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  メスと珈琲 作者:GFJ
第30話 国家試験に向けて
 冬が過ぎ、春がやってきた。私と景子にとっては、あまり嬉しくない季節だ。学校も忙しくなった。実習と、国家試験にむけての準備。
 私は、3月でバイトを止めた。だから、バイトの帰りに”森”へ寄る習慣も無くなった。”森”へは、時間ができたときに、思い出したように出かけた。推理小説を持っていくときもあったし、母性看護学のノートのこともあった。マスターはいつも変わりなく暖かく私を迎えてくれた。コーヒーも、もちろん、いつも美味しかった。窓から眺める景色が、毎回少しずつ変化していった。この前芽吹いたばかりだった木立の葉が、次に来たときには、力強い緑に変わった。最終学年は本当に時間が速く過ぎていく。

 国家試験の第一回模擬試験で、合格率50%というひどい結果をもらって愕然とした。
「佳代。あんたどうだった? 私、47%だった。マジ、やばくない?」
 景子はコンピュータで打ち出された棒グラフを見つめながら、目を大きく見開いて私につっかかってきた。それから景子と本気で勉強に取り組んだ。景子は、普段は騒がしいだけの友達だけど、一度スイッチが入ると信じられないくらい真面目になる。私と景子は、私のアパートか景子のアパートで一緒に過ごすことが多くなった。まずは秋の模擬試験に向けて二人で特訓だ。
 二度目の模擬試験の後、私は久しぶりに”森”へ行った。こういうご褒美を用意しておくのは、勉強する上でも励みになっていい。
「こんにちわ」
「やあ。いらっしゃい」
 マスターは、相変わらず。私の生活は、段々慌しくなっていくのに、”森”の中はいつも静かで、まるで時間が止まったよう。とても不思議な気がする。
 いつものようにマスターがメニューとグラスを持ってくる。
「エルサルバドルの上等の豆を仕入れたんだけど、どうですか?」
「エルサルバドルですか? へー」
「小さな農園なんですけどね、愛情一杯に育てられた最高級品ですよ。オレンジの香り、品の良い甘さ。ちょっと受験生には贅沢すぎるかなあ」
 マスターにそそのかされて、私は、贅沢な一杯をオーダーした。オーボエの静かな演奏と、窓の外には紅葉の気配。去年の夏、私は、地中海病院を訪ねた。そしてちょうど今頃の季節、久保田から詳しい話を聞いて、マスターの過去に涙を流した。早いものだと改めて感慨にふける。
「はい、どうぞ。お待たせしました」
 マスターは、左手で静かにコーヒーカップを置いた。たまらない香り。うっとりしてしまう。
「コーヒーも人間と同じですよ。育てられ方と焙煎の仕方で最高級品にもなるし、飲めなくもなる。是非、最高級品の看護師さんになって下さいね」
「はーい。でも、まずは国家試験に受からないとなれませーん」
 笑いながらマスターに答える。マスターの返事はそっけなかった。
「そうですね」
 そうですねって、もう少し優しいコメントの仕方はないのだろうか。普通、「あなたなら大丈夫ですよ」とか何とか言うでしょう。社交辞令ってわかってても。マスターのこういう所も相変わらずだ。
「国家試験はいつですか」
 マスターの問いに私は手帳を出した。パラパラとカレンダーをめくって、派手に赤丸をつけられた2月24日を指差した。
「ここです。あー。あと4ヶ月……」
 改めて4ヶ月しかないことに気がついて、私は少し気が滅入った。
「2月24日か。一番寒い時期ですね。そうか」
 マスターはつぶやいた。一瞬、どういう意味かな? と不思議に思った。国家試験のスケジュールに何か特別の意味でもあるのだろうか。マスターの瞳が切なそうに見えた。気のせいだったかもしれない。すぐにコーヒーのフルーティーな香りに心が奪われて、マスターのつぶやきは私の中から消えていった。

 それから私は学校が忙しくて”森”とご無沙汰になった。学校と、それから、景子と一緒の受験勉強。時々投げ出したくなりながらも、私たちは、”最高級品の看護師”になるための第一歩、国家試験に向けて問題集と格闘した。


いつも読んで頂き、ありがとうございます。
残すところ、あと3話になりました。
明日12日に次話を投稿する予定です。