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  メスと珈琲 作者:GFJ
第9話 掌の傷
 額の汗を拭きながら久保田は続けた。
「私の本職はフリージャーナリスト。場合によっては、ペットショップのオーナーになったりした方が仕事がやりやすいんです」
 これまで会話に入れなかった私だったが、久保田に対しての不信感から、気がついたら意見していた。
「ペットショップは熱帯魚を売るとして、邦流新聞記者って、それ、詐欺罪に当たりませんか」
 言った後で、しまったと思った。相手はどんな人なのかわからない。しかし、後悔後に立たず。出てしまった言葉は元に戻らない。久保田は神妙に言った。
「あの名刺は過去のものです。ボクは5年前まで新聞記者をしていました。でも、大手報道機関での仕事に嫌気がさして、今はフリーで活動しています」
 どこまでが本当でどこからがウソなのか、私には判断しかねていた。仮に新聞記者をしていたのが本当だったとしても、辞めたのではなくてクビになったのに違いない。

 私は、ビスケットをかじり心を落ち着かせようとした。あまりにも短時間にいろんな事があって、想定外の展開に頭がついていかない。どうやってこの男に失礼にならないように「どうもありがとうございました。もういいです」と伝えたらいいのか、そのことを必死で考え始めていた。

「ところで、モカ・マタリってすごくおいしいね」
 景子が誰にともなく言う。
 それを聞いて、久保田が喋り始めた。
「モカ・マタリ。コーヒーの貴婦人。特に、こうさんのモカは最高さ」
 景子が嬉しそうに言う。
「貴婦人だって。うっふっふ」
 景子、あんた、能天気すぎる……
「モカはとても手間がかかるんだよ。欠点豆が多いから。いちいち手で取るんだ、虫食い豆やなんかをさ。こうさん完璧主義者だからね、徹底してるよ。ここでモカを知ったら、他ではとても飲めないよ。」
 久保田が自慢気に言う。一体どうやったら、この男から解放されるのか……。私は逃げることばかり考えていた。

 そこへマスターがやってきた。
「飲みかけのコーヒーを忘れてるぞ」
 マスターは、久保田の前にコーヒーカップを置いた。そのときだった。トレーに添えたマスターの右の掌が見えた。そこにはくっきりと傷があった。掌の真ん中に3cmほどの傷。私はすぐに目をそらしたが、その映像は鮮明に私の記憶に残った。いつもコーヒーを置く時には右の掌は見えない。今日は、久保田が私と直角の位置に座っているので、偶然見える位置に来たのだ。

 マスターが奥に消えたのを確認するように久保田が後ろを振り返った。私と景子の顔を交互に見て、久保田は言った。
「君達は地中海病院事件って知らないよね」
 地中海病院。病院の名前だけは聞いたことがある。景子もキョトンとしている。
「7年前だから、まだあなた方が中学生ぐらいの頃かなあ」
 久保田はゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
「あの事件がボクの人生を変えたんだ。そして、諸岡浩一(もろおか こういち)の人生もね」
 呟くような話し方だった。
「いや、順序が逆だったな」
 景子は目をぱちぱちさせて、久保田に聞いた。
「モロオカコウイチって誰ですか」
 久保田は両眉を思いっきり上げると、
「あ、そうか」
 しばらく沈黙をおいて、決心したように小声で言う
「んー……ここのマスターさ」
 親指を立て、肩越しにカウンターの方を指差しながら。何が何だかさっぱりわからなかった。ただ、この久保田という男とここのマスターは長年の付き合いらしいということは理解できた。

「ボクが新聞社を辞めた理由は長いし多分退屈だろうから、この前、仕事で石垣島に行ってきた話でもしようか」
 久保田は、石垣島の海に生息する魚のことを、一人でぺらぺら喋り始めた。喋っている途中から、いつの間にか小笠原諸島近郊の魚の話に移行している。

 こんな男を連れてくる景子も景子だけれど、この久保田という男もいまいち理解に苦しむキャラクターだ。私は、とうに久保田の話を聞いていなかった。景子は時々質問したりしていたけれど、やがて退屈になってきたようだった。いきなり、携帯を取り出して、メールを始めた。あんたのその自由奔放なところ、羨ましい限りだわ。
 景子の指が止まると、間もなく携帯の着信音が鳴った。画面を見ながら景子は嬉しそうに言った。
「アキラが迎えに来てくれるって。」
 久保田も慌てて時計を見て、「おっといけない」と呟いた。


毎話、お読みいただきありがとうございます。マスターの正体、少しずつ明らかになりますので、もう少しお待ちくださいませ。

さて、先週末に届いたコーヒーですが、COE入賞の豆は、流石でした。欠点豆がほぼゼロでハンドピックも楽でした。甘味、酸味、コク、文句なしの美味しさでした。

レッドウルフ。これもまた驚きの美味しさでした。人の手を借りずに自然がこれほどの作品を作り出すことに正直びっくりしています。エチオピアは、紅海を挟んでイエメンに隣接しています。恐らく、初期にモカから輸出されたコーヒーはレッドウルフに近いものが含まれていたと勝手に想像しています。

両者ともフルシティ(やや深入り)にローストしました。ローストについては、またの機会にお話したいと思いますが、浅いりと深入りでは味が全然異なってきます。


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