ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  メスと珈琲 作者:GFJ
第32話 季節の終わり
 車を動かして、私はビレッジビレッジに向かった。久保田のスポーツカーを前に見ながら、心を落ち着かせる。”森”が無くなったことは私にはショックだった。一体どういうことなんだろう。信号待ちしている間、私は、マスターが去ったことをすでに久保田が知っていたことに思いが至った。彼は、私が”森”に来るのを待っていたのだ。
 ビレッジビレッジで、私たちは、前回と同じテーブルに座った。ハーブティーを二つ頼んで、早速久保田は話を始めた。
「二週間前にこうさんは”森”をたたんだ。奥さんの所に行ったよ。ようやくって感じだね。実はボクはこうさんの奥さんの所にも、時々行っていたんだよ。ずっと会ってくれなかったけど、半年前にようやく話をすることができて……。こうさんの様子を伝えたら奥さん泣いていたよ。連絡を取ろうにも、奥さんの方からは連絡先がわからなくて困っていたそうだ」
「え? マスター、電話番号も教えていなかったんですか?」
「ああ。電話番号どころか珈琲館を開いていることも何もご存知じゃなかった。仕送りだけは奥さんの通帳に毎月入っていたらしいけどね。こうさんもああ見えて、臆病なんだよ」
 マスターが臆病というのは、私にはピンと来なかった。
「何だか今まで知っているマスターのイメージと違うような気がしますね」
「はっはっは。だろ? ボクも驚いたよ。地中海病院で自分にもスタッフにも常に厳しくあり続けた諸岡医師の意外な一面を見た気がしたね。家族を守れなかったという気持ちが強すぎたんだと思うよ。たぶん、家族に連絡を取ることが怖かったんだね。本当に終わってしまうような気がしていたんだろう。こうさんが最後まで森にケーキを置こうとしなかったのも同じ理由さ」
「あっ。久保田さんもマスターがケーキを扱わないこと、不思議に思ってらしたんですね」
「当たり前だよ。何度かリクエストしたさ。ケーキを置いてくれって。あれだけおいしいコーヒーがあるのにケーキがないのは、本当に珈琲館としては片手落ちだよな。途中で気がついたさ。こうさん、精一杯強がっていたけど、ケーキを置くことで家族とのつながりが消えてしまうのではないかと心配で仕方がなかったんだってね。だったら連絡を取ればいいのに、それもできずにいた。あれだけいつもクールなこうさんの行動とは思えないよな」
 秩序だった”森”のカウンター内。整然と並んだコーヒー瓶。交通事故を目撃したときの無駄のない冷静で機敏な動き。コーヒーを淹れる動作の美しさ。そして、何と言っても私を虜にしたコーヒーのおいしさ。これだけの才能を持った人が、奥さんに一本の電話も入れられずに長年過ごしてきたことに、私は驚くというより、何だかあきれてしまった。
「こうさんの奥さんは……」
 そこまで言って、久保田は、口を開けたまま私をじっと見つめていた。長い沈黙が続いたので私は久保田に尋ねた。
「どうかされましたか?」
 くっくっくと笑いを堪えて、久保田はようやく話し始めた。
「やっとわかった」
「え? 何がですか?」
「どこかで君に会ったことがあるような気がしていた理由が」
 笑いをかみ殺して、久保田は言った。
「君は、こうさんの娘さんに似てるんだ。特に目がね」
 一昨年のクリスマスイブの日、マスターと交わした会話を思い出した。横顔が似てるって言っていたっけ。
「……ええ、そう言えば、マスターもそんなこと言ってました」
「だから、君はこうさんにとって特別な存在だったんだね。それに、ボクが君に地中海病院事件のことを詳しく話してきた理由もね。自分でも不可解だったんだ。君に話さなければならないような気がするのが不思議で仕方なかった。こうさんの事を誤解したままの娘さんに、こうさんの苦しみを理解してほしかったからだね。どれだけこうさんが家族のことを大切に思っているか、ボクは、君にじゃなくて娘さんに話しかけていたのか。何で今まで気がつかなかったんだろう。それにしてもよく似てるよ」
 久保田は疑問が解けた安堵感を顔いっぱいに広げて、紅茶をすすった。
「実はね、奥さんは離婚届を提出していなかったんだ。驚いたよ。こうさんの指示通り、奥さんの実家近くで新しい生活を始めたが、離婚届はそのままになっていた。諸岡の姓で生活していたんだ。奥さんは、もしも、こうさんが再婚するようなことがあったら、その時に出せばいいと思っていたらしい。そんなことをこうさん今まで知らなかったんだよ。まさか離婚届が提出されずに奥さんの手元にあるなんて想像もしていなかったし、奥さんにも娘さんにも自分自身を受け入れてもらえないとばかり思っていたんだな。少なくとも奥さんはずっと待っていたというのに。娘さんはね、事件のあったのが多感な時期だったしね、お父さんに対してかなり複雑な感情を抱いている。何より娘さん自身が深く傷ついてきたからね。でも、娘さんに理解してもらえるのも時間の問題だと思うよ」
 私は久保田という人間が、第一印象とはずいぶん違う種類の人間なんだと思った。久保田は、諸岡医師の家族関係を修復することで、自分の犯した罪を償おうとしたのかもしれない。ちゃらちゃらした人間かと思っていたが、プラス30点くらいまで格上げしてあげてもいいと思った。
「こうさんがいなくなった以上、ボクがここにいる理由は無くなった」
 え? ボクがここにいる理由って……
「もしかして……久保田さんまでいなくなっちゃうの?」
 私の驚いた顔を見て、久保田は続けた。
「こうさんがいるからボクもここを拠点にした。でも、動き回るのにここは不便だ。まあ、それでも綺麗な空気、おいしい珈琲と散々贅沢をさせてもらったけどね。それに、こうさんから色んなことを教えてもらった。邦流新聞社を辞めて収入は激減したけど、ジャーナリストとしてのプロ意識だけは強くなった。もともとボクは環境保護に力を入れてきたんだけど、今は、医療問題もボクの中で重要なテーマだ。待ったなしの状況だしね。きちんと世間に伝えていきたいと思っている。地中海病院と同じ病院が全国あちこちにできたら、事実上、国民皆保険制度は破綻だよ。米国の医療情勢と同じ状況が遅かれ早かれやってくる。虎視眈々と狙っている企業はエース金融だけじゃないんだ。大変なことなんだよ。簡単に病院にかかれなくなるんだからね」
「マスターは、これから……」
 私の質問を遮って、久保田は話した。
「さあ。どうするんだろうね。1、2年前から、いくつかの病院や教育機関からオファーが来ていたけれど、こうさん、今までずっと断り続けてきてたからなあ。そのうち、外科医として復帰するのかもしれないし、新たに珈琲館を開くのかもしれないね。もし珈琲館の方だったら、今度は奥さんと一緒だから、きっとおいしいケーキを置いた完璧な珈琲館になると思うよ」
 久保田はティーカップに口をつけると私の方を見て笑った。
「明日引越しなんだ。だから、良かったよ。今日、君に会えて。あ、そうだ。こうさんから預っていたんだ」
 そう言って久保田はジャケットの内ポケットから封書を取り出した。
 うす茶色の封筒の表書きにはHigashino Kayo 様とある。裏を見ると、珈琲館”森”のロゴとコーヒー豆の図が濃い茶色で品良く印刷されており、諸岡浩一の名が記されていた。多分もう使われることのない、”森”専用の封筒だったのだろう。淡いコーヒー色の手紙。私にとっては別れの手紙になる。私の気持ちは複雑だった。もちろん寂しい気持ちは強い。でも、こうしてマスターが手紙を残してくれたことは、単純に嬉しかった。
 久保田は私に手紙を渡して別れを告げた。
「ボクの最後の使命が無事終わったよ。これで安心してこの地を去れる」
 私は大きなため息をついた。一つの季節が確実に終わりを告げていることを感じていた。


とうとうここまで来てしまいました。
明日、最終話を投稿します。

コーヒー豆は焙煎しただけでは飲めません。当たり前ですが。焙煎豆を小さく砕く方法には、潰す方法と、刃でカットする方法があります。

手動式のミルは、デザインも色々のものがあって、インテリアにもなりますね。かつては、私もこちらを使っていました。時間の余裕のある時に、ゴリゴリとやるのは、それだけでも楽しいものです。こちらは、外側と内側の溝付きの歯の隙間で砕かれた豆が下に落下します。臼の原理です。内側の歯の高さを調整することで、隙間の距離が変わり、粒の大きさを決めることができます。

一方、刃でカットするミルもあります。業務用と家庭用がありますが、家庭用のミルでは、刃を回す時間で、粒の大きさを調整します。
私は現在、コレを使っています。10秒ちょっとで出来上がります。

細かく砕くと、苦味が出ます。荒く砕くとあっさりした味になり、苦味が減る代わりに酸味が強調されます。焙煎が強すぎたり弱すぎた時は、グラインドの段階で多少の挽回ができます。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。