第1章
僕の名前は神谷幸男という。幸男、という名前は父さんがつけたものらしい。小学校二年生くらいの頃、担任の先生に「自分の名前の由来をお父さんやお母さんに聞いてくる」という宿題が出された時、母さんがそう言っていた。
「幸せな人生を歩んでほしいという願いがこめられているのよ」と――。
僕の家族は父と母、そして弟の章一郎の四人家族で、家族仲は<まあまあ>いいほうだと思う。弟の章一郎は四歳から十三歳くらいになるまでずっと、喘息に苦しめられ続けて入退院を繰り返していたけれど、それ以外では特に家族の間に何か大きな問題や心配事があったことはない。いや、<一応そういうことになっている>と言うべきか。何故なら父さんには母さんと結婚する前から愛人がおり、それにも関わらず家の中では<そういうことは一切ない>ということになっていたからだ。
僕と章一郎の間にはふたつ年の差があるのだけれど、母さんは僕の小さな頃から病弱な弟の看病にかかりきりだった。その努力奮闘たるや、息子である僕の目から見ても、凄まじいものがあった。とにかく毎日家の中の掃除を徹底的に行い、埃という埃、ハウスダストというハウスダストをとにかく家の外へと放逐し、特に居間やキッチン、章一郎の部屋などは無菌ルームといってもいいほどの美しさであった。
僕が父さんに愛人がいるらしいと初めて知ったのは、十三歳くらいの時だ。夜中の二時ごろにトイレへ行きたくなり、寝呆け眼でそっと階下へ降りていくと、深夜にも関わらず、居間の明かりがまだ点いていた。ドアの把手に手をかけようとした時の衝撃を、僕は今でもはっきり覚えている。
「あなたは、本当はわたしでなくて、あの女と結婚したかったんでしょ!わたしがこんなに章一郎の看病で疲れきってるのに、あなたときたら――他人にでも対するようにまるで冷たいじゃないの。あの子がわたしとの子供でなくて、あの女との子供だったとしたら、もっとあなたも協力的だったんでしょうけど!」
母の声は、涙で震えていた。両親が喧嘩しているのを初めて聞いた僕は、本当にこっそりと足を忍ばせて、トイレで用を足した。トイレの中にいる間にも、ふたりの言い争う声が響いてくる。父さんは「自分には愛人などいない、浮気などしていない」の一点張りで、とにかく最後までしらを切り通していた。そして「きっと章一郎の看病で疲れているんだよ、おまえ」と母さんを優しく宥めすかすのだった。やがて母さんのすすり泣く声がやみ、電灯を消す音が聞こえ、ふたりは寝室へと入っていった様子だった。
僕は便座の上で腕組みをし、今聞いた会話は一体どういうことなのだろうと、首を捻って考えた。母さんは章一郎の喘息のことで、かなりのところ神経質になっていたし、もともとの性格が神経質だったせいもあって、被害妄想的に父さんのことを疑っているのか、それとも本当に父さんには妻子の他に愛人などという存在がいるのかどうか……この時の僕には、まだはっきりとはわからなかった。ただ十分な状況証拠がない以上、息子の良心として父親のことはとりあえず無罪ということにしておこうと、この時はそう思っただけだった。
だが僕は母さんの「章一郎がわたしとの子でなくて、あの女との子だったら……」という言葉には、何か切実な訴えのようなものが含まれているような気がしてならなかった。これは僕が十五歳頃になって、ようやく言葉で表現できるようになることなのだけれど、父さんは僕や弟、また母に対して、どことなく冷たい感じのする人だった。なんというのだろう、うまく説明するのは未だに難しいけど、必要最低限以上の愛情は一滴たりとも注ぎたくない、とでもいえばいいだろうか。
父は札幌の某区役所で公務員をしており、社会的には一見とても立派そうに見える人ではある。本当に、毎日きっちりとネクタイを締めて車に乗りこむその姿は、どこにでもいる善良な家庭人といった雰囲気以外の何ものをも有してはいない。郊外に立派な二階建ての一軒家を構え、妻と子供のふたりを扶養している、どこにでもいる普通のお父さん――それが僕の父、神谷裕一郎だった。
しかし父には母のいうように間違いなく愛人がおり、僕はその愛人に一度だけ、父さんと一緒に会ったことがある。それは僕が中学三年の秋ごろのことだ。学校前の通りの街路樹がすべて葉を落とし、校庭のイチョウが黄葉し、もみじの葉っぱが赤く色づく頃。校門の前で、父さんが紺のRV車を停めて待っていた。
運転席に座っているのが自分の父親であると気づいた僕は、校門のところで友達の数人と手を振って別れた。弟の章一郎の病状でも急変したのかと思った。
「どうかしたの?」と、助手席に乗りこみながら聞いた僕に、父さんは「会ってほしい人がいるんだ」と神妙な面持ちで言った。
「父さんの友人の川部夏代さん。大学時代からの友人で、今はフラワーコーディネーターの仕事をしている人だ。まあちょっとホテルのレストランで一二時間、食事をしながら話をするっていう、その程度だよ」
そのことを話した時の父の嬉しそうな顔つきといったら――家にいる時とはまるで別人だった。それで僕にはほとんど直感で(自分はこれから愛人に会いにいくんだ)ということがわかってしまった。
父はおそらく離婚を人生の視野に入れており、まず家族の中で僕を味方につけようとしたのではないだろうか。
大通り公園のそばにあるホテルで会った川部夏代さんは、とても綺麗な人だった。うちのお母さんも美人だとは思うけど、川部さんには母さんにはない、いわく言い難い女としての魅力が備わっていた。優しげな目元に、上品な微笑みをたたえた唇、美容室で今セットしてきたばかりというような、カールのきいた髪型――服装もとてもお洒落で、それでいながらどこか控えめな印象を人に与えた。
父さんと同じ四十歳というけど、はっきり言って三十代前半くらいにしか見えなかった。
僕は奇妙な気持ちで、父さんを挟んで川部さんとテーブルに向きあい、生まれて初めてフランス料理のフルコースなるものを味わった。世界の三大珍味といわれるキャビアやトリュフも初めて口にしたけど、はっきり言って、味のことはあまりよく覚えていない。とにかく「びっくりするほど美味しい味」というような印象を受けなかったことだけは確かだ。そのことが僕のその時の精神状態によるものか、味覚がまだ未発達だったせいなのかは、今もよくわからない。
僕がその時強く印象に残ったこととして覚えているのは、以下のことだった。川部さんがとにかく小さなことにでもしょっちゅう笑う人であること、父さんが隣でそれを見て、青年時代に戻ったような微笑みを浮かべていること、またそのことと対比して母さんが家でいかにも神経質そうな顔をいつもしていること、父さんがそんな母さんの横で溜息をこらえるような表情を浮かべていること――などだった。
ホテルでの食事を終えた夕方ごろ、父さんは車の運転席で至極上機嫌だった。それで僕は心の中で(あの人、父さんのなに?)と思いながらも聞くことができなかったくらいだ。自明の理、とでもいおうか。父さんのほうでも(そろそろおまえも大人になってもいい年齢だ。野暮なことは聞くな)というような雰囲気があり、とにかく北広島にある自宅に帰り着くまでの間、僕は珍しく機嫌のいい父さんを相手に、差し障りのない会話しかできなかった。父さんが母さんと離婚するつもりなら、それはそれで仕方のないことだと思ったからだ。ただ、父さんがどういうつもりで自分をあの人と会わせたのだろうと考えると、少しだけ暗い気持ちになった。何故なら、両親が離婚する場合、僕はできれば母さんについていきたかったけど、母さんには弟の章一郎がいる。病弱で、ただでさえ手のかかる弟だ。母さんはきっと「幸男は父さんと一緒に行きなさい」と言うのではないかと、僕はそのことが少し心配だった。
結局のところ、僕の両親は離婚はしなかった。でも僕はあの日以来、家庭内における父さんの微妙な心理状態のようなものに、やけに敏感になっていた。女性が自分の交際相手の浮気に敏感であるように。
よく考えてみると、父さんは僕の小さな頃から「仕事上のつきあい」と称しての飲み会がやたらと多かった。父さんは区役所の建築課に勤めているのだけれど、よく電話で「今日は佐野組と……」とか「今日は横山建設と……」などといちいち会社の名前を上げていたのが、今にして思うとかえってあやしく感じられる。そもそも役所の人間というのはそんなに民間企業の接待に呼ばれたりするものなのだろうか?
だが僕には今も、父さんの浮気の実態について詳しいことはよくわかっていない。ただ夜中の二時ごろに帰ってきた次の日などは、母の機嫌が極端に悪いことだけは確かだった。それで僕も時々(ゆうべは愛人のところだったのかな)と想像する程度だ。
やがて僕が高校に進学するころ、章一郎の喘息は嘘のように直り、母さんの神経質な気性も少しは和らぐかと思われたが、そうではなかった。むしろある意味では章一郎が喘息であったからこそ、父さんの浮気疑惑に対する母さんの追求は弱められていたのかもしれない。だが章一郎が普通に中学校に通いだすやいなや、母さんの大きな関心事は父さんの愛人疑惑へと集中した。
しかし、父さんは「愛人などいない」の一点張りで押しとおし、しまいには心療内科でのカウンセリングを母さんに勧めると、まあそんなわけなのだった。
もちろん僕がここで「川部夏代さんという、父さんの愛人らしき人に会った」と母さんに密告してもいいのだが、そんなことをする気は僕にはさらさらなかったといっていい。何故なら、結果としてそれは母さんのためにならないことだからだ。おそらく父さんはそこのところ、女心の微妙な心理といったものを実に適確に捉えていた。母さんは父さんの浮気を疑いながらも、また同時にそれを否認してほしいと願っているようだったからだ。とにかく女の直感として愛人の影やその匂いといったものを嗅ぎつけるが、その不安が起こるたびに繰り返し否定さえしてもらえれば、事実がどうであるにせよ、暫くの間は安心して暮らせるのだ。
僕はそうした、ある意味微妙に奇妙な家庭環境下で育った。そのことが不幸だったかどうかということは、僕には今もよくわからない。不幸だったような気もするし、どこの家庭も多かれ少なかれそうした要素を家庭内に含んでいるものだと、そんなふうに思いもする。また、僕が生まれ育った家庭環境よりも遥かに不幸だったという人など、世の中にたくさんいるだろうということも。
ただ、某私立の高校に進学した時、僕は決定的なまでに不幸だった。高校の三年間で僕は人生の不幸のどん底を這いずりまわり、人間として惨め極まりない体験を味わせられることになったから……。
これはあるいはもしかしたら、僕の誤解と偏見に基づくものかもしれないけど、私立の高校には二種類タイプがあるように思われる。ひとつ目は中高一貫の、エリート校としての私立。ふたつ目が、僕の通っていた高校と同じ、そこに行くしか仕方ないという意味での、レベルの低い私立。
僕はおよそ、高校に進学するまで勉強なるものをろくすっぽしたことがなかった。だから中学三年の進路相談の時、高校には進学したくないと、両親にも先生にもはっきりそう言った。タイル職人か大工、あるいは塗装工や左官屋、そうした中卒でも技術を教えてくれそうな会社に就職したいと。だがどういうわけか、両親も先生も猛反対した。とにかくどこでいいから高校には進学しろという、その一点張りだった。まあ父と母はわかる。ふたりとも名の通った大学と短大を卒業している人だし、親戚などに対する見栄というか世間体というか、そうした意識がきっと働いていたのだろう。将来的にはそのことが絶対におまえのためになるという言葉の裏側で。
そして担任の野村先生。彼が何故そんなにも真っ向から反対するのかが、僕にはよくわからなかった。もちろん両親の意向を汲んで説得しようとしたという向きはあるだろうけど、せめて先生にだけは自分の味方をしてほしいと、そんなふうに僕は思っていたのに。
僕の小学・中学時代は担任の先生にも恵まれ、多くの友達もいて、実に幸福だった。僕の人生における最良の、黄金時代といっていい。僕は母さんが章一郎にかかりきりでも、変に僻んだりすることもなく、外で友達と元気に遊びまわっていた。あるいは家の中で友達の何人かとゲームをしたりして遊ぶかのいずれかだった。
小学生の時は野球の得意なガキ大将、中学生の時には放送部と生徒会の両方に所属した。僕みたいに成績が下位の人間が生徒会の役員をするのは珍しいことだったけど、人望が厚かったせいか、冗談で立候補した副生徒会長に、二年連続して当選した。
クラス内では常にリーダー的存在として行動し、三年間野村先生の手をなるべく患わせないような形で、四十名近くいる生徒をまとめあげた。自分で言うのもなんだけど、僕は小学生の頃から一貫して女子にも男子にも何故か受けがよかった。クラス内でふたつ以上のグループが対立しあう時、間に割って入って仲裁したりとりなしたりする役目も、いつも僕が買ってでた。だから野村先生の目には僕のことが優等生として映っていただろうし(たとえ成績はお世辞にも良いとはいえなくても)、それであればこそ、ワルの吹きだまりのような低レベル私立でも、僕がきっとうまく適応してやっていけるだろうと、そんなふうに思ったのかもしれない――のちに僕がこの時の両親と野村先生のことを呪い殺してやりたくなるほど恨むようになるとは、先生にも、また両親にも、想像すらできなかったに違いない。
「おまえ、アリ高いくってほんと?」
ふたりいた親友のうちのひとり、中井武彦が言った。卒業アルバムに載せる写真を、放課後、写真係の彼とふたりで選んでいた時のことだ。外が本当に美しい冬の夕暮れだったことを、僕は今もよく覚えている。
「ああ。俺、おまえと違って頭悪いからさ、なんとかして入れるっていったら、あそこしかないんだよ」
「そっか。でもあそこ、すげー評判悪いだろ。俺の兄貴の友達もアリ高通ってたんだけど、途中で嫌になって中退したって言ってたからさ。ユキオのことだからまあきっと大丈夫かなあとは思うけど、でもおまえ、本当は就職したかったんだろ?親とそのことで突っこんだ話しあいとかしたの?」
「いいや」と僕は首を振った。「うちの両親って、ふたりともガチガチに頭の固い人たちだからさ、とにかく高校には行けの一点張りなんだよ。もしかしたら俺も、途中で嫌になって中退とかするかもしれないな」
中井は市内でもっとも合格が困難と言われる高校を受験する予定だった。他に滑り止めとして私立も一本受けるらしいけど、こっちはアリ高と違ってレベルが高いほうの私立だ。
「俺さ、ずっと言おうと思ってたことがあるんだけど」
中井はうつむき加減になると、文化祭の時の写真や体育祭の時の写真、あるいは就学旅行の時の写真の束などを、指でいじっている。
「おまえって、凄くいい奴だよな。俺、中学にきた時、正直いってびっくりしたよ。『ああ、世の中にはこういう奴もいるんだな』って。これまで一度も言ったことなかったけど、俺、小学校の時いじめにあってたんだよ。五六年の時。C組の飯野って、おまえ知ってる?」
「ああ、知ってる」と、僕は言った。相撲とりみたいに図体のでかい、妙に威張っている奴だ。
「俺、あいつに凄い嫌がらせとかされてさ。はっきり言って地獄だったな、学校へ通うのが。そんで思ったんだ。とにかくひたすら勉強して、レベルの高い高校を目指そうって。そういうとこって、あんまりいじめとかなさそうっていうか、なんかそういう雰囲気あるじゃん。とにかく飯野みたいな奴のいない世界にいきたいって、そう思ったわけ。中学に上がる時はひたすら祈ったよ。『どうか飯野とだけは同じクラスになりませんように』って。それで、気の合う友達ができますようにってさ。そしたらユキオが同じクラスにいたってわけ」
嫌味にならない程度に微笑みながら、そうだったのか、と妙に僕は納得していた。何故なら彼は僕以上にいじめというものを猛烈に憎んでおり、正直いって、こいつはいじめられても仕方ないんじゃないかというような奴にまで、優しく手を差し伸べてやっていたからだ。
だが中井が経験したように、いじめというものは実際に自分が被害者になってみないと、それがどんなにつらいものであるかが理解しにくいものなのかもしれない。小学五六年生の時、同じクラスの飯野が中井にとっての天敵であったように、僕も高校生になって生まれて初めてそのような存在と遭遇した。奴の名前は大宮竜二。親が暴力団なのか建設会社なのかよくわからない『大宮組』という土木・建築会社を経営しており、彼は高校を卒業後はその組を継ぐ跡取りなのらしかった。
大宮はその体型と態度と同じく、とにかく声がどでかかった。楽器に例えるならバスか太鼓といったところ。彼に声をかけられると、意味もなくクラスの人間は誰でもビビったものだ。
そして誰も奴の下す命令には、逆らうことができなかった――同じクラスの男子だけでなく、女子はもちろんのこと、他のクラスのどんないかつい奴でも、また教師たちでさえ大宮のことを心の芯から恐れていた。
まずその理由のひとつには、あいつが放課後、暴走族のような連中と帰ることにある。学校の正門前には<一般車両通行止め>と書かれた看板と、車止めが置いてあるのだが、暴走族の連中はそんなものはないかの如く侵入してくる。パラリラ、パラリラとお決まりの騒音つきで。毎日やってくるいかにも質の悪そうな連中の乗る単車の数は十数台。そんなものを見せつけられれば誰だって、さわらぬ神――いや、鬼か悪魔――に祟りなしと、そう思うだろう。しかも朝は朝で、大宮の奴は黒のベンツに乗って登校してくる。親分の舎弟らしき黒服の運転手がドアの開閉さえも行ってくれるのだ。
正直いって僕はその光景を初めて見た時、(馬鹿じゃないか、こいつ)と思った。でもその馬鹿とよもや同じクラスになろうとは――思いもよらないことだった。
アリ高こと私立有森高等学園には、一学年にクラスが六クラスあり、僕が振り分けられたクラスはF組だった。しかも最初の席順はアイウエオ順で、僕は大宮のすぐ後ろの席に当たってしまったのだ。なんという不運だろう。
大宮は背が180センチ近くあり、肩幅も結構あったから、身長が175センチで痩せ型の僕は、奴の後ろに座ると月蝕みたいにすっぽり体が隠れてしまう。もちろん最初は奴のことをそんな恐ろしい奴だとは露知らなかったので、「ちょっと柄の悪そうな、怖っぽ
そうな奴だけど、意外と話してみたらいい奴かもしれない」くらいの印象しか、僕は持っていなかった。だがあいつは始業式の翌日から、早速とばかり、その恐ろしいまでの本性を剥きだしにしていた。
まずあいつは、クラスにもうひとりいたちょっとコワモテ風の茶髪男を、見せしめとばかりに吊し上げた。
「おまえ、今俺にガン飛ばしただろ?」
僕の後ろの席だった杉田は、身に覚えがないとばかりに、細く整えられた眉をしかめている。
「ああん?何いってんだ、テメェ」
間に僕がいることなど構わず、大宮が立ち上がり、杉田の胸ぐらを掴む。
「ガン飛ばしたから飛ばしたって言ってんだよ。やる気か、コラァ!」
当然、こうなると杉田も黙ってはおらず、朝っぱらから取っ組み合いの大乱闘になった。お互いに喧嘩馴れしているのかどうか、殴りあう拳の速さにまるでためらいがない。先に鼻血を流したのは大宮のほうだったけど、そのせいで奴は完全にブチ切れて、鼻の骨が折れるまで杉田の顔を後ろの掲示板に叩きつけた。
「やめなさい、君たち。やめなさい!」
クラス内に、担任の小暮先生のいかにも気弱そうな制止の声が響く。
「うっせえ、ジジイ!すっこんでろ!」
大宮に怒鳴られた先生は、とにかくまずは相手のほうだと思ったのだろう。膝をついて蹲っている杉田に、「大丈夫かね?」と声をかけた。
「大丈夫なわけねぇだろ、このクソッタレが」
杉田は口許と鼻のあたりを押さえたまま、ふらふらと教室をでていった。おそらく保健室にいったのだろうけど、彼はその日そのまま病院へ行くことになり、次の日からは学校へこなくなった。登校二日目にしてすでに、大宮による第一の犠牲者がでたというわけだ。
担任の小暮先生は、よくこんな荒れた高校で二十数年も教師をやってるな、と呆れてしまうくらい、とにかく生徒に対して腰の低い先生だった。いや、あるいはそれであればこそ、三十年近くも勤務していられるのかもしれない。彼の姿はまるきり、役所の哀れな小役人といったような風情だった。背が低く短足で、眼鏡をかけていてハゲ頭――いや、完全に禿げているわけではなかったけれど、その頭髪はいっそのこと剃ってしまったほうが潔くはないかというくらい、薄かった。
とにかくこの先生はアテにしても無駄だということは、三十七名いたクラスの生徒が全員共通して感じていたことだった。小暮先生は国語の教科を担当していたが、その授業の進め方からして、彼がどんな先生であったかが窺い知れる。
他のクラスでも授業によっては似たところがあったかもしれないけど、とにかくF組の生徒はどの教科の先生の授業も聞かなかった。いや、聞きたくても聞けなかったといったほうが正しいかもしれない。それは何故か?大宮が常に茶々を入れて邪魔をするからだ。小暮先生など、大宮みたいな生徒をどう扱えばいいか、実に心得たものだった。ゆえに国語の時間は常にプリント学習。あとは教科書の要点を黒板にずらりと書き並べ、「君たち、これをノートにとりたまえ。テストにでるから」というわけだ。
当然、大宮が大人しくプリントの穴埋め問題を解いたりなんかするわけがなく、そうした細々とした雑用は、すべて後ろの席の僕にまわってきた。その他日直や掃除当番など、僕は大宮のパシリとして実によくこき使われた。
だが、僕がとにかく大人しくあいつの言いなりになっている限りにおいて、大宮は特にこれといってひどい嫌がらせをしてくることはなかった。僕がパシリ係であるとしたら、他に殴られ係(日替わり)、友達係、子分係などがいて、とにかく皆、何故かはよくわからないけど、あいつの命令には絶対服従せねばならないのだった。
実に残念なことに、僕は高校の三年間、友達と呼べるような人間を、ひとりとして作れなかった。いや、友達に近い人間なら何人かはいた。だが誰も、大宮のことを恐れるあまり、僕に近づいてはこなかった。二年のクラス替えの時――同じクラスになったただひとりの人を除いては。
僕に友達ができなかった理由は色々ある。まず、クラスの他の人間の目には、僕が大宮の腰巾着みたいに見えただろうからだ。日替わりの殴られ係数名は、あいつにプロレス技をかけられたり羽交い締めにされたりしながらも、損な役目を割り当てられている者同士として、連帯感を持っていたようだった。それで本気で技をかけられて痛い思いをしながらも、それを友達何人かで笑い飛ばしたり、ジョークにしたりと、かなりのところ涙ぐましい努力をしていた。
大宮の友達係というと、聞こえはいいかもしれないけど、あいつを喜ばせるためにやりたくもないことをしょっちゅうやらなければならない係とも言えたし、子分係はもっと大変だった。何故ならそれは大宮と友達係三人の気まぐれによって、いつ何をやらされるかわからない係でもあったからだ(好きでもない娘に告白しなければならない、など)。また子分係は大宮から受ける友達係全員のストレス解消係ともいえただろうからだ。
一度、一学期のはじめ頃に、こんなことがあった。
大宮の友達係――上村、園田、小林――のうちのひとりが、僕に食堂までいって食券を買ってくるように言いつけたことがある。すると大宮は突如として猛烈に怒りだし、
「こいつは俺専用のパシリだから、他の奴を使え」
と、小林のことを恐ろしい形相で睨みつけたのだ。奴の目が本気であることを見てとった小林は、子分係のひとりに食券を買ってこいと言って、金を手渡していた。
その日以来、何故か男子連中の間には、僕に対して冷たい空気が流れるようになった。僕は殴られ係のように痛い思いをすることもなく、友達係のひとりに加わるでもなく、だからといって子分係でもないという、実に特殊で微妙な地位をクラス内で与えられたのだ。
時々、大宮がいつものように暴走族仲間と帰ったあとで、掃除の時間にこう言われたことがある。
「カミヤはいいよなあ。毎日痛い思いをするでもなく、嫌なことされたり言わされたりすることもないんだからさあ」
そこで僕がどう答えたものか返答に困っていると、いつも女子たちが庇ってくれたものだった。
「ユキちゃんだって大変よ。日直に掃除当番に食券買いにその他いろいろ。あんたたちだって、同じことやればわかるはずよ」
何故かはよくわからないけど、僕は昔から女子受けがよかった。ただその眼差しには昔と違って、尊敬ではなく同情的なものがあるばかりではあったけれど。
それと大宮が僕にこれといってひどい嫌がらせをしなかった理由のひとつに、僕の顔が<女顔>だったということが上げられるかもしれない。僕は母さんに似て色白で、眉毛が細く、男のわりに睫毛が長かった。その上細面でまあまあ鼻筋が通っていて、唇がぽっちゃりと厚ぼったかった。でも自分が女顔で悩んでいるとは、誰にも打ち明けたことはない。そのせいで一年の時の学園際では、大宮に化粧をされて『セーラームーン』の劇をやらされたことまである。他の子分係や殴られ係の連中と一緒に。僕だって、これでも実は結構心の傷になるような、嫌なことは色々やらされたのだ。
当然のことながら、大宮に嫌がらせをされたのはクラスの生徒だけではない。担任の小暮先生は大宮からバッタやイナゴ、カマキリなどと仇名されてはいたけど(顔がどことなくその手の昆虫に似ていたので)、せいぜいその程度で済んだのは彼にとって幸いなことだったに違いない。まあ大宮が何か問題を起こすたびに、彼に媚を売るような形で仲裁に入ったということも、大宮にとってはポイントの高いことだったのかもしれない。
教師としての犠牲者第一号は、英語の麻宮敦子先生だった。年齢は二十八歳。やや厚めの眼鏡をかけた、ちょっとインテリっぽい感じのする先生だ。
何しろF組は六クラスあるうち、もっとも荒れた教室だったので、授業をまともに受けさせるのがとにかく大変だった。小暮先生のように勤続二十数年のベテラン教師ともなると、最初から白旗と降伏の狼煙を上げているのだけれど、やはり新米というか若手の先生たちはなんとかまともに普通の授業をしようと、孤軍奮闘することが多かった。
まずエロ雑誌やエロ漫画などを没収し、それから教科書を開かせる。忘れてきた場合は隣の生徒と共同で。またトランプや花札などをしている場合は、それらを一時的にとり上げる――ここまでで大体、少なくとも二十分ははかる。せめて残り三十分くらいはまともに充実した授業を行いたいところだけど、そうは問屋がおろさない、ではなく、大宮がさせはしないのだ。
「The Pacific War started in 1941.この文章の訳と文型を、大宮くん、言ってみてください」
先生は五問黒板に書いたうちの最初の問いを、大宮に当てた。気持ちはわかるけど、よせばいいのに、というのが生徒たちの大方の心の声だった。
「その前に先生、ひとつ質問があるんですが、よろしいでしょうか?」
くるぞ、と大宮の後ろで僕は、意味もなく身構えた。
「先生は処女なんですか?」
絶句している麻宮先生に向かって、ピィと口笛が鳴ったり、ヒューヒュー囃し立てたりする声が巻き起こる。はっきり言ってまあ、これが友達係のおもな役目といっていい。
「なっ、何を言ってるんですか。授業中ですよ、今は」
「そっ、そうかもしれないけど、俺も気になるんですよ、先生。先生のケツのあたりを見てると、ナニがおっ立ちそうになってさあ」
ゲラゲラと下品に笑う小林や園田や上村。女子たちはといえば、ひたすら白けた視線を送るのみだ。大宮は大きく両手を振りかざし、「勝った」と言わんばかりの満面の笑顔。
「そんなことは授業に関係ないでしょう。それよりこの問題に答えなさい。わからないならわからないと言えばいいでしょう。大宮くんはわかってるんですか?授業が進まなくて困るのは先生ではなくて、あなたたちなんですよ」
「おいユキ」と、大宮が後ろの僕を振り返る。「可哀相だから、そろそろ答えてやれや」
溜息を着きたいのをこらえつつ、僕は答えを言った。
「太平洋戦争は1941年に始まった。第一文型」
麻宮先生は僕の答えを聞くと、少し嬉しそうな顔をした。大宮のでかい図体に隠れて見えなかったけど、有望な生徒もいるのだというような、そんな表情。
「じゃあ次。We couldn’t keep the ele−phants any more.」
大宮の言うとおり、先生があまりにも気の毒だと思ったのだろう、女子たちのうち何人かが、すっと手を上げた。
「じゃあ、木の下さん」と、やっとまともに授業ができると先生がほっとしたのも束の間、四時間目終了の鐘が鳴る。
「わたしたちは象をこれ以上……」
木の下菜々子が途中まで答えるが、大宮の大きな欠伸の音で、その声はかき消されてしまう。
大宮や小林、園田らが、没収されたエロ本を片手に、どやどやと教室をでていく。
麻宮先生は彼らの存在を無視すると、木の下にもう一度きちんと解答を言ってもらい、それを黒板に書きこんだ。そして残りの三問については自分で急いで答えを書きこみ、これをノートに移しておくようにと言って、教室をでていった。
F組での授業は、一事が万事、この調子だった。まずエロ本の没収から始まって、教科書を開かせるまでに二十分。残りの三十分は余計な茶々などによって短縮され、実質的な授業はほとんど行えないというのが現状だった。ゆえに、テスト前はとにかくプリント学習が中心となる。先生が苦心して要点をまとめ、必要最低限それだけはやっておけというコンパクトな内容が記載されたものと、練習問題及び解答が配られるわけだ。
うちの学校はレベルが低く、授業内容もそう大したものではないので、ポイントを押さえてとにかくそのプリントさえみっちりやっておけば、まあまあの点数が自動的に取れるようになっている。ちなみに僕はテストの度に大宮の命令によってカンニングペーパーを作らされた。だがそのプリントの内容をかいつまんで作成すればよいのであるから、そう大した手間ではない。ただ僕の良心の問題としては、それはつらい作業だった。べつにカンニングペーパーを作ることによって、カンニング疑惑を周囲の人間にかけられたりするのが怖いというわけではない。それは大宮に言われて仕方なくやらされたことなのだと、クラスのみんなも先生方も、話せばわかってくれるだろう。でも小学・中学を通して、僕はこれまであまりにも優等生だった。友達が喧嘩していれば仲裁に入り、クラスで孤独な思いをしている生徒がいれば仲間に加える努力をした。だが今僕にできることは、いじめとも言えるプロレス技を黙認し、とにかくひたすら大宮の言いなりになって行動することだけだった。このどうすることもできない無力感がどんなに屈辱的なものだったか――言葉で説明できるようになるまで、僕はその後十年もかかった。
>>続く……。