表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第4章

 高校での三年間は、僕の人間性や魂といったものをすっかり駄目にしてしまった。おそらく似たような経験をしたことがある人にならわかるだろうけど、大切な思春期に三年間も刑務所にぶちこまれていたようなものだ。そして毎日不安と緊張と胃の痛みに耐えつつ、最後に僕が勝ちとったものといえば――それはただ<虚無>の二文字に過ぎなかった。あの三年を耐えたことによって忍耐力や我慢強さ・持久力・根性といったものが身についたかといえば決してそうではなく、むしろその逆だった。

 高校を卒業後、僕はアルバイトを転々とした。最初は正社員の仕事を探していたのだけれど、面接は受けても受けてもとにかく落ちまくった。もちろんそれは就職氷河期と言われて久しかったせいもあるだろうけど――何もそればかりではない。僕は自分に自信がない、ビクビクオドオドした態度をうまく隠しとおすことができなかった。それにあの高校生活の三年は、対人恐怖という負の遺産を僕に残しており、その後どのアルバイトをしても長続きはしなかった。

 コンビニやハンバーガーショップの店員、家電売場の店員、警備員、携帯電話のキャッチセールス、ビラ配りに水産加工員……僕は十八歳から二十三歳までの約五年、数えきれないほど多くの職業に

就いた。

 本当は手に職をつけるのが一番よかったのかもしれないけど、僕は中学卒業時に考えていたタイル職人や大工、左官屋や塗装工の見習いといった職業につくことはもう無理ではないかと諦めていた。何故かといえば、ああした現場には大宮2世とか大宮3世といった雰囲気の職人が、多数いるように思えて仕方なかったからだ。もちろんそれは僕の独断と偏見、ただの被害妄想的な決めつけであったかもしれない。でも警備員のアルバイトをしていた時に、建設現場などで僕はあいつと極めて似たタイプの人間を多く目撃していた。母などは「結局のところユキオは、中学を卒業してすぐ働きはじめても駄目だったに違いない」というようなことを遠回しに言ったけど――僕は、すべてはあの三年がいけなかったのだということを知っている。高校の時に大宮なんていう奴と知りあいさえしなければ、僕は昔優等生だったように、今ごろどこかひとつの職場に腰を据えていたに違いないと、そんなふうに思うのだ。


 母の神谷朝子はしょっちゅう僕が転職ばかりするので、「ユキオの人生はもうおしまいだ」というようにさえ感じていたらしい――僕が二十歳になる頃には。また彼女の悩みの種は僕ばかりではなく、父のこともそうだった。父は以前として川部夏代と愛人関係を結んでいるらしく、やれ接待だなんだといっては、帰ってくるのが二時過ぎだった。

 一度など、母は脇の下に口紅のべったりとついた父のワイシャツを廊下に放りだし、「出掛けるのなら、ついでにそれをクリーニングにだしておいてちょうだい」 と、玄関でスニーカーを履いていた僕に言い放ったことさえあった。ようするに多分それは、こういうことだったのだろう。あたしだってのほほんと専業主婦しているわけじゃなく、そういう悩みだってあるのだから、あんたももうちょっとしっかりしてちょうだいと、そう母は間接的に言いたかったのだと思う。

 僕は父のストライプのワイシャツを手にとると、本屋にいく途中にある、クリーニング店にそれを出すことにした。そして道々こう考えた――ー体どのような行為をすれば、ワイシャツの内側、その脇の下あたりに口紅がつくのだろう。もしかしたらそれはこういうことではないのか?愛人である川部夏代が、本妻である母に、「奥さん、あなたの旦那さんは浮気してますよ」とメッセージを送ってきたということなのではないだろうか?「もうそろそろいい加減、別れてください」と。

 父は一体どういう神経をしているのかまったくわからないが、とにかく浮気疑惑が浮上するたびに、「そんな事実はない」と知らぬ存ぜぬでしらを切り通していた。

 長男の僕としても「いいかげん、ネタは上がってるんだぜ、旦那」と十手で頬をペタペタやってやりたいような気持ちになることもあったけど、それはやはり夫婦間の問題であり、子供の僕がとやこう口を出すべきことではなかった。

 父は父、母は母、僕は僕なのだと思っていた――まだその頃は。


 僕がひとつの職場で長く勤められない理由は、人に説明するのがやや困難だった。高校の三年ですっかり対人恐怖に陥ったということももちろんあるのだけれど――僕の対人恐怖の現れ方は、微妙に奇妙だった。

 たとえば僕は二十三歳になるまでの間に、コンビニ、ハンバーガーショップ、本屋、家電製品店などで接客のアルバイトをしたことがあるのだけれど、そもそも対人恐怖症の人間が<接客>という職種を選ぶこと自体がおかしいのではないかと思う人があるに違いない。それはつまりこういうことだった――高校を卒業後、僕はなんとか<以前の自分>に戻りたいように考えていた。小・中学生の時、毎日学校へ通うのが当たり前であり、普通であったあの頃に帰りたいと、そう切望していた。でも何故かはわからないけれど、それはもはやできないことだった。

 毎日僕はアルバイト先に通うのが苦痛であり、高校の時にもそうだったように、条件反射的に胃がきりきりと痛んだ。心の不安が胃の痛みという症状として現れる――僕はそんなふうに自己分析していたけど、その不安の元を解消するにはどうしたらいいのかということがわからなかった。十八〜二十三歳頃の僕の対人恐怖は、症状としてはそれほど重くなく、僕自身も軽いうちにこれを乗り越えなくてはと思い、一生懸命働こうとした。けれども問題は<客>ではなく、常に職場内での人間関係が問題となるのだった。

 もしコンビニや本屋、ハンバーガーショップなどに大宮みたいな連中がやってきたとしよう。でも僕は全然平気だった。何故なら店にはそういう客に対するための<マニュアル>があるからだ。そこでとにかくひたすらペコペコ頭を下げ、しおらしい顔をしていればいいのだから、簡単なものだ。ここらへん、あの三年で負け犬根性が染みこんでいる僕は、実に平気だった。むしろそうした腰の低い卑屈な対応こそ、僕の得意とするところだったといってもいい。しかし客の去っていった店内における人間関係に、マニュアルなどというものは存在しない。<接客>という仕事面においては、僕は実に明朗快活だった。けれども、客のいなくなったあと、隣にいる自分の同僚や上司に、どんなことを話したらいいのかがさっぱりわからなかった。もちろん何かかにか仕事をしている時はいい。でも昼休みともなると、共通の話題を口にのせるのに、とても苦労した。みんなが何人かで和気あいあいと盛り上がっていても、間に入っていくということがどうしてもできなかった。時々話を振られても、「ああ、うん」とか、何かそんな感じで終わってしまい、言葉が続けてでてこなかった。

<ある種の、言語能力の喪失>――それをどうやって克服したらいいのかが、僕にはさっぱりわからなかった。考えてみればあの三年、僕は自分の意見を言ったことなど、ほとんどなかったと思う。「ユキちゃん」と親しげに接してくれた女子たちにも<何か用事>があった時しか、自分から話しかけたことはない。大宮を怖れていた男子たちにも同様だった。その中で唯一レッドだけは別だったけど、それもほんの短い間のことだった。

 そんな僕が唯一自分の本音を吐露することができるもの――それがインターネットのホームページだった。HPの名前は『太陽と負け犬』。僕は中学二年生くらいの頃から小説を書きはじめており、二十三歳になる頃には、その作品数は二十を越えていた。HPの画面の太陽をクリックするとそれらの小説のリストがずらりと表れ、汗をかいた情けない雑種犬をクリックすると、『負け犬日記』という僕の日々の愚痴を書き綴ったものが表示されるようになっている。


 七月七日

 またしてもバイトを辞めてしまった。前にも書いたけど、今回もまた人間関係がうまくいかなかったためだ。いや、<うまくいかない>という言い方はおかしいかもしれない。僕にあるのはただ<自分がそこにいてはいけないのではないか>という強迫観念だけだ。

 そして今回もまた、その強迫観念に負けてしまったというわけだ。とりあえず、何週間か自分のことを休ませてあげたいと思う。そして小説を一本書き上げてから、再び職探しをすることにしよう……。


 こうした僕のつまらない愚痴日記に対して、「その気持ち、わかる」という人がメールをくれることもあれば、「甘ったれるな」と叱責する人が現れることもある。僕の小説や日記を読んでくれる人は、当時そんなに多くはなく、小説の新作を発表するたびにすぐ返事をくれる人は四、五人程度だった。愚痴日記にリアクションをくれるのは一日に多くて二、三人程度。誰からもなんの返事もこないということもよくあった。

 そしてその中で、僕の小説をすべて読み、日記も毎日読んで返事をくれるようになっていた女の子と――僕は直接会ってデートをすることになった。彼女の名前は松林陽子さんといって、札幌の某デパートの化粧品売場で働いているとのことだった。

 正直いって、僕にとってそれは初めてのデートだった。二十三歳にして、生まれて初めてのデート。しかも彼女は僕の小説をすべて読んでくれていて、日記の愚痴にもいつも共感的な返事をくれることが多かった。

 恥かしい話だけれど、僕は自分がその子と結婚することになるかもしれないと、会ってもみないうちから想像していた。彼女のメールは語調がいつも柔らかく、いかにも優しそうな感じのする人柄がよく表れていた。きっとこの娘なら自分のことをわかってくれるに違いないと、僕はそんなふうに思いながら、人生最大の勇気を持って松林陽子さんに会いにいくことにした。


 待ち合わせ場所は、街中にある彼女の勤めるデパートだった。事前に互いの顔写真を送りあってはいたものの(松林さんは化粧品売場に勤めているだけあって、とても可愛かった)、それだけではわからないかもしれないから、何か目印になるものとして、僕はサングラスを、松林さんはヴィトンのモノグラムのバッグを持っているということにした。

 パルコの入口に先に到着したのは僕のほうで、松林さんは待ち合わせの時間より十分くらい遅れてやってきた。彼女は僕と同じ二十三歳ということだったけど、もっととても大人びて見えた。メイク術を完璧にマスターしたようなナチュラルな化粧に、薄茶のショートカット。小柄で背があまり高くない彼女は、中ヒールのパンプスを履いていた。服はバーバリーのワンピース。

 それに引き換え、僕はジーンズに宇宙人が円盤に乗っているプリントのTシャツという、実に冴えない格好だった。八月の炎天下、スーツを着るのは暑苦しいと思ったし、それならいつもの普段どおりの自分を見せたほうがいいような気がしたのだ。

 松林さんはそんな僕の気後れを察知したのか、「思ったとおりの人」だと、会った瞬間から何度となく称賛してくれた(本心かどうかはわからないけど)。そして僕たちは初対面であるにも関わらず腕を組んで歩き、映画を観て、それから食事をした。彼女はとても人懐っこくて、決して人のことを批判することもなく、僕が自分の書いているものの欠点はここだと思うという話をしても、「そんなことないわ」と否定するばかりだった。

「ユキオさんの書いてる小説、わたしとても好きだわ。人生に対する深い省察があって、ユーモアセンスが光ってて、最後は必ずハッピーエンドなの。この人はきっといつかプロの作家になるだろうって、わたし本気でそう思ってるのよ」

 松林さんがあんまり僕の書くもののことと、僕自身のこととを褒めちぎるので、僕は穴があったら入りたい思いを、デパートのレストランで味わっていた。

 でも結局この日、僕はあるふたつの点において、彼女に対して大きな失望を味わうことになった。ひとつ目は彼女が「どんなにひどいことがあっても、人の本質は善なのだと思う」と言ったこと。ふたつ目が「あまりそういう経験ないんでしょう?」と言って、僕の

ことをホテルへ誘ったことだ。

 今でも時々僕は、あの時彼女に誘われるがまま、黙ってススキノのラブホテル街へ入っていればよかったのかもしれないと、悔やむことがある。たぶん、その前に彼女が<善>なんていうくだらない話を持ちださなければ、すっかり彼女に夢中になっていたかもしれない。でも結局僕は「また今度」なんていう間の抜けた返事をして、松林さんの前から走って逃げることしかできなかった。

 真っ昼間からホテルに誘うなんて――それも女のほうから――という気持ちが少しと、彼女と自分の物の考え方があまりに違いすぎることに対して、それをどう修正して説明すべきなのかが、僕にはさっぱりわからなかった。そんなことはやってから考えればよかったのかもしれないけど、僕はどうしても松林さんの<善>というものに対する考え方が受け容れられなかった。つまりそれはイコール彼女という存在のすべてを受け容れられないということだった。

 きっと松林さんは知らないのだろう。僕たちの身近にいつでも<おぞましい悪>というものは存在しており、彼女の言う薄っぺらな<善>が剥がれ落ちた時、それがどれほどの勢いで表出してくるか、なんていうことは。


 松林さんからは、それから二通の心のこもったメールが届いた。

「真っ昼間からホテルに誘うだなんて、最初からそのつもりだったのかと思われるかもしれません。でもそうではなくて、ユキオさんがあまりにも思ったとおりの人だったから……」というような内容のものが一通と、「もし気に障ったところがあったら、はっきり言ってください。これから自分の性格を直すための参考にしたいので」

という内容のメールが一通。

 僕は松林さんに、あなたは自分には勿体なさすぎる人だと思う、だから他の人を探してくださいというようなメールを一通送信した。それからあなたの性格に直すべき点を僕はひとつも見つけはしなかった、というメールも、その次の日に送った。

 たぶん僕が思うに、松林さんはとても<いい人>過ぎるという点が、もしかしたら唯一の欠点だったのかもしれないと、そんなふうに感じる。僕のことをホテルに誘ったのも、言ってみれば<善意>からだったのだろう。そしてそういう善意にあふれた人を自分が傷つけてしまったということに対して、僕は深い失望感を自分自身に感じた。考えてみれば、高校時代以来、僕はそうした心優しき人々の善意を裏切り続けてきた。女子たちが「ユキちゃん」と親しげに近づいてきてくれても、僕は大宮のことが怖くて、彼女たちと<本気で話す・素の自分をさらけだして話す>ということがほとんどできなかった。同じクラスの男子連中対してもそうだ。こちらは確かにお互いさまという面があったに違いないけど、レッドに対して僕は……彼女の示してくれた<善意>に何故応えられなかったのかと、今でも気分がひどく落ちこんだ時などに、涙を流しながら悔やむことがあった。


<他人の善意に応えられない病>――そんな奇病がこの世にあるとは僕にも思えないけど、社会人になってからも僕は、その病気に患わされ続けていた。

 結局のところ、僕が職を転々とし続けているのは、その精神的な病いのせいといっても過言ではなかった。これは僕の気のせいではなく、大抵の職場で僕の受けは非常に良かった。ただし、それは最初のうちだけ、という期間限定付きではあったけど。そういうのって結構、すぐにパッとわかるものだ。

「あ、いい感じの人が入ってきたな」という印象を大抵の人が僕から受けるらしいのだが、その後はサッパリというか、自分が思っていた人とは違うみたい、というような流れになってしまうことが多い。それは何故か?僕がプライヴェートなおしゃべりといったものを極端に敬遠するからだ。いや、話したいけどどういうふうに話したらいいのかがわからないと言ったほうが正しいかもしれない。

「あの人って、仕事の話はするけど、それ以外ではほとんど何もしゃべらないよね」とか、「あいつ、ちょっと変わってるよな。客には愛想いいけど、俺たちとはあんましゃべんないじゃん」とか、「この間、話しかけたら無視されちゃってさー」 というような感じに、そのうちだんだんなってくる。もちろんそのくらい耐えろと言われればまったくそのとおりなのだが、だんだんいずらくなってくるというのが、僕にとってはどうにも耐えがたく、苦痛なのだ。

 人から何かを聞かれても、僕は必要最低限のことしか答えられいことが多い。そうすると向こうもだんだん「ああ、そうデスカ」という感じになってくる。もしかしたら僕だって逆の立場だったとしたら、誰かに対してそういう態度をとったかもしれない。

 そして僕はとうとう――二十四歳になる誕生日の直前から、家に引きこもりがちになった。


 といっても、僕の場合はいわゆる完全な<引きこもり>というのとは事情が微妙に違った。図書館や本屋など、出掛けたいところがあれば出掛けたし、それまで色々なバイトで稼いだお金は浪費せずに貯蓄してあったから、そのお金を少しずつ削りつつ家に篭城していたとでもいおうか。

 ただし、いつもはバイトを辞めても三か月もすれば働きにいく僕がいつまでも何もしないのを見て、母さんは非常に機嫌を悪くした。僕が二十四歳から二十六歳になるくらいまで、神谷家は実に荒れていた。父さんと母さんの間の仲はとり返しのつかないほど冷えきっていたし、僕は僕で一日中家にいることがほとんどで、母さんにとって唯一まともだったのは、弟の章一郎だけだっただろう。

 弟は高校を卒業すると、私立の薬科大に入学し、それと同時に家を出ていた。章一郎は私立でなくても、もっと他にハイランクの大学を目指せたはずなのに、何故か「絶対にその大学がいい」と言って譲らなかった――父さんも母さんも知らないだろうけど、僕は何故彼がその大学に固執したのかを知っている。それは早くこの家を出ていきたかったからに他ならない。

 考えてみると、神谷家はもともと間違った場所に立脚している家だった。父さんはたぶん、愛人の川部夏代さんという人ともともとは結婚したかったのだろう。詳しい事情はよくわからないけど、それが何かの間違いによって母さんとお見合いして結婚することになった。そこで父さん自身、自分が間違ったことをしているとわかっていながら、「もしも俺が夏代と結婚していたら……」という夢を捨て切れないでいるのかもしれない。

 もちろんそんな男の身勝手としか言いようのないとばっちりを食った母さんは、不幸としか言いようがないだろう。そして僕と弟の章一郎も、少なからずその不幸を一緒に背負うことになった。

 父さんは、母さんに対して冷たいだけでなく、僕たちふたりの子供に対しても、必要最低限の愛情しか与えてはくれなかった。言ってみればまあ「必要最低限でも与えてやっただけましだと思え。世の中には親に虐待されてる子供だっているんだぞ」というわけである。でも子供としての僕の言い分はこうだ。

「必要最低限の愛情なら、いっそのこと与えられないほうがましだったのに」

 おそらく、多くの人が何をもって<必要最低限>というのかがわからないと思うので、少し説明したいと思う。僕の父である神谷裕一郎は、僕や章一郎が小さな頃から、どことなくよそよそしかった。うまく説明できないけど、愛情表現が不器用とかそういうことではなく、とにかく他人の子供に対するように<よそよそしい>のだ。

 たとえば小学生の時の運動会にしたってそうだ。父はどこか義理で出席しているといったような感じで、僕が駆けっこで一等賞をとっても、少しも嬉しそうではなかった。僕の成績が常にあまり良くなくても怒るでもなく、章一郎がどんなにいい成績をとっても、型どおりに褒めるだけだった。

 ここのところはもしかしたら、僕よりも章一郎のほうがよくわかっていたかもしれない。少し意地悪な見方かもしれないけど、父さんは章一郎が何度入院しても、一月に一度、病室に顔を見せればいいほうだった。もちろん彼も「お父さんは仕事が忙しいから」という母の言葉を信じてはいただろう。でも僕は――もし章一郎が喘息で亡くなったとしても、父さんは果たして泣いただろうかと、不思議に感じることがある。いや、世間体を憚って、泣くふりくらいはしたに違いない。でも本当に魂が張り裂けるほど悲しいと思ったかどうか……僕は未だに疑問に思う。


 父が浮気をやめず、僕が一日中家にいるという異常な中で、母のストレスとイライラ感は頂点にまで募っていった。かといって、見栄っぱりの彼女は友達や親戚などにそうした家族の悩みを打ち明けたりはできなかっただろう。となると当然、一番当たりやすいのは僕ということになる。

「あんたは、これから一体どうしたいの」

 母は何度も繰り返し、僕にそう訊いた。そして僕の答えはいつも同じだった。

「貯金のあるうちは家にいるけど、必ず働きにでるから心配しなくていいよ」

 それでも母にしてみれば心配だったのだろう。クレーン教習所に通ってみてはどうかとか、その他トラックの運転免許を取って長距離の運転手になってみてはどうかとか、新聞にその手の公告が載るたびに、それを切り抜いて僕に見せるのだった。

 もちろんこうした母親の行為を鬱陶しいとと感じることも時としてある。でも僕は、その反面母さんのそうした愛情を有難いとも思っていた。時々、父さんのことで嫌なことが重なった時は、ヒステリックに八つあたりしてくることもあったけど、それでも彼女はまだ「話せばわかる」人だった。父さんのように「おまえが働きにでないのは甚だ遺憾だ」というような、他人ごとのような目と態度で接してくるよりは、母さんは百五十倍くらいましだったといえる。

 僕が半引きこもり生活を始めてから部屋で何をしていたかというと、とにかくひたすら小説を書いていた。二十三歳の夏ごろ、『優等生日記』という中編程度の小説を書き上げて以来、何故か次から次へと色々な構想が頭の中に思い浮かぶようになり、もしかしたらこれで食べていけるのではないかというはっきりとした確信が生まれたためだ。それまで僕にとって小説というのは、ただの趣味のようなものだった。これでもし僕が高校生活であのような躓きを経験せず、小・中学生の時の延長線上のような生活を送っていたとしたら――つまり、多くの友達に囲まれて、それほど深い悩みの世界を体験することがなかったとしたら――たぶん、僕は小説など書いていなかったと思う。言ってみれば<小説>というのは僕にとって、自分がこれまでに失ったものの代用品、身代わりのようなものだった。僕の書く小説は大抵、主人公が小さな頃にどのような体験をし、成長して大人になったかというような青春物語が多い。また『優等生日記』のように人生のある時期を切りとったものもあるけれど、基本的に主人公の心の成長や軌跡といったものを追っている場合がほとんどだ。

 僕は小・中学生の時には、これといって大きな悩みのない、人生の黄金時代のような時を過ごした。そして高校生になって、生まれて初めて人生の挫折を経験し、その後負け犬の側の人間として生き続けてきた。だから僕にとっては<勝ち組>の側の人間を描くことも、<負け犬>の側の人間を描くことも、そのどちら側でもない人間を描くことも、実に簡単なことだった。また高校を卒業後は色々な職を転々としたため、人間に対する観察力というか洞察力が鋭くなり、あらゆるタイプの人間を小説中に登場させることが可能ともなっていた。

 そして二十三歳にしてそうした経験のすべてが縦糸と横糸を見事に織りなして、一枚の大きな曼陀羅を描いているように見えたと、まあそんなわけなのだった。


 けれども人生はそんなに甘いものではなく、僕は二年の間小説を書きまくって幾つかの賞に応募してもいたけど、どれも二次止まりだった。つまり普通の人よりはまあちょっと文章が書けるようだけど、プロになるまでには至らない力量というのだろうか。僕はいつも二次止まりだったため、次こそは最終選考に残るのではないかと一生懸命書き続けたけど、二次から最終選考に残るまでの壁は厚く、やがて貯金も底をついて、再び就職活動を再開せざるをえない事態に直面した。

 しかし、ここでひとつ困ったことがある。

 僕は二年も小説に賭けて家に閉じこもっていたため、対人恐怖の症状が以前よりさらに強くなっており、オーロラタウンやポールタウンなどの人混みを歩いているだけでも具合が悪くなるようになっていた。さらに視線恐怖まで発症し、街中を歩く時にはサングラスが欠かせなくなった。

 ――胸の動悸、胃の痛み、軽い吐き気。

 僕はそれらをどうにか克服しようと、以前のように再び、<接客系>の仕事に就くことにした。不特定多数の人間と接触することにより、徐々に体を馴らして、自分の抱える症状を軽くしたいように考えた。

 けれども結果は惨敗。コンビニでは客と金銭の授受をまともに行えず、二日ほどで辞めることになったし、その他デパートの紳士服売場や靴売場などでも同様だった。

(どうやら、これは本当にもう限界らしい)

 そう思った僕は、接客の仕事は一切切り捨て、別の、なるべく人と関わり合わなくてよさそうな仕事を探しはじめた。また長期の雇用は気が重いため、まずは短期の仕事や単発の仕事で心と体を慣らすことにしたのだ。

 警備員、引っ越し作業員、清掃員、交通量の計測係などなど、幾つか短い期間の仕事で体を慣らしてから、最後に配送センター内でのピッキング作業という仕事を見つけた。

 この間、僕は抑鬱状態がひどく、本気で死のうかと思ったこともあったけど――死ぬ、という考えは高校の時以来、親しい友のように僕の脳裏に住みついていたので――神という人はなんとかぎりぎりのところで、僕に生き延びるための道を用意しておいてくれたみたいだった。

 この某コンビニの配送センターでの仕事は、実に僕の性格に合っていた。働く時間は夜の十二時から朝の五時くらいまで。仕分けが終わらない時は七時とか七時半とかになることもある。とにかくパンや惣菜などをピッキングリストというリストを見て、札幌△△店二個、札幌〇〇店三個、札幌□□店五個……というように、滑車のついた五段ほどの篭の中へと次から次へと順番に入れていく。極めて単純な作業ではあるけど、その単純な作業をえんえんと何時間も続けなければならないため、嫌になって辞める人が多いらしい。しかも時間は深夜帯。でも僕がこの仕事をしていて何より嬉しかったのは、なんといっても人間関係が患わしくないということだった。

 大体三十名程度の人間が、永遠に続くとも思われる作業を繰り返していくわけだけど、作業中、ぺらぺらしゃべりながら仕事をする人は少なかった。いてもほんの数人程度だったし、他の人は仕事以外でそれほど雄弁になったりすることはまずあまりなかったと言ってよい。深夜という時間帯にも関わらず、ピッキング作業員の半数以上が女性だった。しかも昼間普通に働いて夜もここへきているというシングルマザーや、夫が借金を残して蒸発したため、子供のために一日十六時間も働いている女性など、色々と事情のある人が多い。また極めて無口で特に何も語りはしないけど、顔を見ただけで「訳あり」といった感じのする人など、一風変わった人が多いという、そんな職場だった。男性は大抵定年退職者や、あるいは若くても僕と同じように<社会不適応者>と顔に書いてある感じの人がほとんどで、僕はここで三年の間、働き続けることになった。 




 >>続く……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ