第5章
そしてなんだかんだと時を過ごすうちに、僕は二十九歳になっていた。来年はとうとう三十歳かと、思わず溜息を着きたくなる年齢だ。友達もなく、ガールフレンドのひとりを持ったというような経験もなく、ただ歳月だけが過ぎたといったような、そんな感じだった。
とりあえず僕は、社会人としては多分、まあそれなりにまともな部類に属する人間ではあるのだろう。外出時には相変わらずサングラスが手放せなかったけど、仕事中はべつにグラサンがなくてもなんとか働けるし、人混みがつらくて、札幌の中心街なんかは歩けなくなったけど、それでもまあ日常生活に大きな支障があるというわけでもない。むしろそうした小さな不自由によって、僕はより大きな自由の大切さを知ったし、視線恐怖や対人恐怖が100%完璧に治ればよいのに、というようにもあまり思わなくなった。昔は大宮さえいなければ、僕の人生は黄金時代の延長線上にあったかもしれないのに、と喪ったものを嘆いてばかりいたこともある。でも最近では、僕の人生はこれで良かったのではないかと、少しずつそんなふうに受け容れることができるようになっていた。プロになることは諦めたけど、インターネットのホームページには毎日何十人もの人のアクセスがあったし、感想を書きこんでくれる人もたくさんいる。それと負け犬日記は、僕の文章力が少しずつ上がるのと同時に、どうでもいいような日常生活の愚痴が少なくなり、今ではほとんど社説っぽいような論調になっていた。内容は最近起きた事件のことや、読書した本の感想、その他メールをくれた人との意見の交換といったところだろうか。
そして僕が三十歳になるまであと四か月というある日のこと――メール便で一通の封書が、自宅の玄関先に届いていたのだった。
(――紫雀社?)
それは『文藝帝国』という文芸雑誌を出版している新進の出版社で、僕はその雑誌を毎月必ず購入していた。何度かここの出版社の設ける文芸賞に応募したこともあるけど、いつも二次止まりだった。しかも今はどこかの出版社に原稿を送っているというわけでもなかったので――ー体なんの用だろうと、僕はその封書の頭のところを、何気なく手で破って開けた。
神谷 幸男様
前略、時期ますますご清祥のことと存じます。
早速ですが、先日作家の長谷川聡先生より、貴殿の本の出版化について、打診がありました。わたしも神谷さまのインターネット小説をお読みしまして、是非出版化を検討させていただきたく、このように御連絡させていただいた次第です。つきましては神谷さまの出版化に対する意志などをお知らせいただければと思います。メール、電話、手紙など、お返事の方法はなんでも構いません。なるべく早く良いお返事をいただけることを、スタッフ一同心よりお待ち致しております。
敬具
六月十日
株式会社 紫雀社
文芸帝国 編集部 金井美香子
――果たして、こんなラッキーなことが、人生には起こり得るものなのだろうか?長谷川聡といえば、佐京宗一郎や東山良一郎と並ぶ人気作家で、僕は彼の書いた小説やエッセイ集、旅行記などを、すべて持っているくらいだった。
「……母さん。紫雀社っていう出版社が、僕の書いた小説を出版したいんだって」
キッチンで手作りのドーナツを揚げていた母は、何か聞きとれない言語を耳にしたというように、後ろの僕を振り返った。そして言った。
「今日は、エイプリル・フールじゃないわよね?」
もちろんその手紙は誰かの悪戯というわけでもなく、本物だった。僕は手紙に書かれていた金井さん宛てのメールアドレスに早速連絡し、今の信じられない心境と、出版化に対する感謝の気持ちとを伝えた。そしてメールで何通かやりとりをしたあと――出版契約のことなどについて――金井さんと直接電話で話をし、色々と細かい点を詰めるためにも、一度札幌で会うということになった。
「編集者やデザイナーと意見をぶつけあいながら、最高の本にしていきましょう!」
そう金井さんは言ったけど――僕と同じ年齢の、とてもお洒落な感じのする、綺麗な人だった――僕は本の製作過程のほとんどを、金井さんひとりにまかせきりにしていたので、意見をぶつけあうようなことは一度もなかったと言ってよい。
もちろんこうしたことは金井さん自身が編集者として実に優秀であったからで、彼女は装丁デザインにしろ何にしろ、僕の書いたものの醸しだす雰囲気といったものをよく把握していた。そんな中で僕が唯一まともに行なったことといえば、最終的な校正作業のみといっても過言ではなかったと思う。
べつにこれは大宮病の後遺症を患っていたせいで、自分の意見が未だに言えなかったとかそういうわけではなく、その証拠といってはなんだけど、僕の処女小説である『カウンセリング☆クレイジー』は実にイメージどおりの、素晴らしい本になった。
そして僕の小説があと四か月ほどで出版になると決まったある日のこと、その電話は鳴った。僕が居間で母さんの手作りドーナツを食べながら、初校のゲラ刷りに目を通していた時のことだった。
「ユキオ。前田さんだって」
ソファーにもたれている僕のところにまで、母さんがコードレスの電話を持ってくる。マエダ?一体どこのマエダだろう思った。
「はい、もしもし」
「俺が誰だかわかる?」
「いえ……」と僕は首を傾げながら言った。まるで聞き覚えのない声だと思った。
「高校の時の同級生の前田だよ。カミヤ、ニュース見た?大宮の奴、とうとう死んだらしいぜ」
手に持っていたドーナツを、僕は思わず床に落としていた。神経質な母さんがすかさず拾ってたけど、凍りついたように、僕は暫くその場から動けなかった。
「釧路にある春採湖っていうところでさ、ひとりでボートに乗ってて転覆したんだって。あいつらしい馬鹿な死に方って言えばそれまでだけど、どうしても誰かにこのこと話したくってさ。俺、あいつが死んでも、ちっとも悲しくなんかないぜ」
僕も、と言おうとしたけど、まるで喉に何かが詰まってでもいるみたいに声がでない。
「なんでも、事故か自殺かわからないってことだったけど、あいつに限って自殺ってことはないと思うんだよな。まああれから十年も経ってるからさ、その後のあいつの人生がどんなだったかは、類推するしかないわけだけど……どうかした、カミヤ?もしかしてあんまり嬉しくて、声もでないとか?」
「あ、ああ。なんかあんまりびっくりして、にわかには信じがたいっていうか……」
前田の、教室内ではあまり聞くことのなかった明るい笑い声が響く。
「そうだよなあ。俺も最初は同姓同名の、違う大宮竜二かと思ったもんなあ。でも住所が北広島だったから、まず間違いないと思ってさ。他の連中にも電話して、ちょっと前に確認とったとこ。みんなも言ってたぜ。まず真っ先にカミヤに教えてやりたいよなって」
そのあと僕は、前田と大宮の悪口をさんざん言い合ったあと、お互いの近況など、軽い世間話をしてから電話を切った。十年も前の話だというにも関わらず、僕たちはあの頃大宮にどんなに苦しめられたかについて、二時間以上も語りあっていた。でも僕は本当は――前田に合わせてあいつのことをクソミソに貶めながらも、こんな話はできればしたくないと心のどこかで思っていた。せっかく人生に光が差してきたと思ったのに、あいつのことなんかを思いだして、そのことを汚されたくないような、複雑な心境だった。
その数日後、僕はあいつが死んだという道東の地、釧路へと車を走らせていた。もちろんあいつの死の真実を確かめるために、などというわけではない。僕の小説の出版化について、紫雀社に打診してくれた、作家の長谷川聡氏に会いにいくためだ。彼は随分前から僕のホームページのサイトへ遊びにきていて、ATSUSHIという名前(長谷川さんの本名は長谷部敦という)で何度かメールもくれていた。9.11.テロのことやイラク戦争のことなど、僕は彼が作家とは知らずに随分率直な意見を闘わせていた。
長谷川さんは釧路市の出身で、今現在も釧路に住んでいる。彼は札幌に友人が何人かいるということで、会うのなら自分から札幌に出向こうかと言ってくださっていたが、僕は一度大宮が死んだ春採湖という場所を見てみたいような気がして、事情を説明し、そこで落ち合うということになった。もし道がわからなくなったら、携帯のほうに電話をしてくれれば、とのことだった。
そこで僕は親父が何故か本を出版する記念にと買ってくれた、ホンダ・アコードに乗って札幌から350kmほど離れた東の地、釧路を目指すことにした。十月の、紅葉がもっとも美しくなる頃、僕は三十歳になろうとしていた。
実をいうと、僕が本を出版することになったと聞いて、一番喜んだのは母でも弟でもなく父さんだった。それまでは家で顔を合わせてもろくに口も聞かなかったのに、突然雄弁になりだしたのには、母さんも驚いていた。だが事情を聞いてみればなんのことはない、どうやら父さんはつい最近、愛人と関係が切れたらしいのだ。川部夏代さんもいつまでもこんな男と愛人関係をやっていても仕方ないと、とうとう肚を決めたのだろう。あるいは愛想を尽かしたのか、他に男でもできたのか、それは定かではない。
「これからは父さんも、母さんのことを大切にして少し老後のことでも考えようと思ってるんだ。これまで苦労をかけた分、定年後は夫婦で温泉巡りをしたりとか……だからユキオは自分のやりたいことを思いきりやればいいよ。母さんの面倒は、父さんが引き受けるから」
のわーにを今さら調子のいいことを、と思わなくもないけど、まあこれはこれで結末としては良かったのかな、という気がしなくもない。たぶん僕がこれまでの間に、母さんを養っていけるような収入を得られる仕事に就いていたとしたら――まず間違いなく母さんに離婚を勧めていただろう。でも結局のところそうならなかったのには、きっと深い運命的なレベルでの理由があったのだと思う。父さんが愛人と今この時期に別れることになったのも、何かそうした運命的な力の作用があったような、そんな気がしてならない。それに母さんは離婚だなんて世間体が悪いと考えるような、今時珍しい古風な女性でもあったので、これまで結婚生活の不幸を味わわせられた分、思いっきり父さんから絞りとってやればいいのだ、とも思った。もちろん僕もこれから、少しは親孝行らしいことをできるようになればと、そんなふうに考えてもいるけれど。
札幌から釧路までは約五時間半程度。途中、高速を使って飛ばせば、三時間半くらいでも行けると聞く。でも僕は日勝峠という峠を越えるのが昔から好きで、あたりの野山の紅葉などをゆっくり観照しながら運転したせいか、釧路に辿り着くまでに六時間近くかかってしまった。宿泊先は釧路川沿いに建っている大きなシティホテルで、釧路リバーサイドホテルというところ。その七階の窓からは、釧路川の河口に夕陽が赤く沈んでいくのが見えた。また北海道の三大名橋と言われる幣舞橋も、どこか情感をたたえて美しかった。漁船が何艘も停泊している港や、夕焼け空をゆくカモメたち……川を挟んだ向こうには、フィッシャーマンズマーフと呼ばれる観光デパートが建っている。夜はこのフィッシャーマンズワーフという建物と幣舞橋とがライトアップされて、とても美しかった。何度か、TVの天気予報などで見たことのある光景だった。
長谷川さんとの待ち合わせは、明日の午前十一時。
春採湖という場所が釧路のどこらへんにあるものなのか、もう一度地図でチェックしておく。彼は電話で「遠慮しないで、うちに泊まればいいよ。夫婦ふたりで部屋は余ってるから」と言ってくれたけど、やはりホテルに泊まることにしておいてよかったと思った。六時間近くのドライブで、何故か後頭部のほうが強い熱を持っているのがわかる。
時々、パソコンに向かいすぎた時などに、目が疲れると出る症状だ。大したことはない。少し目を休ませてやればすぐに回復する。僕はシングルの部屋のベッドにどさりと横になると、サングラスを外してナイトテーブルの上に置いた。ついでに、手早くタイマーを明日の七時半にセットしておく。こういうものの作りは、どこのホテルも似たりよったりだなと、ふと思う。
やがて僕の意識は混濁し、快い眠りへと落ちていった。夢の中で、『ならくの底におちたふたり』というタイトルの日本映画を見ているという夢を見たけれど、いまひとつよく内容のつかめない映画だった。そして次の日、僕はホテルの一階にある軽食喫茶『そよ風の夢』で、その夢が何を示唆するものだったのかについて、考察した。
『ならくの底』というのがどうも、湖の底を僕に連想させたためだ。といっても、夢の内容は大宮という男の存在とは、まるきり関係がなかったといっていい。僕が夢の中で見たのは、こんな内容の映画だった。
まず最初に昔の日活映画みたいな雰囲気で、黒のバックに白抜きの文字で『ならくの底におちたふたり』というタイトルが出てくる。どうやら時代背景は平安時代とか、そのへんあたりらしい。上等の着物を着た男と女が平安京のような都を見下ろしている。宙に浮いているところを見るとこのふたり、人間ではないらしい。男は口を開かないが「人心を惑わしてくる」と、心の中で女に言う。女は頷くと、すいっと地上に着地し、男のほうはそのまま空を飛んで、京の都へと入っていく。
とぼとぼと田舎道を歩く女。あたりの田園風景が透きとおるように美しい。そしてふと目をやると、農家の傍らで子供たちがわらべ歌を歌っている。子供たちは女の存在に気づくと、わらわらと寄ってきた。女があまりにも美しく、その上上等な着物を身に纏っているためだ。女は子供たちと一緒になって遊ぶ。だがあたりは夕焼けの色を次第に濃くし、ひとり、またひとりと子供たちは家へ帰っていく。だが最後に残った男の子供が、女にこう言う。
「オラ、あんたの子供さなりてえだ」
女は優しげに微笑み、心の中でこう思う。
(ああ、あの人との間に、こんな子供がいたらどんなにいいか……)
「じゃあ明日、この場所でもう一度会いましょう。そうしたら、あたしたちの家へ連れていってあげる」
「本当!?」
顔を輝かせる、七つくらいの子供。身なりなどから察するに、かなり貧しい暮らしをしている様子。しかもこの女には読心術の心得があり、その子供が親から疎まれているということも、すぐにわかってしまうのだった。
「絶対に、約束だよ!」
満面の笑顔で駆け去る子供に女は手を振るが、女はあの子供を自分たちの<仲間>にする気はないのだった。
(あの子を自分たちの<仲間>にすることはできない。奈落の底で永遠に生きるということがどんなことか、あの小さな子供にはわからないだろう。そこに落ちれば、永遠に年をとることもなく、お腹をすかせるということもないのだけれど……ああ、でも!それがどんなにひどいことか、あんな小さな子供にはいくら説明したってわからないだろう)
本当は、女は子供が欲しかった。女はあの男のように人心を惑わせたり、夜な夜な異性をたぶらかすというようなことにはまるで興味がなかった。本当はあの男とふたりで奈落の底で静かに暮らしていたいのだけれど、いかんせん男のほうは京の都という場所が好きで仕方がない。
女は黄金色の景色の中を、元きた道へと戻っていった。あの子供が明日ここへきても、自分は決してくることはないだろうと、そんなふうに思いながら……。
ここで場面は不意に、僕の家の居間の中となる。僕はソファーに座ってTVを見ていて、今見た映画についてこんな感想を洩らすのだった。
(映像は圧倒的なまでに美しいけれど、いまひとつよくストーリーのつかめない映画だな)と――。
窓際の席に腰かけて、通りをゆく車を眺めながら、僕はホットサンドに噛りつき、きのう見た夢のことを不思議に思っていた。夢の中にでてきた女性は、決してレッドに似てはいなかったけど、彼女の着ていた着物が<赤>だったというのが妙に引っ掛かった。だが自分の過去や現在の状況といったものをいくら夢と関連づけて考えようとしてみても、何も重なり合わないのだった。ただひとつ、<罪>という概念を除いては。
夢の中のあの女性に読心術の心得があったように、あの女性が何を考えているか、どういう女性なのかということが、僕にはよくわかっていた。ただし、僕はあくまでものこの映画の傍観者であって、あの女性に意識が半分乗り移っていたとか、そういうことではない。
どうも、あのふたりは何か大きな罪を犯して奈落の底に落とされることになったらしい。だが男のほうはその刑罰を<素晴らしい刑罰>だと考えていたようだ。永遠に老いないし、遊んで暮らせると。だが女のほうは奈落の底で暮らして、神さまに毎日祈り、許しを乞うような生活をひっそりと送りたいと心の底では思っているのだった。
この<罪>の意識――これは、僕がレッドに対してずっと抱き続けていたものだった。普段は忘れたふりをして生きているけれど、僕は彼女のことを忘れたことはなかった。もちろん何かにつけて彼女のことを思いだしたりしていたわけではないけれど――それでも、喉に小骨が引っ掛かっているように、忘れたことはなかったのだ。
僕は時々、変に抽象的な夢を見ることがあるけれど、大宮の夢だけは何故かこれまで一度も見たことがなかった。おそらくそれは夢でさえも絶対に会いたくない人物が大宮だからだろうと、僕は勝手にそんなふうに思っている。もちろん自分の無意識の領域に属するものをそんなふうにコントロールすることなど、誰にもできはしない。夢の中のあの男は大宮なんかよりも百倍も格好いい美丈夫だったけど、おそらく彼は僕の心の中の大宮的なものの一部なのだろう。どんな罪を犯そうとも許されると、彼はそう信じている。つまりレッドのあの事件は僕が直接引き起こしたわけではないから責任を感じる必要はないと、僕は心のどこかでそんなふうに思っていたのだろう。そしてあの女性はたぶん、僕のレッドに対する罪悪感の象徴なのだ。それから子供が欲しいのにいないということによって、女は自分に罰を加えてもいた。あの七つくらいの男の子を<ならくの世界>の仲間にすることもできるけれども、あえてそうしない――それは、僕がなるべく女性を遠ざけるようにしてこれまで生きてきたことに重なる。僕は今に至るまで、決して女性とまるきり縁がなかったというわけではなかった。むしろ、自分からうまく持っていけば、女性とつきあう機会には何度か恵まれていた。でも意を決してそうすることができない何かが、心の中にいつもあった。それがレッドだった。自分のことが原因でひとりの女性を奈落の底にまで突き落としておきながら、自分だけ幸せになることはできないと――僕はもしかしたら無意識の底で、そんなふうに考えていたのかもしれない。
ホットサンドにコーヒーという朝食をとりながら、僕はそんなふうにきのう見た夢のことを分析していた。そして思った。札幌へ帰ったらレッドの居所を突きとめて、なんとしても一度彼女に会いにいかなくてはならないと――。
春採湖という湖には、九時半ごろ到着した。湖を見下ろす丘の上に博物館と青少年科学館とがあり、そこの駐車場に車を停めて、僕は丘を駆け下りると、湖を巡るハイキングコースを少し歩くことにした。
長谷川さんとはボートが幾艘も繋留してあるボート乗り場で十一時に待ち合わせということになっている。
僕が一時間半も早くこの湖へやってきたのは、大宮のことを考えるためだった。いや、あいつのことなど本当はこれっぽっちも考えたくはないし、あいつが沈んで死んだという湖に向かって「ざまあみろ!」と叫びたいのが本音だった。でも実際に湖へやってきてみると――あいつは何故こんな場所で死んだのだろうと、不思議になった。周囲4.7キロメートル、面積36.1ヘクタール、水深2.3メートル(最深5.7メートル)……ハイキングコースのあちこちにある掲示板を見上げながら、僕は青く光る湖面を眺めた。そして散策の途中、水際に不気味なくらい大きなコイがいるのを見て、一瞬ギョッとした。他に黒や茶色のガンやカモなどもいて、餌をくれると思っているのかどうか、しきりに僕のほうをじっと見つめていた。遠くから、物凄い勢いでこちらへやってくるカモまでいる。本当はその微笑ましい光景をもう少し眺めていたいような気もしたけど、「エサおくれ」と無言で催促されているような気がして――あんまり期待させては悪いかなと思い、その場をあとにすることにした。
ドロノキ、オオツリバナ、ミヤママタタビ、エゾニワトコ、エゾスグリ、エゾヤマザクラ……などなど、樹木に時々名前の書かれた板が掛かっているのが見える。自然の豊かないい場所だなと僕は思ったけど、どうもこの湖は特別、釧路の観光名所というような場所柄ではないらしい。どちらかというと、一般市民の憩いの場という色合いのほうが強い場所のようだった。
あいつがもし、台風が近づいてきている時にサーフィンをしようとして海で溺れ死んだとかそういうことだったら――僕もおそらく納得しただろう。『あいつらしい馬鹿な死に方だ』と。しかしこんな札幌から350kmほども離れた場所で、あいつがひとりでボートに乗る理由というのを、僕はどうしても思いつけなかった。それで一時間半ほどハイキングコースをいったりきたりして鈍く光る湖面を眺めながら、あいつにも何か人生でつらいことがあったのだろうかと、ちらと考えはじめていた。
でも僕はハイキングコースの途中にいくつかある地蔵の前で膝をついてあいつのために祈ってやろうなどとはこれっぽっちも思わなかったし、あいつの人生があれからどんなだったにせよ、自分には関係のないことと、思考の扉を閉ざすことにした。
大宮がいなくなった放課後の教室で、よく女子がこう言っていたのを思いだす。あいつが暴走族仲間の単車に乗って騒がしく消えたあと、
「あんな奴、死ねばいいのにね」
一体何人の女子が窓に向かってそう呟いたことだろう。男子たちは誰かの告げ口が怖いので、あいつが消えたあとでさえ、滅多に悪口というものを言ったことがなかった。
(――あんな奴、死ねばいいのに)
そうだ。あいつが死んだのは多分、そうした多くの、あいつに迷惑をかけられた人間の呪咀によるものだったのではないか?そう結論づけると、僕は何故か心の中がすっきりとクリーンになっていくのを感じた。あとは魂に刺さった小骨をとり除くため、なんとしてでもレッドのことを探しだして会いにいけばいいと思った。そして土下座して彼女のことを守れなかった不甲斐ない自分のことを許してもらおうと思った。
「やあ、待った?」
ボート乗り場のそばにあるベンチでぼうっと考えごとをしていると、痩身の、僕と同じくらいの背丈の男性が、昔からの知己に挨拶するように、そう軽く声をかけてきた。
本に載っている著者近影と同じく、彼はスマートでハンサムだったけれど、実際には写真よりもっと若く見えた。僕と同じ三十歳とはとても思えない。
「いえ、大してそんな待ってません」と僕は嘘をつき、サングラスを外した。僕は大分以前から髪を女のように伸ばしているので、すぐにわかるはずだと彼には言ってあった。
「一応、初めましてかな。まあなんだか変な感じだよね。メールで結構やりとしているせいか、初対面っていう感じもあまりしないし……前からずっと、一度は直接会ってみたいと思ってたんだけど」
「僕もです」
そう言って僕がベンチから立ち上がると、彼は親しみやすい笑顔で微笑み、ベンチにゆっくり腰かけた。僕も、もう一度<雪印アイス>と背もたれに書かれた、青いベンチに腰を下ろす。
「同級生が、ここで亡くなったんだって?」
長谷川さんはとても落ち着いた、ゆっくりした口調でそう聞いた。ここを待ち合わせ場所に指定した時、理由については軽く説明してあった。
「はい。メールにも書いたんですけど、僕そいつのことが大っ嫌いだったんです。だからこの場所へきて、一言ざまあみろって言ってやりたくて……もしかしたら長谷川さんは後悔するかもしれないけど。こんな心の狭い奴を自分は作家として推したのかって」
「そんなことは思わないよ」長谷川さんは人好きのする微笑みを浮かべながら言った。「それに作品の質とその作家個人の人柄っていうのはまた別ものだからね。神谷くんも、そういう意味ではちょっとがっかりしたかもな。本に載ってる写真とかは、比較的映りのいいのを使ってるからね」
「そんなことないです。逆にイメージそのものですよ。僕、いつも思ってたんです。長谷川さんは色々な意味でバランスがとれてて羨ましいって。旅行記とかエッセイって、やっぱり人柄が滲みでるものじゃないですか。長谷川さんの本はどの本を読んでも面白いんですよ。僕はわりと、その作家の代表作と呼ばれるものだけ読んで、結構わかったつもりになっちゃう奴なんだけど、長谷川さんの本は全部持ってます」
「ありがとう」長谷川さんは、また優しく微笑みながら言った。
「僕も、神谷くんの小説は全部読んでるよ。まさか、こんな形で会うことになるとは思わなかったけど……ただ金井さんに面白いから読んでみてって、神谷くんのホームページのアドレスを教えただけなんだ。そしたら彼女、例のとおりすっかり燃えちゃってね。だから神谷くんは僕に対して恩に切る必要なんか実は全然ないんだよ。実際にはすべて、君の実力なんだから」
「それでも……」と、僕は口ごもるように言った。「やっぱり長谷川さんには感謝してます。なんていうか、僕、急に……長谷川さんが声をかけてくださってから、色々運が上向きになってきたように自分では感じるんです。家族仲もうまくいくようになったし、新品の車を親父に買ってもらったりとか……それに、ずっと憎んでいた奴が死んでくれたり」
春採湖の藍色の湖面を、じっと睨みつけるようにしながら、僕は言った。本当に、あいつはなんでこんな場所で死んだりしたのだろう?湖面はゆったりと凪いで、人間の側で何もしさえしなければ、これといった害を及ぼさなそうに見えるのに。
「ここの湖って、荒れることがあるんですか?」
ふと、疑問に思ったことを口にしてみた。長谷川さんは隣で、軽く肩を竦めている。
「さあ、どうかな?僕は生まれた時からこの土地の人間だけど、台風が近づいている時とか、そういう危険な時はボートなんか出さないだろうし……でも、僕の記憶が間違っていなければ、そういう事故はこの湖で何回か起こってるね。大体、忘れたころにそういう事故が起きてると思う。僕が高校生の時も一度、友達の同級生が死んでるよ。そいつの場合はボートの上でふざけてて転覆したらしい。しかも泳げなくて、何人かいた友達のうち、その友達の同級生だけが死んだんだ」
僕はすぐ目の前の、ボート乗り場の受付の人に、詳しい事の経緯を聞くべきかどうかと迷った。それで、暫く沈黙したままでいると、
「ボートに、一緒に乗ってみるかい?」
と、長谷川さんが言った。僕は傘のついたボートや、水色のボートの幾艘かに目をやり、そして首を振った。彼とふたりでボートに乗るのが嫌だというわけでも、男ふたりでボートに乗ってホモと間違えられるのが嫌だったというわけでもない。ただ、僕はなんとなく怖かったのだ。ふと広い湖の真ん中あたりでボートを止め、湖面を覗きこんだら、大宮の顔が見えるのではないかと……そしてそのことに驚いた拍子に、ザブンと湖の中へ落っこちるとか、何か不吉なことが起こりそうな気がしてならなかった。触らぬ神――いや、鬼か悪魔――に祟りなし、だ。
長谷川さんはとても気さくな人で、大上段に勿体ぶったところもなく、メールでのやりとり同様、とても話しやすい人だった。僕たちはそれから場所を移し――春採湖を望むレストランの二階で、小説のことなどを大いに語りあった。そして彼に是非家に泊まっていけと誘われて、緑ケ丘の平屋の彼の自宅に、その日は泊めてもらうことになった。奥さんは図書館の司書をしているということで、毎月最低でも十冊以上は本を読んでいるということだった。そのせいかどうか、日本文学・海外文学問わず、実に本の話でその日の夜は盛り上がった。僕は漫画やゲーム、映画の話などで職場の同僚と盛り上がったことはあっても、小説という分野で誰かとこんなに盛り上がったのは初めてだった。
ただ、夕食の時に中華なのかフレンチなのかはたまたメキシコ料理なのかいまひとつよくわからない味の、凝った料理をだされてちょっと戸惑ったけど――たぶん味のわかる人にはわかるのだろうと思い、とにかくどれもこれも「美味しいです」と言ってもりもり食べた。
「嬉しいわ、やっぱりわかる人にはわかるのね。うちの主人は味覚オンチなせいか、もっと子供っぽい料理を好むの。カレーライスとか、ハンバーグとか……いつも作り甲斐がなくて困ってるのよ」
溜息を着いている奥さんに対して、長谷川さんは終始無言だった。僕に対しても「そんなに無理することないよ」と、奥さんが席を立った時などに小声で囁いていたっけ。
「うちのワイフがだすものの中で美味しいのは、唯一食後のコーヒーだけなんだから」と。
そして長谷川さんの言っていたとおり、食後に夕子さんが入れてくれたエスプレッソコーヒーは、とびきり美味しかったのだった。
翌日の九時ごろ、僕は長谷川さんの家を出、一路札幌を目指した。朝食は長谷川さんが手ずから作ってくれたのだけれど、彼の作った料理はどれも絶品だった。鮭のムニエルにプレーンオムレツ、タコさんウィンナー、ささみのサラダ……長谷川さんがもし女性だった
ら、僕は即座に求婚していたに違いないとさえ思った。そして隣で夕子さんが「まあまあ美味しい」というようなことを言っているのを聞いて、僕は誰が味覚オンチなのかを、はっきりと悟ったのだった。
夕子さんが至極当たり前のように旦那さんの作った朝食を食べて図書館へ出勤するのを見て、僕はとても羨ましいと感じた。それでそう感想を洩らすと長谷川さんは、
「一応、人がいるからね。格好悪いところを見られたくないっていう、ただそれだけさ」
と、少し照れたように言っていたっけ。
僕も、落ち着いた家庭人になりたいと願っているけれど――そんな日が果たしていつかやってくるのかどうか、自分でも甚だ疑問だった。
>>続く……。