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第3章

 次の日、計画が失敗に終わったことを告げても、大宮は特に怒ったりはしなかった。なんというか、最初からこの計画がうまくいくとはまるきり思ってなかったらしく、どちらかというと、これは僕の大宮の犬としての忠誠度を試すものだったみたいだ。つまり、二年になってからというもの、僕は大宮の犬なのか、それともレッドの庇護下にいるものなのか、いまひとつ区分が曖昧だった。その上女子たちがやたら僕をユキちゃんユキちゃんと呼び、自分たちの仲間扱いするので、大宮はどうも元の自分専用のパシリの身分へと、僕を戻したかったみたいだ。といっても、彼は自分の権威をひけらかすため、相変わらず日替わりで気まぐれに色々なことをクラスの男子たちに順番にやらせてはいた。だからそういう意味での苦労は一年の時に比べて減ったけど、その分あいつは僕のことを腹心の部下として、女子たちやレッドにとられたくないような、どうも微妙なものを感じていたらしい。

 僕自身にしても、男子は大宮のことを怖れて誰も仲良くしてくれないし、かといって女子のグループに入るというわけにもいかず、どうしたらいいのかがよくわからなかった。

 レッドが指摘していたとおり、僕は思春期特有の何かによって、女子たちに「ユキちゃん」とちゃんづけで呼ばれるのが嫌で仕方なかった。どうしてみんな誰も、僕のことを「カミヤくん」と名字で普通に呼んでくれないのかが、不思議だった。

 高校を卒業して数年が過ぎた頃には、彼女たちが本当に善意で僕のことをユキちゃんと呼び、できることなら大宮みたいな下衆の支配下から解放してあげたいと、そんなふうに一致団結していたのがわかるけど――当時の僕にはそんなふうには思えなかった。僕は自分が「ユキちゃん」と呼ばれるたび、男としてどんどん去勢されていくような、そんな奇妙な違和感を覚えるばかりだった。彼女たちは僕のことを自分たちと同じ<雌>の種族だと勘違いしているのではないかと思うことさえあった。あれだけ大宮の言いなりになっておきながら、男のプライドもへったくれもないとは思うものの、それでもやはり「ユキちゃん」と呼ばれるたびに、僕の男としてのプライドは幾分か傷ついていた。


 このまま永遠に二学期がこなければいいと願ってやまなかった夏休みもとうとう終わり、学校という監獄での、僕の囚人としての生活が再開した。

 相変わらず僕の胃は大宮が同じクラスにいると思っただけでも緊張のあまり縮む思いだつたし、男子の友達もなく、女子たちに慕われても嬉しくもなく、ただ毎日びくびくオドオド人の顔色を窺って過ごすばかりだった。そのくらいならいっそのこと、学校なんてやめてしまえばいい――多くの人がそう思うことだろう。でも本当に、そこのところは実に微妙なところだったのだ。大宮のことは確かに嫌だし、大嫌いでもあるけれど、その他の点ではこれといって特に不自由なこともなかったからだ。

 友達がいないといっても、僕は他の男子たちから嫌われているというわけではなかった。みんな、とにかくひたすら(大宮さえいなければ、俺もおまえと仲良くするんだけど)と、同情的な眼差しで僕に接していたし、女子たちもいってみれば同じ性質の同情でもって僕のことを「ユキちゃん」と呼んでいたのだともいえる。

 高二の二学期――その十月には高校生活最大のイベントである、修学旅行があるけれど、僕は修学旅行の費用をバッタに渡すかわり、旅行に行けない旨を彼に伝えていた。バッタこと小暮先生は、昆虫が前足で触角をしごくみたいに、「ああ、そうか」と素っ気なく言っただけだった。何かと追求されない分、面倒でなくていいと言えばいいけれど、退学届けを出した時にも同じような反応を示してくれればよかったのにと、そう思わずにはいられなかった。ただ佐藤と坂下と宮園だけは――小暮先生から派遣されたというわけでもないのに――しきりと僕に就学旅行へいくよう、勧めてはくれたけれど。

「ユキちゃん、一緒にいこうよ。ユキちゃんがいなかったらつまんないよ」

「べつに、家の都合ってわけでもないんでしょ?」

「まあ大宮の面倒見させられるのは嫌だと思うけど、あいつ、自由時間は他のクラスの仲のいい連中と行動するみたいだし、もったいないよ。あんな奴のために楽しい就学旅行にいかないなんて」

 でも三人がどんなに宥めすかそうとも、僕はとにかくひたすら首を横に振った。そしたら佐藤も坂下も宮園も、自分たちは女子だから、部屋別になったあとはユキちゃんを守ってあげられないし……と、ようやく納得してくれた。

 宮園は<楽しい就学旅行>なんて言ってたけど、僕にとってそれはあくまでも、大宮さえいなければの話だった。あいつがもし就学旅行へいかないとでも言うのなら、僕だって喜んで東京や京都へいきたいと思っただろう。でも修学旅行が「楽しい」と形容されて終わるのか、それとも「地獄の」と形容されて終わるのかは、佐藤にも坂下にも宮園にも、また小暮先生にも、誰にもわかりはしないのだ。そんな恐ろしい博打を打つ気には、僕は到底なれなかった。


「確かに、ユキの言うことは一理あるね」

 何故就学旅行へいかなかったのかと訊かれて、大宮にいつ何をされるかわからないから、と答えたところ、レッドは僕の隣でプリントの問題を解きながら笑っていた。

 二学年の生徒が就学旅行へいっている一週間ばかりの間、何がしかの理由によって旅行へいかない生徒――家庭の事情や、バイクを買う金を貯めているから、など――はその間三時間目までの授業が割りあてられていた。その自習時間を担当している先生方も、何も他の連中が楽しんでいる時に勉強することもあるまいと思うのか、一時間に一枚簡単なプリントをやっておしまい、という場合が多かった。ほとんど毎日学校へ遊びにきているようなものだったといってもいい。

 今二年A組には八名ほどの生徒が集められており、そのうちの三名はレッドと同じダブリ組で、去年就学旅行へいったから、今年はいかないという生徒だった。残りの五名は経済的な理由、あるいは僕と似たような事情のある連中だった。

「あいつってさ、なんかどっかあんたに、キモい感情を抱いてるところがあるんじゃないかい?」

「キモい感情って……」

 レッドからプリントを受けとると、僕は自分のと答え合わせをした。なんということのない、漢字の四文字熟語が二十問ほど並んでいる。画竜点睛、我田引水、などなど。

「つまりさ、ホモっぽい感情ってこと」

「やめてくださいよ、気持ち悪い!」

 咄嗟に僕は、隣のレッドのことを睨んでいた。想像するだにおぞましいと思った。

「ユキもさ、いつもそういう目であいつのこと睨んでやればいいんだよ。まあ、あたしも最初はあんたに発破かけてばかりいたけど、近ごろこうも思うんだよね。ユキが大宮の奴に逆らったら、あいつ、あんたのこと男子便所とかに連れこんで、フェラチオしろとか言いだしそうな感じだもんね。それだったら大人しくハイハイ言うこと聞いてるほうが、ユキにとってはいいんじゃないかって、最近、なんかそんなふうにも思うようになってきたよ」

 あまりの気持ち悪さに、僕は思いきり顔をしかめた。そんなことにもしなったとしたら……僕はあいつのこと、ナイフか何かで突き刺して、殺してしまうかもしれない。

「まあ、確かに就学旅行にはいかなくて正解だったかもしれないね。一週間もあんな奴と同じ部屋にいたら、あんたあいつに何されるかわかんないよ、真面目にさ。最初はてっきり嫌がらせの一環としてユキにエロ本見せてんのかと思ったけど、どうも微妙に違うみたいだから……あいつ、たぶんユキがどんな時にどういうふうに性的に興奮するのかとか、そういうことに凄く興味があるんだよ。本人が気づいてるかどうかは知らないけどね」

「やめてくださいよ、馬鹿馬鹿しい」

 一笑に付そうとしたけど、レッドは面白がるでもなく、至極真剣な表情で続けた。

「べつに、あたしだってこんなこと言いたかないさ。でもなんかあった時にユキが自分の身を守れなかったら悲惨だと思ってね。この世にもし何かの事情で女がひとりもいなくなったとしたら、あいつ、絶対にあんたを自分の女にするんじゃないかい?想像するだにおぞましいとはあたしも思うけどさ、あいつにはどっかこう……マジでそれをやりかねないっいう、気味の悪さがあるよね。それでみんな、無意識のうちにも逆らえないんだろ。もちろん、暴走族や暴力団と繋がりがあるとか、そういうことも関係してるんだろうとは思うけど」

「松平さんは……怖くないんですか?」

 窓の外の澄みきった秋空を見やりながら、僕はどこか人事のようにぼんやり聞いた。

「あたし?」と、レッドは赤い口紅をぬった唇を、愉快そうにゆがめている。「さあ、どうだろうねえ。でもまあ、あんな奴が怖かったら、レディースの総長なんてやってられないよ。昔と違って、小競り合いの繰り返しみたいなことばっかやってるんだけどさ、一応先代から指名されちゃったから、総長やってるっていう、ただそれだけさ。そろそろ飽きてきたから次の代に譲ろうかと思ってるんだけど、後輩がうるさくてね。少なくとも高校を卒業するまでは総長でいてくれってさ」

「なんかわかります、すごく。その人たちの気持ち」

 はあ?という顔を一瞬したあと、レッドはくつくつとゆっくり、かみ殺したように笑いだした。

「ユキって、時々ほんとに凄く面白いよね。なんかあたし、あんたをからかいたくなる大宮の気持ちが、今ちょっとわかってきたわ」

 レッドがツボにはまったように大声で笑いはじめたので、机に突っ伏して寝ていた連中がみな、全員こちらを振り返った。そんな視線のことなどまるで構わず、レッドはそれからも暫く笑い続け、最後には机さえバンバンと手のひらで叩いていた。

「あーあ。参っちゃうね、まったく。あたしがもし男だったら、大宮とユキのとりあいを演じていたかもしれないよ。一応誤解のないように言っておくと、ホモとかなんとか、そんな気持ち悪いことじゃなくてさ。たぶん友達としてとりあいになってたと思うよ。まあ考えようによってはあいつも、可哀想な奴だとは思うけどね。自分は童貞じゃないとか、今つきあってる女がどうこうなんていくら言ってみたところで、あいつに本当の意味で女を大切にすることなんかわからないだろうし……人の愛し方もわからなければ、友達の作り方もわからないような奴なんだからね。家が暴力団やってるとか、そういう環境のせいもあるんだろうけど、結局はあいつ個人の問題だもんね、そういうのは」

 その時、三時間目の終わりを告げる鐘が鳴り、レッドは「ふあーあ」と、大きな欠伸をしながら伸びをした。

「じゃあまた、明日な」

 彼女は軽く僕の背中を叩くと、薄っぺらなカバンを片手に、さっさと教室をでていった。なんでも、彼氏とデートの約束があるんだそうだ。

 僕はレッドと自分の分のプリント、また他の生徒たちから集めたプリントとを、職員室まで持っていき、それをバッタの机の上に置いておいた。大して意味のない学習だとは思うけど、かといって何もさせないというわけにもいかないのだろう。この高校の先生の半分以上が、ちょうどそんな感じだった。たとえば、大宮のような狂暴な生徒ふたりが喧嘩した場合――本気で止める気もないのに一応は止めに入る。そして一言か二言、「やめないか、君たち!」と先生らしい科白を吐いたあとは、とにかく放っておく。彼らにとっては「一応、止めに入った」という事実のみが大切なのだ。のちのち、何か大きな問題へと発展した場合、言い訳をすることができるように。

 でも僕はそうした先生たちのことを「だらしがない」と責めることはできなかった。一年の時、大宮の奴は先生のことをふたり、辞職へと追いやっていたから。

 ひとり目が英語の麻宮先生、ふたり目が体育の沖先生だ。麻宮先生はあれからもしつこく大宮のエロ攻撃の的にされていた。『女教師凌辱』というタイトルのエロビデオが教卓の上に置いてあったり、またそのビデオを没収したところ、今度はあれを見ながらオナニーしたんじゃないかと言われたり……またそれだけではなく、授業がなかなか進まないので、麻宮先生はとうとうノイローゼになってしまったのだ。それで一週間ほど病院に検査入院したのち、そのまま健康上の理由によって、学校を辞めてしまったのである。

 ふたり目の沖先生は、体育の柔道の時間に大宮の悪ふざけがあまりにも過ぎると思ったのだろう、懲らしめのためにあいつをこてんぱんにのしてしまったのがいけなかった。先生は一週間後、何者かによって闇打ちにあい、全治三週間の大怪我を負った。彼もまた、病院を退院後、有給休暇を暫くとったのち、学校を去っていった。


 みんなが修学旅行へいっている一週間、僕は学校へくるのが楽しくて仕方なかった。大宮がいないというただそれだけで、なんと教室の空気が美味しく感じられることだろうと、そう思った。それと当時はあまりそう感じてはいなかったけど――僕にとって彼女は雲の上のような存在の人であったので――レッドはたぶんクラスの中で一番、僕にとって友達に近い人だったのだと思う。

 大宮の存在を気にすることもなく、僕はレッドと色々なことを話しあった。将来何になりたいかといったことや(彼女は美容師になりたいらしい)、大宮をはじめ、この学校の腐った連中のこと、だらしない教師たちの対応に対する不満、などなど……その他、音楽の話なんかでもよく盛り上がった。僕もレッドも、レベッカやボウイ、尾崎豊などが好きで、好きになるミュージシャンの傾向がとても似通っていたためだ。

 だが結局のところ、そんなふうに僕とレッドが仲良くなったことをきっかけにして、その後二年F組というクラスは大きくバランスを崩していくことになる。


 みんなが就学旅行から帰ってきて普通授業が始まったあとも、僕とレッドは友達に近い感覚で話をすることが多くなった。休み時間に教室の隅に座りこんで話をしたり、移動教室の時に、一緒に移動したり……それが大宮の大きな不興を買うことになるとは、僕は思いもしなかった。ただとにかく僕は、休み時間にひとりぽつねんとしていなくてもいいという、そのことを単純に喜んでいただけだった。

 でもレッドのほうでは、ある程度こうなるだろうことを予測していたらしく、大宮が僕のことを元の忠実な犬に戻そうとした時、そうはさせないという態度をはっきりととった。

「ユキはあたしのダチなんだよ。自分のダチを犬扱いされて黙って

いるほど、あたしも大人しくないんでね。他の奴らはともかくとして、ユキには金輪際、近づかないでもらおうか」

 教室中の生徒が見守るその光景は、一種異様なものだった。もしこれで男ふたりがレッドのことを奪いあっているとか、そういうことだったら――そう奇妙なことでもなかったかもしれない。でも僕は教室の後ろのほうでレッドに庇われながら、腑甲斐ない自分を恥じていた。教室中の生徒たちの視線を恥かしいとも感じた。こうした局面を迎えてさえ、僕は大宮に逆らうということができないのだ。

「俺はおまえみたいなブスに用はないんだよ。それよりユキ、ちょっとこっちこいや」

 僕はどうしていいかわからず、それでもレッドに危害が及ぶことを考えて、やはり大宮に従うことにした。まるでパブロフの犬か何かみたいに。

「ユキ!こんな奴の言うこと、聞くこたぁないよ!」

 教室中が、水を打ったようにしーんと静まり返っていた。ドアの外にも、他のクラスの連中が野次馬として群がっている。その時もし五時間目を告げるチャイムの音が鳴っていなかったとしたら、一体どうなっていたことか。

 教室の前の扉からバッタがいつもの風采の上がらない顔つきで入ってきた時、大宮は自分の席へと黙って戻っていった。最後まで、血走った獣のような眼をして、レッドのことを睨みつけながら。

 僕もまた、大宮の後ろの自分の席に着席し、心臓がドキドキと踊り上がるのを、どうにも止められなかった。

 廊下側の一番後ろの席から、窓際に座るレッドのことをちらと盗み見ると――彼女はいかにも面白くないといった顔つきで頬杖をつき、窓の外の曇り空を睨んでいた。

 小心な僕は、きっとレッドが僕のことを怒っているのだろうと感じた。自分でも確かに、男の腐った奴と言われても仕方ないとは思う。でも僕としてはできれば、これまでどおり適当に大宮の言うなりになりつつ、レッドとも仲良くするというのがベストだったのだ。

 もしどちらかひとりを選べと言われたら――僕にはどうしたらいいのかがわからなかった。もちろん僕が選びたいのは言うまでもなくレッドだ。でも僕が彼女のことを友達としてはっきり選んだとしたら――大宮の奴は一体、僕にどんな刑を執行するつもりだろう?

 その日の放課後、僕は逃げるように教室を飛びだした。そして豪速球並みの勢いで自転車をこぎ、家の近くにある金物屋で刃渡り十センチほどのナイフを購入した。

 確かに大宮の奴は僕にとって、殺しても殺したりないような奴ではある。でも自分があいつを刺殺するところなど、僕にはうまくイメージできなかった。それでも、レッドの言っていた『男子トイレでフェラチオの刑』とか、その類いのことを考えると――護身用にナイフでも持っていないことには、僕には明日から学校へ登校する勇気など、これっぽっちも持てはしなかったのだ。


 もちろん僕は、大宮が自分に対してキモい感情を抱いているとは、少しも思わなかった。ただ可愛さ余って憎さ百倍というか、これまで僕はずっと、確かにある意味奴から特別扱いにされていたから、その反動としてどんな目に合わせられるかということを考えると――ぞっと鳥肌が立った。体育用具室に裸で閉じこめられるとか、あいつやあいつの仲間の目の前でマスターベーションするように命じられるとか、おぞましい想像が幾つも脳裏に浮かんでは消えた。

 あいつには(まさか、そこまではしないだろう)というような限度といったものが一切感じられないのだ。だから怖いのだ。男専用のそういう店に連れていかれてカマを掘られるとか、あるいはあいつの暴走族仲間のマスコットにさせられるとか、その他、ゲロを吐くまで飲酒を強要される、脱法ドラッグを実験動物よろしく何種類も試させられる……などなど、恐ろしい想像が冗談でなく、蛆のように脳味噌にたかるのを感じた。

 なんといっても恐ろしいのは(ハハハ。まさかいくらなんでもそんなこと、あるはずがない)と笑い飛ばすことができないということなのだ。そういう意味で大宮という奴は本当に気味が悪かった。あいつのにきびの多い相撲とりのような顔つきを思い浮かべただけで――吐き気を催しそうになるくらい、本当に僕は心の底からあいつのことが大っ嫌いだった。


 けれどもその後、予想に反して、事態は二週間ほど穏やかな経過を辿った。レッドはどっちつかずの中途半端な僕の態度を、女々しいと責めはしなかったし、「ユキが本当に男子トイレに連れこまれたら困るからね」と言って、相変わらず僕がパブロフの犬状態であっても、別段軽蔑したりもしなかった。

 大宮にとっても、大切なのはあくまでもクラス内における自分の<面子>なのだ。それを潰されない限り、あいつは去勢された雄の虎のように、クラス内では無茶をすることはないだろうと、そんな風に思われた。

 だがやはり大宮にとっては、僕がレッドに引っついているのが、なんとはなしに面白くないのだろう。僕とレッドを引き離しにかかる、という表現はなんともおかしいけれど、他の男子連中に僕と仲良くするように命じたようなのだ。そこで前田や佐竹、久保田なんかがよそよそしく寄ってくるようになったのだが、僕としても彼らとしても、そうした関係を突然にして結ぶというのは、なんとも奇妙なことだった。

 それまでは大宮のせいで仲良くしたくてもできなかったのに、今度は大宮の命令によって仲良くしなくてはならない――そこに本当の意味での友情が生まれるとは、僕にも前田にも、佐竹にも久保田にも思えなかった。ただなんとなく休み時間に一緒にいて、歯車の噛み合わないような会話をし、移動教室の時には一緒に移動するという、それだけの関係だった。そんな四人に共通する思いはただひとつ。

(これも大宮の命令だから、仕方ないよな)

 けれども僕たち男子には仕方なくても、レッドにとってはそうではなかった。彼女は僕たち四人がにわかに仲良くなったのを、どう見ても不自然だと感じたようだ(これは他のどのクラスメイトの目から見てもそうだったと思う)。それに僕としても、彼女が休み時間にひとりでぼんやりしていたり、移動教室の時などにひとりで移動しているのを見るのはつらかった。かといって、佐竹や久保田や前田の元を離れてレッドの元に僕がいったとしたら、彼らは大宮にどやされることになるのだ。おそらくレッドはそこの微妙なところを見抜いて、大宮に直談判を試みたのだと思う。

「ちょっと待ちなよ、あんた」

 放課後、いつものように僕に掃除当番を押しつけた大宮が、教室をでていこうとしたところを、レッドが箒の柄で呼びとめた。

「なんだ、このアマ」

 肩にかかる箒の棒を、バシッ!と大宮がへし折らんばかりの勢いで床に叩きつける。

「女だと思って下手にでてればいい気になりやがって。いいかげんにしろよ、何様だと思ってんだ、テメェは!」

 クラスの全員が凍りつく中、レッドひとりだけが冷静だった。

「何様とは御挨拶だね。あたしが一体あんたに何をしたってんだい、このスットコドッコイ!あたしは前にあんたに一度言っといたはずだよ。あたしのダチをこき使うなってね。一度くらい、自分の使ってる教室を掃除したって罰は当たらないだろうよ。みんなそう思ってるけど、あんたが怖くて口にだせないっていうそれだけなんだ。このクラスにあんたみたいのさえいなければ、みんなどんなにせいせいするか……いっぺんくらい、考えたことあんのかい!」

 次の瞬間、大宮の顔はみるみる赤くなっていった。目が血走り、切れる寸前の物凄い形相になっている。

 しかもレッドは、先手必勝とばかり、バケツの水をザバアッ!と奴の頭の上からぶっかけていた。

「少し、頭でも冷やして考えるんだね!」

 カラン、とどこか乾いた音を立てて、アルミのバケツが床に転がる。大宮は黙ったままだった。いつもムースで逆立てている髪が垂

れ下がり、その表情を見えなくさせている。

「……今に覚えとけよ」

 低く押し殺した声でそう言い残し、大宮は二年F組の教室から去っていった。その場にいたみんなは、暫くの間は信じられないという顔をして、互いに顔を見合わせている。それでも、本当にもう大宮が戻ってこないということを前田が廊下にでて確認すると、ワッ!と快哉を叫んだ。

「これは凄いですよ!姉御」

 佐竹が膝をついてレッドのことを伏し拝む。すると、他に武藤や新沢なども、次々に彼女の足元に平伏していった。

「やめなよ、気持ち悪い。それでも男かい、あんたたち」

 女子たちの数人もレッドのことをとり囲んで、「ばんざあい!」と喜んでいる。

「これであいつもきっと、暫くの間は大人しくなるよ」

「あー、なんかもうスッキリしちゃった。三日くらい溜ってた宿便が、一気にでてきたみたいな感じ」

「ばあか。あいつのはたったの三日どころじゃないよ」

 みんながやったやったと笑いあう中、ふとレッドと僕の視線が結び合わさった。僕は床にこぼれた水を雑巾で拭い、バケツの中でそれを絞っているところだった。

 どことなく不器用に僕は彼女に微笑みかけたけど、レッドは険しい表情をしてバケツを蹴っ飛ばすと、そのまま教室をでていった。みんなはきっと彼女は照れ隠しのためにそんなことをしたんじゃないかって言ったけど、僕には本当はわかっていた。レッドはとうとう僕に愛想を尽かしたのだ、ということが。


 この時のことを思うと僕は、今でもああすることしかできなかったのかと、悔恨の思いに苛まれる。その後、僕は卒業するまで詰襟の内ポケットに折畳み式のナイフを忍ばせて通い続けたけど、それで大宮の奴のことを滅多刺しにするようなことはなかった。

 確かに僕はあいつのことが怖かった。毎日犬のように飼い馴らされているうちに、逆らおうとする意欲さえ麻痺していたし、それ以前にその前まで心の中に貯えられていた勇気という勇気が、枯渇してしまってもいた。

 でも僕はこの時にでも、廊下を去っていく大宮のあとを追いかけて、あいつのことをナイフで滅多刺しにしてやるべきだったのだ。いやそれ以前に、レッドという大切な友人を失う前に、せめて彼女の前で一度だけでも男らしいところを見せておくべきだった。そして報復としてもし、大宮が僕のことを男子便所に連れこんだとしたら――その時は、あいつのペニスをナイフで切りとってやればよかったのだ。


 その次の日、大宮もレッドも学校へは顔を見せなかった。みんなはこれをただの偶然の一致と考え、僕もまたそのように思っていた。大宮は面子を潰されたきのうの今日だったし、レッドもなんとなくみんなから英雄扱いにされるのが気恥かしいのだろうと。

 大宮のいない二年F組は、和気あいあいとして、本当に眩しいくらい明るかった。もともと大宮と柄の悪い連中を一緒にさせないよう編成されたクラスでもあったので、あいつさえいなければ、他の生徒はみな、どちらかといえば真面目で大人しい傾向が強かった。特に男子はオタクっぽい感じの連中が半数を占めていたので、佐竹や前田、久保田らと、僕は漫画やゲームの話をして盛り上がったりした。そうなのだ。あいつの監視の目さえなければ、僕は彼らといくらでも仲良くすることができた。しかし、そのような楽しい日々も、ほんの十日ばかりしか続かなかった。いや、実質的にはもっと短く、それは三日天下のようなものだった。いつまでたってもレッドと大宮が一緒に休み続けているので、流石にクラスの連中も、これはただごとではないと思いはじめるようになったのだ。

 そしてみながみな、大宮のレッドに対する復讐を危惧する中、その新聞記事はでた。北広島の婦女暴行犯逮捕、という大きな記事が。


[十月三十一日深夜にさらわれた同市内の高校に通う十七歳の女子高生が、三日後にススキノの路地裏で全裸で発見された事件で、三人の容疑者が逮捕された。三人は元暴力団の幹部で、無職の……]


 そこまで新聞の記事を読んだ時、僕はぐしゃりとその日の朝刊を握り潰した。学校の教室でのことだった。佐藤も坂下も宮園も泣いており、他の女子たちもみな、泣いているか沈痛な面差しをしているかのいずれかだった。

「ユキちゃんも、お見舞いにいく?」

 そう佐藤に言われて、僕は一応病院の名前を聞いたけど、小暮先生から「今は男子はいかないほうがいいだろう」と止められた。でも僕はもしかしたら、バッタにそう言われなくても、レッドのことを見舞いにはいかなかったかもしれなかった。理由はふたつある。ひとつ目は、大宮のことを殺しでもしない限り、合わせる顔がないこと。ふたつ目は、誇り高い彼女が、僕に同情の目で見られたりしたくないだろうと思ったことだ。もちろん、大宮が元暴力団幹部の連中に金を掴ませて犯行を行わせたという証拠はない。またその元暴力団の幹部と組員という四十代と三十代の男は、大宮組に所属していたというわけでもないようだった。けれども体育の沖先生が何者かに闇打ちにあった時――みながみな、大宮のことを心の中疑ったように、今回も誰もが奴が犯人だと信じて疑わなかった。でも口にはださない。女子の誰かがそう言い募ったとしたら、レッドと同じような目にあうかもしれないし、男子についていえば、その場で鼻の骨が折れるか顎の骨が割れるかするまで、殴られ続けたことだろう。


 その後、大宮は何食わぬ顔をして登校しはじめ、二年F組には以前と同じ、絶望的な空気が漂うようになった。このころ、僕は本当に大宮のことを刺し殺してやろうと思い、いつどこでどうやってやるかについて、頭の中で算段していた。たぶん僕は心の中で――他のみんなもそうだったに違いないが――奴のことを百回以上は刺殺している。でもやはり実行に移すことはできなかった。少年院送りになるのが怖いから、というよりも、僕はとにかくあいつに「嫌だ」と言うことができなかったからだ。実際に犯行に及ぶ前に僕がすべきことは、あいつにはっきりと「嫌だ」と意思表示することだった。そしてそうすることがもしできたとしたら――あいつを殺害するまでもないのだ。あんなゲテモノのような男、殺すほどの価値もないと、哄笑できただろう。滅茶苦茶にぶん殴られ、正気を失ったそのあとで。


 その後、高校を卒業するまでの間に、これといって特筆すべきようなことは何もない。レッドは二度と高校に顔を見せることなく中退したし、大宮は大宮で相変わらずだった。クラスの男子たちはみなパブロフの犬だったし、女子たちはそういう男子たちの不甲斐なさを嘆きつつも、また同時にそれはどうしようもないことだとわかっているため、とにかく誰のことをも責めなかった。時々、レッドがかつてよく言っていたように、「あんたも男でしょ。しっかりしなさいよ!」と喝を入れる以外は。

 正直なところ、レッドの事件があって以来、僕は何度も学校をやめたいと考えた。でも激しい幾重もの層をなす葛藤の中で、僕は胃が痛くなるのを堪えつつ、学校へ通い続けた。何故かといえば、そうする以外に――自分がもっとも嫌だと思う道を選び続ける以外に――レッドに対して償えることは他に何もないのだと、そう思っていたからだ。  




 >>続く……。




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