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第2章

 正直なところ、僕は高校に通いはじめて三か月くらいで退学届けを書くべきかどうか、真剣に悩んだ。人から見れば、僕は殴られ係のように日常的に暴力を振るわれていたわけでもないし、とにかく大宮の言いなりにさえなっていれば、特に屈辱的な行為を課されるというわけでもなかった。だが僕は本当に学校へ通うのが嫌で嫌で仕方なかったのだ。そのくらい<大宮竜二>という男の存在は、ただそこにいるというだけで、僕の魂に悪影響を与えていたといっていい。

 これはたぶん、他の殴られ係や子分係、友達係でさえそうだったのではないかと思うのだが、あいつは実に気まぐれな奴なので、いつ何を言いだすかわからないという恐怖感が、周囲の人間には常に纏いつくことになるのだ。今日は友達係でも、明日は子分係に落とされるのではないかという恐怖、今日は子分係でも明日は殴られ係かもしれないという恐怖、体育のマット運動や柔道の時間などにプロレス技をかけられ、悪ふざけが高じて死にまで至るのではないかという恐怖――この恐怖感については、僕とて例外ではなかった。

 クラス内で席替えが行われるたび、あいつは必ず僕を自分の後ろの席に座らせたけど(言うまでもなく、あいつにとってくじ引きなどはなんの意味もなさない)、でも本当に僕はあいつがすぐそばにいるというだけで、嫌で嫌で仕方なかったのだ。

 そのせいで毎日登校のたびに朝から胃がきりきりと痛んだし、学校の授業から解放されたあとも、暗澹たる灰色の、絶望の層を僕の精神は常に示していた。今日という一日が無事平穏に過ぎ去っても、明日はまたどうなるかわからないという恐怖――これが僕の精神性を魂が病むまでに蝕んだといっていい。とにかくそのような日々をどのように忍んだかといえば、ほんの一握りばかりの希望によって、としか僕には答えようがない。すなわち『二年になればクラス替えがある』という、ほんのささやかばかりの、あるかなきか如しの希望である。


 しかし、そのような僕の小さな希望は、無残にも木っ端微塵に打ち砕かれた。三階のロビーにある掲示板に張られた、クラス替えの名簿を見た時――我が目を疑うとはこのことだと僕は思った。二年と三年は持ち上がりで、クラス替えなどもう二度と行われはしない。ああ、それなのになんということだろう。よもやまた大宮竜二という名前の下に、自分の名前があるのを見出そうとは!

 その瞬間、僕は屋上にまで駆け上っていって、校庭に身を投げたい気持ちでいっぱいだった。だが無論そのようなわけにもいかず、半分正気を失ったような面持ちで、二年F組の教室のドアをくぐった。またしても席はアイウエオ順――僕は自分が必死の思いで耐え忍んだ一年間の月日を思い、急激に虚しくなっていた。心の砂漠化がさらなる勢いで急速に進んだといってもいい。そして(もう学校を辞めるしかない)と絶望的に思いながら、クラスの顔ぶれを見渡して、何故自分がまたしても大宮の後ろの席にいるのかが、突然に了解された。

 F組の担任は一年の時と同じく小暮先生で、おそらくこのことについては先生の間で巧妙な裏取引があったものと思われる。うちの高校はワルの吹き溜まりとまではいかないまでも、暴走族やカラーギャングに所属しているといったような、柄の悪い連中が割に多い。そのため、そうした奴らと大宮を一緒にするのは危険だとの配慮が、先生たちの側でなされたのではないかと思われる。すなわち、男子の中でF組にそのまま持ち上がったのは僕と大宮のふたりきりで、他の生徒は比較的模範生が多かったということである。そして女子についていえば、小暮先生が特に気に入っている仲良し三人組がそのまま<偶然にも>一緒だった。

 彼女たち――佐藤と坂下と宮園――はいってみれば、小暮先生の小さな応援隊とでもいうべき存在だった。佐藤も坂下も宮園も、担任としての小暮先生にははっきり言って絶望していただろう。けれどもここまで自分たちの担任が小心に過ぎると、かえって哀れにもなってくるものだ。そこで彼女たちは至らない担任をサポートする形で、なんとかクラスをまとめようと、健気な努力を影ながらしていたのである。

 僕は気心の知れた佐藤や坂下や宮園が同じクラスでも、まったく明るい気持ちにはなれなかった。何故なら大宮と僕をまたしても一緒にした小暮先生の意図が、はっきりと底まで透けて見えてしまったからだ。

(カミヤは大宮のお気に入りで、特に害を加えるでもない。それなら一緒のクラスにして、あいつの面倒をこれからも適度に見てもらうことにしよう。そういう存在をひとりくらい一緒にしておかないと、あいつが今後どういうふうに暴れるかもわからんし……)

 そう思い至った時、僕は小暮先生のことを、屋上のフェンスの下に突き落としてやりたい衝動に駆られた。あるいはこれから野山にでもいって、バッタを百匹くらいギロチンの刑にかけてやりたいような気がした。そしてその首を集めたものを、小暮先生の自宅にク

ール宅急便で郵送してやるのだ。

 そんな暗い衝動を覚えてしまうくらい、僕の心はすさみきっていたと言っていい。

「ユキちゃん、また一緒のクラスになれて嬉しいけど、あいつも一緒じゃあ、これからも苦労するね」

 佐藤麻衣子が同情をこめた眼差しでそう声をかけてきても、僕は虚しい微笑みを浮かべるばかりだった。一年もの間大宮という男の存在に脅かされ続けたため、僕は学校内ではほとんど誰ともまともに口を聞けないようにさえなっていた。

 もちろん先生から質問されればそれには答えるし、同級生に話しかけられれば、適度に応答はする。でもそれは本当の意味での<会話>というのとは別だった。どうしてそんなふうになってしまったのか、僕も自分でうまく説明できないけど、とにかく僕は人から話しかけられなければ何も自分からは発言できないような、そんな小心な人間に成り下がってしまっていた。でももうそんな生活も終わりだと、心の中で退学届けを出そうと決意した時、新しい希望の光、救世主かとも思えるような存在が、二年F組に現れたのだった。


 彼女の名前は松平輝美まつだいらてるみといった。出席日数が足りなくて三年に進級できず、もう一度二年のはじめからやり直しという、いわゆる<ダブリ>だった。友人たちからレッドと呼ばれるその名のとおり、彼女の長い髪は燃えるように赤かった。そして輝美という名前のとおり、彼女には周囲の人間が誰も逆らえない、輝く美しさがあった。また彼女はレディースの総長をやっているということもあり、そうした意味でもクラス内に彼女に逆らえる人間は誰もいなかったと思われる――もちろん、唯一大宮の奴以外は。

 長身の松平さんが赤い髪をなびかせ、薄っぺらなカバンを自分の席に置いた時、二年F組の連中はみな、心の中でこう思ったことだろう。

(レッドVS大宮竜二。これは面白いことになってきたぞ)と。

 そして僕もその時、これはもしかしたら小暮先生の仕組んだ、大宮虚勢作戦なのではないか、ということに思い至った。伊達に二十数年、荒れた学校で教師をしてはいないというとかもしれない、とも。

 だが、それでも僕は、退学届けを提出する意志を変える気は、毛頭なかった。確かに大宮がレディースの総長にやりこめられるところを見たくないといえば嘘になる。でも僕はあいつの顔を見ているだけで、反射的に吐き気を催しそうになるくらい、あいつのことが大っ嫌いなのだ。そんな奴とこれから二年も――と想像しただけで具合が悪くなって貧血を起こしそうになる。

 けれども小暮先生は僕の退学届けを跳ね返し、お気に入り三人組を説得隊として僕の元に遣わしたのだった。

「ユキちゃん、せっかく一年もあいつのために我慢したんだから、あと二年、なんとか頑張って乗りきろうよ」

「そうだよ。一年の時よりも顔ぶれとしては比較的大人しそうな男子ばっかじゃん。きっとなんとかなるって」

「そうそう。あのレッドっていう女総長、かなりスジが通ってるって噂だからね。今の三年の中にも大宮みたいのがいて、そいつの金玉蹴り上げて黙らせたって話は有名だもん」

 正直なところ、佐藤と坂下と宮園がいくら明るく励ましてくれても――僕はあのレッドというレディースの総長が、自分及び二年F組の他の生徒を守ってくれるとは、とても信じ難かった。にも関わらず、彼女たちの説得を受け入れるような形で退学届けを僕がとり下げたのは、もっと他の別の理由による。僕は自分の両親のことをどうしても説得することができなかったので、学校をやめることができなかったのだ。いくら僕が「大宮っていう恐ろしく嫌な奴がいて、そいつとまた同じクラスになったから学校へは行きたくない」と主張しても、両親は聞く耳を持たなかった。とにかく高校は卒業しろ、それが後々おまえのためになるの一点張りだった。また、卒業さえしてしまえば、そうしたことはすべていい思い出になるとさえ言った。

 僕は川部夏代の名前をよほど言ってやろうかとさえ思ったけど、母さんのことがあんまり気の毒で、そんなことは口にだせなかった。三流以下の高校に通う駄目息子に彼女はとても心を痛めていたし――将来、まともな職に就ければいいけれど、と――その上夫の浮気が発覚したのでは、ヒステリーを起こして卒倒してしまうに違いなかった。だから僕は母さんが頭のいい章一郎に自分の将来のすべてを託しているように、レッドこと松平輝美さん、また状況の微妙な変化といったものに、すべての希望を託すことにしたのだ。それでもし本当に駄目なら、その時はまたその時に考えればいいことだと、無理矢理に自分の心を説得させて……。


 小暮先生の影の作戦が功を奏したのか、大宮は少しの間、大人しかった。何しろ、どんな際どいエロ本を見せようと、話に乗ってくるような連中がまわりにひとりもいないのだ。もちろん僕を含め、他の男子連中もその手のものに内心興味はあっただろう。でもあいつがいくらエロ雑誌を見せようとしても、みんな逃げるように顔を背けるばかりだった。

 うちの学校の生徒というのは――これは男子限定で、ということだが――大まかにいってふたつの存在にグループ分けがしてあった。ひとつ目が頭に剃りを入れていたり、眉毛がなかったり、髪の毛を金茶に染めていたりといったような、いわゆるそういうタイプの連中。ふたつ目が僕のように見た目はまあまともなのだが、頭が悪いためにここしかくる場所がなかったというような生徒だ。これはどちらの数が比較的多いかというのは実に微妙な問題だった。ただひとつ言えるのはその間に<中間層>のようなものがないということだった。つまり、そうした人間同士が一緒くたにされた場合、簡単に<親分・子分>の図式が出来上がってしまう。特に大宮のような奴がクラスを仕切っている場合、かなりのところいじめのようなものが発生しやすい傾向にあるようだ。また親分タイプの生徒の中にはレッドのようなスジの通った奴もいて、その場合は「仁義をとおす」ような形で、いじめのようなものは(よほどのことでもないかぎり)発生しにくい傾向にあったらしい。

 大宮は授業中に野次を飛ばすということもあまりなくなり(自分の態度に同調してくれる人間が誰もいないため)、寝ていることが多くなった。このまま奴があまりにも学校生活が退屈でつまらないという理由で、学校へこなくなる、ということさえ僕は願っていたが、それは僕のはかない夢のようなものだった。大宮は自分のまわりに子分タイプの連中しかいないのを見て、それまで僕ひとりだけに押しつけていたこと――日直や掃除当番、カンニングペーパー作りなど――の役割を、男子全員に分散させた。つまりその日の気まぐれによって、「おい、おまえこれやれ」と指定する生徒を決めるのだ。

 だがそのことによって僕の肩の重荷が楽になったかといえば、決してそうではなかった。何故なら大宮は休み時間などに、しきりに僕に絡んでくるようになったからだ。

「おまえだって、夜にはシコシコやってるんだろ?宿泊研修の時、きちんと金玉ついてたもんなあ。女みたいな顔してるけど、結構いいもの持ってたじゃん、おまえ」

 宿泊研修の時、僕は脱衣場で大宮に突然ペニスを握られていた。どうということのない男同士のスキンシップと言われればそれまでだけど、僕はその記憶を自分の中から消したくてたまらなかった。

「ほら、見てみろよ。この娘なんか可愛いけど、おまえはどういうのが好みなんだ?なんだったら、俺の友達に頼んで、いいの見繕ってもらおうか?まだ童貞なんだろ?ユキちゃんは」

 どう反応していいかわからず、ひたすら俯く僕に、大宮はくさい口臭がかかるくらい、顔を近づけてくる。なんとも下卑た、いやらしい顔つきだ。

「やっぱりおまえは処女がいいのか?大人しく寝っ転がってる女に襲いかかって、おっぱいもみもみ、アソコをちゅうちゅう……」

 と、そこまで大宮がニヤニヤしながら言った時、スパァン!と実に小気味いい音が机の上で鳴った。松平さんがエロ雑誌を丸めて、それで机を打ったのだ。

「なあにがおっぱいもみもみ、アソコをちゅうちゅうだ。噂どおりの根性の腐った野郎だね!この子が嫌がってるのに、そんな話聞かせて一体何が楽しいのさ。第一、他の女子の迷惑ってもんも少しは考えなよ。あんたのエロ公害には、クラス全員が迷惑してんだから」

 松平さんが片手にエロ雑誌を持ち、片手を細い腰元に当ててそう言い切ると、流石の大宮も何も言い返せないようだった。もしちょうどその時鐘が鳴っていなかったとしたら、どうなっていたかわからない。

「……今に覚えとけよ」

 大宮はくぐもったような小声でそう言うのがやっとだった。松平さんはふん、と鼻を鳴らすのみだったけど、次の瞬間に僕は彼女の髪の色よりも、恥かしさで自分の顔が赤くなるのがわかった。

「あんたもさ、男ならもっとシャキッとしなよ。あいつの言うとおり、金玉きちんとついてんだろ。まったくだらしないねえ、このクラスの男どもときたら。自分ってもんの持ち合わせが、これっぽっちもありはしないんだから」

 助けてもらえて嬉しかったというより、僕は大宮に嫌がらせをされるよりも、別の意味で彼女に助けられたことが恥かしかった。その上、それからもたびたび僕はそんな形で松平さんに助けられてばかりいた。また僕だけでなく、大宮と掃除当番をかわった奴や、日直をかわった奴に対しても、彼女は容赦しなかった。自分であいつに嫌だと言える度胸を持てというのである。そして必ず「あんたがもし男ならね」と最後に付け加えるのだった。

 だがもちろん、男子の中で大宮に逆らえる奴など、ひとりもいはしなかった。松平さんもまた、大宮を呼びとめて掃除は自分でしろとか、そこまでのことは要求しなかった。そこまでは流石に彼女も怖くてできなかった、というより、そこまで正義感に燃えていられるほどあたしは暇じゃない、といったような感じだった。つまり我がクラスで唯一レッドだけは、本当の意味で大宮のことなどこれっぽっちも怖れてはいなかったということなのだ。


 しかし、大宮も一学期の終わりが近づく頃には、流石に窮屈なものを感じ始めていたのだろう。軽い制裁的な措置を、レッドに対してとることにしたようだ。しかも僕に体育館の器具室で、彼女のことを襲えと命じたのである。

「あいつ、おまえのことを特にしょっちゅう庇うからな。少しは気があるんだろ。マットの上にでも押し倒せば、意外と乗ってくるかもしれない。そしたらおまえは一発やったあとで、パチリとあいつのあられもない写真を撮る……どうだ?できるか、ユキ」

 あまりの無謀な計画に、僕は言葉もなかった。ただいつものように、言葉もなく俯くだけだ。

「あいつ宛てのラブレターは、前田に書いてもらったからな。それを下駄箱に入れておいたから、今日の三時頃、あいつは体育用具室にやってくるだろう。幸い今は試験前でどこの部活も体育館を使ったりはしない。やりたい放題だ。うまいことやれよ、ユキ」

 うまいことできなかったら自分はどうなるのかと、一抹の不安を覚えつつ、僕は放課後、大宮や他の仲間の連中と、体育館に向かった。

 大宮はクラスにいてもつまらないと感じるのか、休み時間はいつも他のクラスの連中と廊下で喋りこんでいることが多かった。つまり他の仲間の連中というのは、そういういかにも柄の悪い奴ら三名という意味だ。D組の厄介者の仙石と、ナイトイーグルという暴走族のヘッドであるB組の田口、そしてそのグループの副ヘッドであるE組の矢部。

「こんな女みたいのに、あの女をコマせるのかよ」

 金茶の髪に鼻ピアスという風貌の田口が、ガムをくちゃくちゃ噛みながら聞く。

「さあな。でも俺たちが輪姦したりしたら、のちのち色々面倒だろ。それよりこいつが好きですとかなんとか言ったほうが、あいつもほろりと騙されて、アソコを濡らすかもしれん」

「そううまくいくかねえ」

 アソコ、という単語ににやりとしながら、矢部が下品に笑う。ギャハハハハ、と仙石も大笑いし、隣の僕の頭を乱暴に小突く。

 僕はそんな、まちがっても心の友にはなれなさそうな連中に囲まれながら、心の中で中学時代の親友、中井武彦のことを思っていた。

(ああ、中井。本当におまえの言うとおりだよ。僕も、こんな吐き気のするような連中と同じ高校にならないために、もっと必死になって勉強すればよかった。それこそ死にもの狂いで。もちろん僕がレッドを押し倒すなんて、そんなこと、できるわけないけど……その結果を知ったらこいつら、今度は一体僕に何をやらせるつもりだろう?)

 体育用具室には、バスケットボールやバレーボールなどのたくさん入った金属製の篭や、試合の時に点数をつけるための黒板やボード、また汗くさい何枚ものマットやその他平均台などが、所せましと並べられていた。

「じゃあな、ユキ。がんばれよ」

 大宮がニヤニヤしながらそう言って手を振ると、

「健闘を祈るぜ、ユキちゃん。ギャハハハハ」

 仙石が最後にもう一度大笑いして、体育用具室のドアをガシャンと閉めた。

 体育用具室には小さな窓がひとつあり、そこから外の光が入ってくるので、そう暗くは

ない。だが僕は暗い気持ちでレッドがやってくるのを待ち、彼女が僕の名前でだされたラブレターを信じることなく、ここへこなければいいと、マットの上に座りながら思った。いや、神に祈りはじめていたとさえ言ってもいい。そうすればとりあえずあいつらには、言い訳が立つから。だが僕は、二年進級時にあんなに神に(大宮とだけは絶対に違うクラスになりますように)と祈ったにも関わらず、聞き届けられなかったことを思いだし、心の中で祈るのをやめた。神は中井の祈りは聞いてくれたけど、どうも僕の祈りには耳を傾けたくないような、そんな気配があったから。

 レッドは午後三時きっかりに体育館用具室に姿を現した。心の中で僕は(結局、僕がどんなに祈ろうと祈るまいと、彼女はきっとここへきたんだろうな)なんてシニカルに思いながら、マットの上から重い腰を上げた。たぶん、彼女には言葉でなんて説明しなくても、事のいきさつのようなものがわかっているだろうと、そう思った。

「あんた、弱っちい風体のわりには、結構度胸あるね。このあたしにラブレターをだすなんてさ。『僕はあなたのことが好きです。好きで好きでたまらないんです。いつもかばってくれるあなたの優しさに、苦しい胸の内を抱えています……』。これ書いたの前田だろ。あいつ、習字二段とか言ってたもんね。男のくせに女みたいに綺麗な字、書きやがって」

 レッドは軽蔑しきったような目で、そのハートマークのシールが貼られた四角い封筒を破いた。そしてそれをぐしゃぐしゃに丸めて、セーラー服の胸ポケットへと突っこんでいる。

「前田も前田だけど、あんたもあんただよ。今日は一発説教でもしてやろうと思って、ここにきたんだ。まあ大宮があんたの名前を使ってあたしを呼びだして、罠にはめるつもりなのかもしれない、とも思ったけどね」

 ひたすら黙りこくって下を向いている僕に、レッドは一気にそこまでまくしたてた。そして僕のズボンのポケットに、おもむろに手を突っこんだ。正直いって、ちょっとドキっとした。

「なるほどね。こいつであたしのこっ恥ずかしい写真でも撮れってか。あんたさあ、自分で恥かしくないの?こんな一から百まであいつの言いなりでさ。まああんたにその度胸があるんなら、やられてやってもいいけどね。どうする?」

どうする?と言われても、そんなこと、僕にできるわけがなかった。もし仮にここがラブホテルで、彼女が全裸であったとしても、彼女を犯す勇気が、果たして僕にあったかどうか……。

「黙りこくってないで、なんとか言いなよ。あたしはあんたの本心が聞きたいんだよ。もちろんこんなのただの悪戯だってわかってるさ。あんたがあたしみたいな女、好みじゃないっていうのもわかってる。あんたはアレだろ?うちのクラスの佐藤みたいな、浅倉南タイプの女が好きなんだろ?可愛くってソツってもんがなくて、なんでうちみたいな学校にいるのかがよくわかんない子」

「べつに……僕はそんな」と、下を向いたまま、やっと僕は自分の意見を言った。「松平さんのこと、尊敬しています。大宮さんに言い逆らえるの、うちのクラスで……いや、先生の中にも誰もいないと思うから」

 やっと口を聞いたか、というような顔をして、レッドは優しく微笑んだ。僕の座るマットの、すぐ隣に腰かけながら。

「あんただって、やろうと思えば同じことができるさ。他の奴はどうかわからないけど、ユキちゃんにならできるよ。本当はあんた、女子にユキちゃんって呼ばれるの、嫌なんだろ?でも仕方ないね。そう呼ばれるのが嫌だって言えないんだから」

 どうしてわかったのだろうと、僕は不思議に思いながら、隣のレッドを振り返った。

「まあ見てりゃあわかるよ」と、レッドは肩を竦めている。「なんとなくね。他の男子連中はみんな、あんたと仲良くすると大宮のとばっちりを食うんじゃないかと思って、あんたと親しくしようとしないだろ。女子たちにはそれがわかる。だからユキちゃんユキちゃんって呼んで、何かと手伝ったり話しかけたりしてくれるけど、あんたとしてはさ、複雑だよね。いくら善意だってわかっていてもさ……あたしも同じ半端者だから、そういうのはよくわかるよ」

「松平さんは半端者なんかじゃないです」

 珍しく僕がきっぱりした口調で言い切ったせいか、レッドは少し驚いたような顔をしている。

「いい子だね、あんた」と、そっと僕の肩に、マニキュアが綺麗に塗られた指をのせながら言う。「でもやっぱりあたしは半端者なんだよ。一応女子はみんな仲良くしてくれるけどね。大宮を撃退できるのはあたしだけっていうのもあるし……でもべつに、本当の意味で友達ってわけでもないしさ。そういう意味ではあたし、あんたに自分に近いものを感じるんだよ。大宮の言いなりになってはいても、ユキにはどこか……他の人間とは別格っていうか、違うものがあるね。だからそういう人間が大宮みたいな奴に屈伏してるってのが、あたしには腹立たしくてどうにも我慢ならないんだよ。あたしがあんたのことを庇うのは、そういう理由からさ。わかった?」

「……はい」

 凝り固まった石像みたいな態度のまま、僕は頷いた。レッドはそんな僕の頭にぽん、と手のひらを置いてから、体育用具室をでていった。彼女の香水の香りが消えてなくなると、体育用具室には元の汗くさいような匂いだけが残っていた。 




 >>続く……。



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