションセンスがないのかしらねえ。オシャレにも全然気を使わないし。そうだわ、明日にでもデパートへその髪型にあった服を買いにいきましょう」

「え?べつにいいよ、そんな……」

 正直いって僕は、一般にいう<格好のいい服>というのが苦手なのだ。それよりも少しダサ目の服を着ていたほうが、気持ち的に落ち着く。

 母さんは昔からトレンド系のファッションが好きな人で、よくバーゲンなどで僕や章一郎にその手のセーターやジャケットなどを買ってきたものだった。僕はともかくとして、章一郎はやたらとそういう服が似合った。でも僕は――その種の服を着ると、自分が格好いいと周りの人間から思われたいと勘違いしているような気がしてきて、気持ちが落ち着かなくなるのだった。

 でも結局のところ次の日、僕は母さんにつきあって某老舗デパートで買い物をすることになった。三十にもなる男が母親とふたりで買い物というのもどうかという気がするけど―まあこれも一種の親孝行かなと、考えを改めることにした。

 父さんが浮気をやめてからの母さんは、とても明るくなったし、また僕の人生もどうにか軌道に乗りそうだということで、母さんは十歳くらい若返ったように見えた。家庭生活も三人で、まあそれなりに昔のようにうまくやってるし――順風満帆といえば、まあまあ順風満帆の人生かもしれない。

 それにしても、僕が髪を切って家に入っていった時の母さんの喜びようったらなかった。まるで昔の恋人が帰ってきたというようなはしゃぎようだった。僕が本をだすことになったと言った時よりも、100ワットくらい明るさが違った。

 まあ以前から「だらしなく見えるから髪を切れ」とか「男のくせに」というようなことは何度もしつこく言われ続けていたのだけれど。


 十二月二十日――とうとう僕の処女小説が本屋さんで発売される日がやってきた。

 僕はその日、街中にある本屋まで出掛けていって、自分の本が棚に並んでいるところを見ようと思った。近所にある本屋に一冊しか配本されていないのを見て、悲しい気持ちになりたくないためだった。その点、大きな本屋には、少なくとも五六冊は入荷されて平積みにできるようになっているはずだった。

 僕は某デパートの立体駐車場に車を止めると、母さんに買ってもらったスウェードのジャケットの襟元を整えて、サングラスをかけた。下は黒のスラックス。やっぱりこういう格好は好きじゃないなと思うけど、着ないと母さんに悪いような気がするので仕方ない。僕は高鳴る胸の鼓動を抑えるようにしながら、五階の本屋へと向かった。

 軽い視線恐怖症になってからというもの、悲しいことに僕は立ち読みというものができなくなっていた。昔は平気で、立ち読みしている本の内容に集中できたものだったけど――今は、昔はどうしてそれが平気だったのかがわからなくなってしまった。

 変な意味で自意識過剰なのかもしれないけど、誰も自分のことなど見ていないとわかっているにも関わらず、どうしようもないのだ。

 僕は人目を避けるようにこそこそと、文芸関係の書籍が並ぶ本棚の前に立ち、ズラリと並ぶ新刊本の中に、自分の本を探した。

(えーっと、カウンセリング・クレイジー、カウンセリング・クレイジー……)

 ――あった!しかもスタンド付きのポップまで立っている。<札幌市出身の作家!>だって。なんて嬉しい本屋の店員さんの心遣い

だろう。

 僕はしばしジーンとして、自分の本を両手にとって感動していた。

「あのう、もしかして……」

 一瞬ドキリとする。自分の本を買いにきているだなんて恥かしいと思った僕は、反射的にそれを元の場所に戻していた。

「神谷さんのところの、ユキオちゃんじゃないですか?」

「えっ!?いや、あの……」

 どこからどう見ても、知らないおばさんだった。年の頃は僕の母さんと同じくらいだろうか。ところどころ、髪に白いものが混じっている。背が低く小柄ではあるけれど、その顔立ちにはどこか、若い頃の美しさを忍ばせるものがあった。

「わたし、川合俊夫の母親ですよ。小学五年の時同級生だった」

 にっこりと微笑む、なんとも地味な服装のおばさん。カワイトシオ、かわいとしお、川合俊夫……。

 瞬間、パッと僕の記憶に明かりが灯った。

「ああ、川合くんの!思いだしました、今やっと!」

 つい思わず大きな声で言ってしまった。でもあんまり懐かしい名前だったので、びっくりしたのだ。周りで立ち読みしていた人が一瞬こちらを振り返ったけど、僕はこの時そんなことは少しも気にならなかった。

「川合くん、元気ですか。懐かしいなあ。転校したあとどうしたか、ずっと気になってたんです」

 途端、それまで明るかったお母さんの顔が曇ったけど、僕はその意味がわからなくて続けた。

「今、どうしてるんですか?もしかしてもう結婚してるとか?僕なんてまだ独り者だけど、川合くんはああ見えて結構、あの頃から将来設計しっかりしてたから……」

 お母さんの曇り顔は、やがて泣き顔へと変わった。ハンドバッグの中からハンカチをとりだし、それで目元を拭っている。

「よかったら、助けてやってもらえませんか。あの頃みたいに、俊夫のこと……」

 こんなところで話すのもなんなのでと、お母さんは泣きながら、同じ階にある喫茶店へ自然に僕のことを誘導した。頭一個半分くらい違うお母さんと肩を並べて歩きながら、それにしてもよく自分だとわかったなと思う。あれから二十年も経っていて、しかもサングラスまでかけていたのに。でもあとになって思い返してみると、お母さんにとって僕に声をかけたことは、藁にも縋るというその藁だったに違いないと、そう思い至ることになるのだけれど……。


「家庭内暴力?」

 信じられないな、と僕は思った。川合くんは小学生の頃、大人しくて無口な少年だった。もしあのまま成長していたとすると、とても暴力を振るうようには思えない。

「まわりの人も、信じられないってみんな言うんです。近所の人にも、会えば一応感じよく挨拶するし……たまたま、そのことを親戚のひとりに電話で相談していたら、その会話を偶然俊夫に聞かれてしまって……逆ギレっていうんですか?それ以来ますます手がつけれらないようになって……」

 丸テーブルを挟んで向かいあいながら、おばさんと僕は時々アイスティーを飲んだ。そして随分長い間トシオくんのことを話しあった。おばさんは長袖のブラウスを肘までまくると、青く痣になっているところを最初に見せた。化粧でうまくごまかしてあるけれども、目のまわりにも赤く痣があるという。

「あの、こんなこと言ったらアレですけど、そういう時、お父さんは?」

 おずおずとそう訊くと、おばさんは諦めたような溜息を着いて、首を振った。

「今は、別居しています。俊夫の暴力があんまりひどいので、たぶん直視したくないんでしょうね。とにかくこの件についてはすべてわたしが悪いんだそうです。自分は一生懸命働いて、立派な背中を子供に見せてきた。育児についてはおまえにまかせてきたから、俊夫があんなふうになったのはおまえのせいだと……」

 まるきりうちの父さんと反応が一緒だな、と僕は思った。おばさんはハンカチで目元を拭うと、途方に暮れたように再度溜息を着いている。

「あの、僕は専門家ではなので、偉そうなことは何も言えないけど、一度専門の機関へ相談してみたほうがよくないですか?もちろん僕も、トシオくんに会いにいこうとは思うけど……」

「本当ですか!?」

 ぱっと、おばさんの顔が輝く。僕が髪を切った時、母さんが見せた表情とまったく同じ顔だった。どうもおばさんは<専門の機関>というところへ相談にいくのが嫌なみたいだ。話を聞いていて、なんとなくそう感じた。それよりも、僕でも他の誰でも、一応は自分の知っている人間に間に入ってもらいたいと、そんなふうに感じているらしい。

「今は星置ほしおきに住んでるんです。ユキオちゃんちのある北広島からはかなり遠いけど……ほとんど札幌の端から端みたいなものだものね。でも、交通費や何かはすべてわたしが負担しますから、どうか一度、あの子に会いにきてください。よろしくお願いします」

 白い丸テーブルに頭が着くのではないかというくらい、深々と頭を下げられたのでは、断るわけにもいかない。僕はおばさんがナプキンの裏に住所と電話番号を書いたものを、ただ黙って静かに受けとった。

「あの子、転校してからもずっと、友達ができないままだったんです。中学は一応卒業したことになってますけど、途中からは半分、通ってないようなものだったんです。そのあと少しアルバイトみたいなこともやってみたんですけど、長続きしなくて……とにかくずっと家に閉じこもってゲームばかりしてるんです。考えてみると、ほんとにあの子に何かしてくれた人っていえば、ユキオちゃんだけだったんじゃないかしら。あの子、感情表現が下手だったから、顔には決してだしませんでしたけど、転校する時ユキオちゃんがくれた野球のボール、今も大事に部屋に飾ってあるんですよ」

 そこまで話を聞くと、急に僕は自分のことが恥かしくなった。だからその罪滅ぼしというわけではないけれど、近いうちに必ず星置の川合さんの家を訪ねるという約束をした。


(あのお母さんも、悪気があるっていうわけじゃないんだろうなあ)

 北広島の自宅まで帰る道すがら、僕はハンドルを握りながら、自分だったらとても耐えられないなと感じていた。家庭内暴力が、ではなく、自分の母親が親戚だの僕みたいな赤の他人だのに、自分の内情のようなものをさもわかったように語られたりしたら、たまらないだろうなと思ったのだ。

 僕が半引きこもり生活を続けたあの二年ほどの間、やはり僕の家庭でも似たようなことがあった。母さんは世間体というものを非常に気にするタイプの人なので、父さんの浮気に対する愚痴を、外の人間に話すことは決してなかった。けれども、いつまでも僕がプータロー生活を続けたらどうしようと思い、親戚などに時折、電話で話をしていることがあった。その時僕は受話器をとり上げて母さんのことを殴ってやろうかと思ったし、父さんのことは殺してやろうかと思ったことさえあった。

「ユキオも、そのうち変な事件とか起こしたりしないだろうな。もしそんなことになったら、俺は区役所を辞めなきゃならないぞ」

 いつだったか、僕が玄関のところにいるとは気づかずに、茶の間でそう洩らしていたことがあった。確か、東京であった連続通り魔事件の報道を、ニュースでやっていた時のことだ。その小さな呟きを聞いた時の僕の怒りがどれほどのものだったか……空想の中で父さんの髪の毛を引っつかみ、TVの角のあたりに何度も繰り返しぶつけていたほどだ。

『もとはといえば、おまえたちが間違って結婚したからこんなことになったんだろうが』

 そう吐き捨ててやりたいくらいだった。

 でも僕がそうしなかったのは、ひとえに<大宮>という男の存在による。もし父さんや母さんに暴力を振るうくらいなら――僕がまず殺さなくてはならないのは大宮だと、似たようなことが繰り返されるたびに、一生懸命そう自分に言い聞かせた。

 だから、僕にはある程度、トシオくんの気持ちがわかるつもりだった。そして僕はかつて小学校五年生だった時の、優等生だった自分のことを恥じていた。

 確かに僕は不登校の同級生のために、毎日朝、迎えにいった――でもそれは、ただ単に家が近くて先生に頼まれたからに過ぎない。

 それに彼は僕と一緒に登下校するようになってからも、いつも居心地の悪さのようなものを感じていたようだった。僕にも今なら、その居心地の悪さがどういった種類のものであったかがよくわかる。でもその頃は、とにかくトシオくんを<仲間にさえ入れてあげれば>すべてが丸く納まるのだと信じて疑わなかった。僕は男子のグループのリーダーで、学級委員長でもあったから、「仲間に入れてやってくれ」と一言いいさえすれば、誰も逆らう奴はいなかったのだ。

 一度、こんなことがあった。

 トシオくんはいつも無口で無表情だったから、仲間に入れてあげてもまるで感謝の念といったものを示さなかった。いや、示しているようには、まるで見えなかったといったほうがいいのかもしれない。

 クラスで一度、僕のいない機会を狙って、弾劾裁判のようなものが開かれたことがあった。

「おまえ、みんなが仲間に入れてやっているのをいいことに、何も自分からしないじゃねえかよ」

「そうだよ。いつもそれが当たり前みたいな顔しやがって。生意気なんだよ」

「第一、カミヤが仲間に入れてやってくれって言うからそうしてるってだけなんだぞ。いや、俺たちのことはまだいいさ。おまえのカミヤに対するあの態度、一体なんなんだよ。いつも感謝するでもなく、当たり前みたいにあいつの善意を無駄にしやがって。俺はそのことが一番許せねえ」

 放課後、女子のひとりが図書委員の当番をしていた僕を教室に戻ってくるよう呼びにきた。川合くんがリンチにされそうな雰囲気だと、彼女が息を切らせながら言ったので、僕は急いでその子と一緒に五年三組へと駆け足で戻った。

 教室の中へ僕が入っていくと、黒板を背に、みんなに囲まれていた川合くんは、突破口を見つけてその場から駆けだしていった。

 その時の彼の気持ちがどんなものだったか――昔、僕はわかったようなふりをしてみんなを宥めたけど、本当は少しもわかってなどいなかったのだ。人の善意を無駄にすることがどんなにつらいか、今の僕になら痛いほどよくわかるけれど……それに、どんなに対等になりたくても、どうしてもそうなれないことの悔しさも。

 野球のボールにしても、特にこれといって深い気持ちがあって渡したわけではなかった。ただ、父親の仕事の都合で引っ越すというので、なんとなく何かあげたほうがいいかなと、ぼんやり思ったというだけだった。

 しかも今日の、僕の川合くんのお母さんに対する態度――人間として恥かしいよな、と僕は素直に反省した。せめて自分も高校を卒業後は人生があまりうまくいってなくて職も転々としたし、半分引きこもっていたこともあったと、何故一言いえなかったのだろう。

 おばさんが、かつての非の打ちどころのない優等生としての僕を見ていることがわかるので、僕は昔の自分に帰れることを、心のどこかで嬉しく思っていた。そうだ、本来なら僕は、こういう人から相談を受けるタイプの人間だったのだと、かつての優越感を心のどこかで感じてもいたのだ。

(やれやれ。そういうことだったのか)

 わかっていたつもりのことを、改めて深くそうと思い知らされ、僕は自分に対して絶望的な溜息を着いた。絶望、とはいっても、そのすぐ後ろに希望の光が垣間見える絶望、ということではあったけど。

(果たして、僕にもできるだろうか?かつてレッドが僕にとっての救世主だったように、誰かを助ける、なんていうことが?)

 まさか小説の中でだけ、論理的に立派なことを書いて、実行には何も移さない、なんていうわけにはいかない。

 むしろ、新しい人生のステップが始まったのだと、僕はそんなふうに川合くんのことを受けとめることにした。

 まずは明日、地図を見ながら星置まで、トシオくんのことを訪ねにいこう。こんなトレンド系の格好つけた服装ではなく、いつもの、ジーパンにダサいプリントのトレーナーでも着て。

 そして宇宙人がぎこちなく「Hello!」と地球人に挨拶するみたいに、彼と会って話をしよう。これまでの僕の人生がいかに格好悪くてダサくてしみったれていたか、大宮のことも含めて、包み隠さず、トシオくんと語りあえればいいなと、僕は心からそう思った。

 ――果たして彼は、今の僕と本当の意味での友達になってくれるだろうか?




 終わり



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