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  メスと珈琲 作者:GFJ
最終話 旅立ち
 家について、私はバッグの中から手紙を取り出した。封筒の端を丁寧にハサミで切る。
 中には、封筒と同色の便箋が三つ折にされた状態で一枚入っていた。文字はワープロ打ち、最後の署名だけが直筆だった。
 大きく深呼吸する。

Higashino Kayo 様
 国家試験はどうでしたか? お疲れ様でした。
 医療の世界から脱落した私が言うのも変ですが、どうか、立派な看護師さんになってください。
 実を言うと、あなたと会ってから私はずっと落ち着かなかった。自分の娘を見ているようで、そして、そのあなたが看護師という職業を目指していることを知って、本当に複雑な思いで接してきました。自分が医療の世界から逃げてきたことも意識せざるを得なかったですしね。
 あなたから地中海病院の話を聞いた時、私なりに感じるところがありました。しかし正直言って、私にはまだ医療界に戻る心の準備ができていない。医師として遣り残していることがあると感じている一方で、果たしてもう一度やり直すのが本当にいいのかどうかもわからない。恐怖心もある。
 久保田君の協力もあって、今回、家族と再び一緒に過ごすことができることになりました。まずは、そこからのスタートだと思っています。
 どこかでまた会えるといいですね。もしかしたら、その時は私はあなたから看護してもらう立場になっているのかもしれません。もしそうだとしたら、お手柔らかに願いますよ。
 どうぞ、お元気で。身体に気をつけて頑張ってください。さようなら。そして、ありがとう。諸岡浩一

 私は、何度も何度もマスターからの手紙を読んだ。”森”で過ごした贅沢な時間。美味しいコーヒーを私たちに提供している間も、マスターはずっと戦い続けてきたことを私はほとんど理解していなかった。
 私は自分に一生懸命言い聞かせた。これでいいんだと。そして、ベッドにうつぶせになって、思いっきり泣いた。誰にも遠慮はいらなかった。今日だけだから。そう決めて、泣けるだけ泣いた。
 どれだけ泣いただろうか。窓の外から、犬の吼える声と「おい、急ぐな」というおじさんの声が聞こえてきた。いつもこの夕暮れ時に柴犬に引っ張られるようにして散歩している60歳くらいの、あのおじさんだろう。いつもと変わらぬ日常が私の部屋の外では続いている。枕に頬をつけたままぼうっと部屋の中を眺めた。黄金色の光が一条カーペットの上を照らしている。光はマアヤの背中を横切って、コタツの上を走り、さらに本箱の表面をガタガタと縦に模様を描きながら途中で途切れていた。

 突然……
 プルルル、プルルル
 電話が鳴った。母からだった。
「もしもし。佳代?」
「あ、お母さん」
「あれ? 風邪でも引いた? 声が変だけど」
「ううん。大丈夫」
「そう。国家試験はどうだった? 電話も来ないから心配してたんだけど……」
「結果が出るまでわかんないけど、めっちゃ頑張ったから、落ちたら落ちたで仕方がないって思ってる」
「ふふふ。まあ、落ちたらその時は一緒に泣いてあげるわ」
 どこまでも呑気な母だ。
「明日帰るから。私、肉じゃが食べたい」
「ふふ。わかったわかった。どっさり作って待ってるから。気をつけて帰ってくるのよ」

 私は、マスターからの手紙を机の引き出しにしまって、実家に帰る準備を始めた。
 キャリーバッグに着替えを入れているうちに、ふっと、いつかマスターと本当に再開できる日が来るような気がしてきた。今度はマスターと客という関係ではなく、諸岡医師と一看護師として。そしてそれはきっとそんなに遠い先のことではない。キャリーバッグのファスナーを閉めながら、私は白衣姿のマスターを想像して一人で笑った。その日のために私は恥ずかしくない看護師になろう、そう思った。


=完=


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