第31話 ”森”
国家試験が終わった。私にとっては長い長い戦いだった。景子と毎日、語呂合わせで暗記して、過去問やって、参考書は蛍光ペンだらけになった。最後の一週間は総仕上げ。だーっと見直し。頭を振ると、覚えたことが零れ落ちそうな状態で試験場に行った。ひねった問題もいくつかあったけど、それは毎年のこと。マークシートの場所を間違えていなければ、たぶん大丈夫だろう。
景子と私は、乾杯をした。
「これで落ちたら、看護師は諦める」
「そうそう。こんな勉強、二度とごめんだわ」
「看護師ダメだったら、佳代どうする?」
「そーねー。フリーターかなあ」
一瞬、看護師よりフリーターやる方が楽なのかもしれない、不謹慎だけれどそんなことを思った。国家試験の勉強勉強で忘れていた諸岡医師の人生がふっと思い出されたのだ。医師国家資格を取って、外科医として研鑽してきて、地中海病院のICUを建て直し、そして、それまでの努力の結果が逮捕、離婚……。世の中には、そんな人生もあるのだ。
今日、景子はアキラと旅行に出かけた。一方の私は、朝から部屋の掃除をした。女の子の部屋とは思えない散らかりようだ。明日は、久しぶりに母親の作る肉じゃがを食べに実家に帰る。親は有難いものだ。こんな時だけ、母さん、ごめん。その前に、どうしても行きたいところ。そう、”森”。ずっと我慢してきた。
簡単な昼食を済ませて、私は”森”に出かけることにした。マスターはいつものように迎えてくれるだろうか。優しい笑顔が浮かぶ。今日は、カウンターに座ってマスターと話をしよう。
いつもはバイトか学校からの帰りだったけれど、今日はアパートから直行。いつも西から左折するところを東から右折して”森”の前の道路に入る。いつもと違うルートで来たからか、何だかいつもと違う感じがした。
???…… ううん、そうじゃない。本当に違う。風にはためく”のぼり”がない。撤去した? 駐車場に近づいた。様子が変だ。車が一台も停まっていない。私はゆっくり駐車場の砂利の上を進んだ。ブレーキを踏んで停車する。
まさか……
ドキドキしながら私は車から降りた。ログハウスは昔のままそこに建っていたが、玄関周りの植木鉢や珈琲館”森”の看板は外されていた。カーテンの無くなった窓から中を覗く。暗い内部は、人気がなく、ガランとしていた。
”森”が無くなった。マスターはどこへ?
玄関に回ってみる。そこには張り紙があった。
『お詫び 長い間珈琲館”森”をご愛顧下さいまして誠にありがとうございました。大変勝手ながら、このたび閉館することとなりました。また、どこかで皆様方とお会いできますことを心より願っております。珈琲館”森” 店長 諸岡浩一』
風はまだ冷たい。春を迎える前の最後の寒さが身にしみた。張り紙を貼っているテープの端が少しめくれていて紙の一箇所が1センチほど破れている。でも紙自体はそんなに古びておらず、少しだけ前に貼ったことが伺われる。国家試験の勉強をしている間にこんな一大事が起きていたなんて。まだまだマスターには聞きたいことがたくさんあったのに。看護師になって落ち込んだ時には慰めてもらえる場所だと思っていたのに。試験が無事済んだことの報告がまだなのに。どうして?
私はしばらく呆然と張り紙の前に立っていた。”森”を無くした喪失感を抱いたまま、家に帰るしかないと諦めうつむいて一歩を踏み出した時、駐車場からクラクションが鳴った。それは、私に向けられたクラクションだった。赤いスポーツカーの窓から久保田が顔を出し手を振っている。
あんなにイヤな奴だったのに、”森”が無くなった今、久保田がここに来てくれたことが私には嬉しかった。少なくとも同じ悲しみを共有できる人が目の前にいる。久保田はゆっくりドアを開けて車から降りてきた。
「マスターがいないと寂しいね」
久保田の呼びかけに私は「はい」と答えたつもりだったが、それは言葉にならなかった。
「君に会えて良かったよ。国家試験が終わったはずだから今日はここへ来るんじゃないかと思っていた」
私は言いたいことが山ほどあるのに、頭の中で考えていることと言葉とがうまく連合しない。あうあう口を動かすばかりで一言も出てこなくて困ってしまった。
「ビレッジビレッジに行かない?ボクもあまり時間が取れないんだけど、少しだけ。ね」
私は、いい考えかも知れないと思った。頭を小刻みに縦に振って、久保田に自分の意思を伝えた。
32話は、15日(火)を予定しています。
途中、何度か、展開の仕方が分からずに、随分悶々とした時期がありましたが、こうやって何とか最後までこぎつけることができそうです。
ほっとすると同時に、名残惜しい気持ちが強くなっています。
ちなみに、今年の看護師国家試験は本当に2月24日(日)です。今現在も必死に勉強されている方が沢山いらっしゃると思います。2月は、各種国家試験が目白押し。どうか皆さん、頑張ってください。私も応援させていただきます。
それでは、皆様、よい連休をお過ごしください。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。