第4話 謎
マスターは私に向かって言った。
「悪いけどさ、レジに行って鍵かけてきてくれる?大して入ってないけど無くなると困るからさ。あ、そうだ。取らないでね」
マスターは私にウインクをした。
あ、そうか。レジに誰もいないんだ。
『取らないでね』って、そんな失礼な。
咄嗟のことだったので、悪い冗談に気づくのも遅かった。言い返すには余りにも間が悪い。何だか今日はどれもこれもタイミングが遅すぎる。それにしても、ますます不思議な人だ。私は走って”森”へ向かった。
私は始めてカウンターの内側に足を踏み入れた。
レジ。あった。レジの引き出しには小さな鍵がぶら下がっていた。
私は飲食店のアルバイトをしたことがあった。何だかその時のことがふっと思い出された。私ったらこんな時に。思い出にふけっている場合じゃない。
鍵を回す。一応開かないことを確認。OK。コレをマスターに届ければいいんだ。
その時、レジ横の奥の方に写真立てが立っているのが見えた。思わず手で写真を引き寄せていた。そこに写っていたのは、4人家族の写真だった。海辺の岩だろうか。
一番左に立っているのは、間違いなくマスターだ。口ひげが無い。今より痩せている。左脚を前の岩に置いてそこに左肘をつき半身を乗り出した姿勢。今のマスターと随分違うけれど、すごい美系。キザな格好も絵になる。横に、小さな子どもを抱っこした髪の長い女の人。奥さん? そして、その前に小学校4,5年くらいだろうか、可愛い女の子が映っている。
私は、写真をそっと元に戻した。
鍵を持っていかなくちゃ。
”森”のドアを開けると、遠くからサイレンの音がしていた。
マスターは立ち上がって、例のおばさんに話をしている。横から鍵を差し出す。
「お、サンキュ」
その時、ちょうど救急車が到着した。そして、そのあとから、パトカーがまるで救急車を追跡するかのようにやってきた。見物人はまた増えていた。
救急車から隊員が降りてきた。
マスターが隊員に向かって会釈をする。
「お疲れ様です。そこの珈琲店の者です。自転車で走行中にふらふらしたところを後ろから来た車と接触されたみたいですね。64歳、カワチマコトさん。意識はクリア、ただ事故のショックでかなり興奮されていましたが少し落ち着いてきました。頚椎をやっているかもしれません。カラーをあててストレッチャーに乗せていただけますか?あとは、転倒したときに左側頭部を打撲されています。それじゃあ、よろしくお願いします」
隊員は、いちいち感心しながらボードに記入している。説明の間に別の隊員がストレッチャーを下ろしてきた。
説明を受けた隊員は、”カワチマコトさん”に声をかけ一通り全身を確認してから、大声で叫んだ。
「おーい。頚椎カラー持ってきてくれ」
私は、ただただ、呆然と突っ立っていた。
そして心の中でつぶやいた。『あんた、一体だれ?』
例のおばさんが、携帯電話を握りしめて、他の人に自慢げに話している。
「いやー、もーびっくりして。ホント、目の前だったからねえ。キャーって声が出たわ。腰が抜けるかと思った。このヒゲのお兄さんが来てくれたから私も冷静になれたけどさあ。そ、そう、私が救急車呼んだの。携帯持ってるかって聞かれて、ああ、持ってる持ってるって。やっぱり携帯電話は常に持っておくべきだわ。これが役に立ったのよ。いやあ、でも、まだ心臓がドキドキしてるわ」
マスターが笑いながら、言う。
「奥さん。お疲れ様だけど、警察に説明よろしくお願いしますね。奥さん、大事な目撃者だから。私は仕事に戻ります」
「ほい。お嬢さんも店に戻りましょうか。タダ飲みのお客さんがこれ以上増えたら大変だ」
(この人は、もしかして、医者? それとも看護師? いや、救急隊員だったとか。でも、どう考えてもおかしいでしょ。医者や看護師がこんな所でコーヒー焙煎してたら。逆なら考えられなくもない。仕事してた人が一念発起して医学部進学なんて話は私も聞いたことがある。あんまり多くはないと思うけど。医学部受験を目指している人?いや、知識じゃないんだわ。自然に身体が動いてるところなんかが。一体全体、このおっさん何者なん?)
頭の中がモヤモヤして自分の心の呟きに没頭していると、マスターが目の前で左手をヒラヒラさせた。
「そんなに怖い顔で私を睨まないでくれます? 店に戻りますよ」
我に返って、マスターの後をついて”森”に向かった。
お客さんたちも何人か外に飛び出していたようだ。ドアが開いたり閉まったりしている。
マスターのコーヒー薀蓄を聞きたいとの要望を受けて、第3話に急遽盛り込んでみましたが、全体のバランスが悪くなってしまうので、大半を、再び削ってしまいました。後書きで、コーヒーの話を少しずつ入れていこうと思います。
私がコーヒー中毒になったのは、一冊のコーヒー焙煎に関する本がきっかけでした。
生豆(なままめと読みます)を通販で買って、ぎんなん煎りで焙煎します。お手軽な器具ですが、これがバカにできないんです。現在は、自分で飲む分と親しい人達のために、週に一回程度焙煎しています。
今朝のコーヒーは、カリビアンクイーン。カップテストなどに参加するプロの方の舌だと、その違いは歴然なのかも知れませんが、私のような素人だと、「ブルーマウンテン」と区別ができません。安価でとてもおいしいコーヒーを楽しむことができます。