二粒
時刻は五時。
施設のロビーを抜けて少し広い駐車場に出る。
辺りは青いもやが掛かったように薄暗く、夏だというのに空気は冷たい。
僕はスニーカーを鳴らし、前へと進む。まだ時間はある。
道路を横断し、田園地帯を歩く。
野ざらしにされているせいか、色素の薄くなったバスの時刻表。そんなものを横目で眺め、僕はそこにつく。
少し小高い山。
広葉樹が生い茂り、田舎の年寄りが山菜取りに来そうな青臭い山。
今度、施設の子供達を連れてハイキングに出かけることになっていた。だからその下見。
といっても日頃からここは通り慣れている。いちいち山を横断するよりも、ショートカットした方が町へ行くのが楽なのだ。
「よし」
気合を入れて僕は山を登る。急斜面のでこぼこ道は貧弱な僕にはいささか辛いものがある。
転落防止のロープを掴み、いそいそと登る。十五分ほどで頂上に着く。
頂上は開けた場所になっていて、百八十度町を一望できる。もう百八十度は後ろは森になっていて何も見えない。見えたところで元来た田園地帯なので何の面白みもないのだけど。
地味に疲れた僕は青いプラスチック製のベンチにぐったりと横になる。体の筋を伸ばし、欠伸をした。
この時間だけは心を落ち着けることができる。誰もいないし誰にも邪魔されない。
今度は体を起してベンチに背をもたれる。
町はまだ眠っているかのように静かだ。どこかで新聞配達の原付のエンジン音。
僕はおもむろに立ち上がり、森とは反対側の崖っぷちに生えた植物をスケッチするために転落防止のフェンスに近づいた。
ポケットから手帳と父の形見のペンを出し、植物を描き写す。
それは後で調べて、ハイキングの時に子供達にいろいろ教えてあげるため。
「流石に向日葵と紫陽花はいいかな……」
でも花言葉なんか知っていたら面白いかもしれない。僕は花言葉、と手帳に記し丸でくくっておく。
頂上は誰かが種を撒いたのか沢山の花が咲いていて、なかなか美しい。
心なしか百合の花が多い。図鑑で見たことがある赤いユリやピンク色のユリがあった。
僕は屈み、ユリと記すとスケッチをまた再開。
「それは百合ではないよ」
「え?」
僕は振り向く。
チェックのシャツ、下がスカートになったオーバーオール。黒いブーツに黒い長髪。
なんだか偉そうな感じの女が手をポケットに入れながら僕の顔を見つめていた。
「それは百合ではない。鳳仙花だよ。花言葉は“私に触れないで”」
彼女は草むらからガザゴソと出て、僕に近づく。
僕から見て右側に行けば町に降りられる、左に行けば田舎道。でも彼女が出てきた場所は背後の森。
ほぼ九十度の斜面を登ってこない限りそちらから人が来ることはありえない。というか無理だ。
つまり僕が来る前から彼女は森の中に潜んでいたということ。
何の為に?
「君……いつからいたの? 僕に用?」
彼女は口元を左手で覆い、探偵のように考える仕草をした。
「ふむ、なかなか君は巡りがいいようだね。君にようがあるかどうかの前に私は宣言しておきたいことがある」
「な、何?」
彼女は左手をポケットに戻すと、当たり前のようにいう。
「私はどうやらレズらしい」
「……はっ?」
僕が理解できないでいるのを察したのか、彼女はその言葉を分かりやすく説明する。
「つまりはつまりはそう、同性愛者ということだ」
さっぱり意味が分からない。僕は少し身じろぐ。
もしかして結構危ない人なのかもしれない。
「おっと、その目は引いているな。鳳仙花だけに近寄るな、ということかな? しかし残念だが私はレズな以上、君を逃すことはないとここに断言しよう」
何の宣言だ。
「あの……その、さよなら!」
危険な香りに僕は身を翻し、町の方向へと走る。
しかし僕は直ぐに横転。足に違和感。
何故だろうと見てみると足元に細いタコ糸が引っかかっていた、そのタコ糸を目で追う。
森の方向に伸びていて……………………最終的には彼女のポケットの中に繋がっていた。
影が僕を覆う。笑みは濃く、圧倒的な立場を誇示する。
「フフフフ、観念してもらおう」
ゆっくりと手が伸びる。僕はそれに目を瞑った。得体の知れない恐怖が黒い魔の手となって僕に伸びる。
そして、彼女は僕の手を取ると起き上がらせたのだった。
あれ?
「へ?」
「まずは友達からだよ!」
変な彼女は純情な乙女だった。
彼女は僕の手を取り、ベンチに座るように半ば強制的にいうと急に固まった。
「……んん? 君は男性だったのか? 骨格や筋肉の付き方が女性のそれとは違う」
「いや、まあ……一応」
声だけで十分わかると思うんだけど。
額に手を当て、なにやら思案顔になった彼女は少し間を置くと、眼を開け捲くし立てた。
「では私はレズではないということか! よかった! 私のこの気持ちと倫理を天秤にかけ、一週間悩み抜き、それを自分自身のサガと認めたのが先ほどのことだ。しかし私は至ってノーマルかつ生物として何の規範も外れていないのだね。よかったよかった」
彼女はそういい、僕の両手をシェイクハンド。勝手に自己完結された。
「ええっとよく分からないんだけど、つまり?」
「私は君のことが好きだということだよ!」
「へ?」
名前も聞いていない彼女は僕に抱き着き唇を合わせた。少し湿った柔らかい肉が僕の唇の上に押し付けられる。
僕は半ば押し倒されるように、ベンチに背を打ち付けた。
驚いた僕は彼女を突き放す。それでも彼女はハイテンションだった。
「な、なに……」
「うむ、話に聞いていた通りだ! 確かにキスとは肌と肌の接触行為だけではない! それ自体に意味がある。古来から人間がこの行為を好んで行ったわけだ。互いの距離をゼロにするというよりも恐らくは相手と同化する意味合いの方がが強いのだろうね」
「あの……話を」
「いや、それよりも私は官能的なこの行為に酷く興奮した! 難問を解いた時のような高ぶり、振るえ、動悸や眩暈」
最後の方のは病気か何かだろ。
「つまり脳内でβエンドルフィンが多量に分泌され、私は酔っているだよ。わかるかなわかるかねわからんだろう!」
「いや、その」
自己完結されても困る。どこか馬鹿な感じの彼女は拳を胸に掲げ、僕に力説した。
そして僕の頭を両手で固定する。
「ちょ、え!?」
彼女はまた僕に口付けをした。目を開けて僕の泳ぐ視線を捉え続ける。
そして何かが口をのたうつ。ぐにゅっとした柔らかくて熱いものが唇を割り、侵入した。
「んっ!」
「ぷはっ」
彼女の薄い胸を押して、無理矢理顔を離す。そして後退り、強い語調でいう。
「さっきから君は何だ! 急に人にキスしてきて訳分からないこと口走って自己完結して、何がしたいんだよ!」
僕は顔を真っ赤にして口を拭く。彼女はその言葉に一瞬唖然とし、立ち上がると……笑った。
何故笑うんだろうと彼女を見つめる。そして次にまた何かをされるんじゃないかと身を固める。
「君は何か……か。私としたことがまだ名乗るべき名前を語っていなかったとはね」
「……それ以前の問題だ」
「ふふふふ、ここで名乗ってもいい。しかし私は思うのだよ!」
急に張り上げられた声に少し僕は驚いた。
「な、何を?」
「恋とは謎があってこそのものだと! 相手を知らないから知りたいという気持ち、知ったときの嬉しさ。それらが恋足らしめる要因の一つであると!」
「……つまり?」
「今日はここでは語らない。次までに何か面白いものを考えてこよう!」
そいって彼女は笑いながら森へと駆ける。僕はワンテンポ遅れながらそれを追う。
「さらばだ、明智君!」
「ええっ、ちょっとちょっと!」
振り返ることなく彼女は走り、消えた。もとい斜面から転げ落ちて坂を下っていった。
「…………な、夏だなぁ」
熱くなってくるとああいう変質者が沸くっていうし、うん。きっといろんな意味で彼女は病気だったんだろう。
少し気がかりなのは彼女が飛び降りた斜面こと、絶壁はなかなか高い。
大丈夫だろうか、死んでなきゃいいけど。
僕はベンチに戻り、溜息をついてメモ帳に言葉を記す。
「……なんかシャクだけど一応、鳳仙花って書いとこう」
花言葉は“私に触れないで”
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