第5話 平静の心
店内に入ると、マスターは一気に忙しく動き出した。
レジ横のトレーに皮製の勘定書きとお金が置いてあった。一組、お金を置いて出て行ったのだ。マスターはエプロンのポケットから鍵を出してレジを開けている。マスターが店に戻ったのを確認したお客さんが数組、支払いのためにレジに並んだ。
私は指定席に戻りながらぼんやり考えた。あのレジの横には、あの、謎の写真が立っている。4人で写った写真が鮮明に浮かんできた。
今日も推理小説どころじゃなかった。席について、窓の外を眺めた。
パトカーの横で、警官と加害者のおじさんが話している。時折、おじさんは道路の方を指差したりしていて、事故時の状況を説明しているのだろう。おばさんもまだそこにいた。マスターにとっては、そして私にとっても、もう終わってしまったストーリーが、あそこでまだ続いているのが不思議な気がした。
人の気配で店内に顔を向けると、マスターがトレイを片手に立っていた。
「コーヒーすっかり冷めちゃったね。ココア飲む?これは私からのプレゼント」
マスターはいつもと変わらない動きで、ココアと新しいグラスをテーブルに置き、代わりに氷が解けて生ぬるくなったグラスを引いた。
「あ、ありがとうございます」
暖かいココアは興奮気味の私の心を落ち着かせてくれそうだ。この人には完敗。負けを認めてこの前からの疑問を口にしてみた。
「あの」
立ち去りかけたマスターは振り返って微笑みながら頚をかしげた。
「はい、何でしょうか?」
「あの……、この前、マスター、私が学生だってこと知ってましたよね。あれ、どうしてわかったんですか?」
「はっはっは。あなたのことは何でも知っていますよ。看護学校に通っている学生さんで、名前はヒガシノカヨさん」
ぎょっとした。思わずグラスを落としそうになった。何で??
「まあ、そんなにびっくりしないで。ウソですよ。私が知っているのは、それだけだから。」
いや、それだけだからって、それだけでも私にとっては大問題だ。
「一番最初にここに来られた時、あなたのバッグに看護学の教科書が入っているのが見えたんですよ。『教科書』を持ってるのは学生さんか教師に決まっています。あなたが教師ってことはないでしょう。身元を隠したかったら、教科書は背表紙を下にして入れることですね。」
言われてみれば、ああそうかと思う。でも、普通そこまで見るか?あたしに気があったってこと? いや、これは単なる自惚れか、はは。
「じゃあ、名前は?名前は何でわかったんですか?」
マスターは笑いながらテーブルの上の本を指差した。
「ソレ」
へ? これ?
「あなたのブックカバーには、ローマ字で名前が書いてあります。しっかりしてくださいよ、あなたの物でしょ? 毎週土曜日、あなたは自分の名前が入ったブックカバーを広げて長時間ここで過ごしている。覚えたくなくったって覚えちゃいますよ」
私のお気に入りのブックカバー。確かに『Kayo Higashino』と名前を刺繍してもらっていた。コーヒー飲んでるときとか、ぼーっとしてる時、トイレに立った時、私は本をうつぶせにしてるから、まあ読めちゃうか。そうか。
え? それにしても『覚えたくなくったって』って、ちょっと何て失礼な……。ああ、また、タイミングが遅い……。何だかやられっぱなし。
その日、私は、アパートに帰ってからも”森”での出来事のことばかり考えていた。
事故直後、おばさんの「キャー」という声を聞いて店を飛び出したマスター。そのおばさんへの的確な指示。怪我人の正確かつ迅速な状況把握。事故で興奮気味の被害者を落ち着かせる行動。喫茶店のレジの鍵をかけるように私に指示したこと。そして救急隊員への説明。
あまりにも全てに無駄がない。
それは、”森”のカウンター内に並べられたコーヒー瓶の『秩序』と共通する、ある種の『美しさ』さえ感じさせる。
緊急時の落ち着いた行動。そう言えば、学校の講義で『平静の心』というのを聞いたことがある。えっと。
私は、本棚へ向かい講義ノートを探した。『医学概論』確かこの講義だ。急いでページをめくる。あった。
ウイリアム・オスラー
1900年代
内科医
『平静の心』
状況の如何にかかわらず冷静さを失わない
ノートには、そう箇条書きしてあった。
ウイリアム・オスラーはあまりにも有名な内科医です。100年以上経った今も、彼の残した言葉は輝きを持って生き続けています。
さて、前回から引き続いて、今日はブルーマウンテンのお話を少し。
ブルーマウンテンはジャマイカの特定地域で作られたコーヒーです。普通、生豆は麻袋に入れられて輸入されますが、この豆だけは木の樽に詰められて、証明書と共に送られてくるそうです。私が普段買うコーヒーの平均価格の5倍以上の値段でした(私は輸入業者さんから少し分けてもらうので樽入りで購入したことはありませんが、個包装も真空パックで金色の証明書シールが貼ってあって驚きました)。初めてこの豆を焙煎したとき、緊張のあまり唾を飲んだ記憶があります。現在、ほとんど購入することはありません。だって、あまりにも高いですから。
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