第3話 事件
今日は快晴。
駐車場には数台の車が停まっていた。
今日はお客さんが多いようだ。”森”の中はいつもより賑やかだったが、落ち着いた雰囲気は損なわれていなかった。
指定席を見ると、空いていた。隣にはサラリーマン風の男性が一人座っていたが、いつもの通りに座れば、その男性客と眼を合わせることもない。何の支障も来たさない位置関係だった。
私はどこに座るか迷った。指定席が埋まっていたら仕方ない振りをしてカウンターに座ることもできた。でも、あそこが空いている。空いている指定席に座らずにカウンターに向かうのはとても勇気がいることだ。それは、私がマスターに興味を示していることを端的に表明することに相違なかったから。カウンターにも二人の客がすでにおいしそうにコーヒーを楽しんでいたので「カウンターが広々しているから」という言い訳もできない。
私は、カウンターに座ることを諦めて、指定席に向かった。
「いらっしゃい」
マスターは、いつもと同じ表情で、グラスとメニューを持ってきた。
「今日はお客さん多いですね」
「おかげさまで。ゆっくりしていってくださいね」
少し構えてここに入ってきた私だけれど、マスターはいつもと何一つ変わりない。
メニューを広げた。今日は自分で選ぶことにした。ブレンドはパス。南米、中米、ハワイ、インドネシア、アフリカ……。いろんな国でコーヒーって作られてるんだなあ。最初にここへ来た日、赤い車のお客さんがマスターから勧められていたのがタンザニアだった。よし、今日はそれにしてみよう。
「すみません。タンザニア下さい」
マスターは嬉しそうに笑った。
「かしこまりました」
タンザニア。遠い国アフリカから来たんだなあ。キリンなんか走ってるんだろうか。コーヒーの木。どんな風に植わっているのだろう。そんなことをぼんやり考えた。
気がつくと、私のコーヒーを大事そうにテーブルに置いているマスターが横にいた。
「おまたせしました。自信作です」
いい香りが私を包み込んだ。
アフリカ最高峰のキリマンジャロ山。その斜面は土壌といい気候といい、おいしいコーヒーができる条件が全て揃っている。肥沃な火山灰土で、昼夜の温度差が大きいことが奥深い味わいを作り出すのに大切なのだと言う。
「キリマンジャロ」の名で有名なコーヒー。「タンザニアコーヒー」が正式名称らしい。
ふーん。アフリカの平地できりんが走っている風景を想像していた自分が何だかおかしかった。
甘さと共にほんのり酸味がかった極上のタンザニア。今日のコーヒーに満足しながら推理小説をかばんから取り出そうとしたその時だった。
窓の外で大きな音がした。
キーーーッ!! ガシャン!!
それと同時に「キャーーー!」という悲鳴。
頭を上げると、”森”の前の道路に車が止まっていた。その前に自転車が横倒しになっており、人が倒れている。
「事故!!」
私は大声を出して立ち上がっていた。
店内の人たちが私の声に驚いて、ざわざわしだした。立ち上がって窓の外を見ようと背伸びしている人たちもいる。私はそんな人達の中で呆然としていた。
間をおいて、我に返った。
いけない。この前、救急医療の講義を受けたばかりだった。冷静になって、冷静に。
えっとー、講義の先生の顔を思い浮かべながら懸命に講義の内容を思い出そうとしている自分がいた。
私は看護師の卵。私が動かないでどうする!
ABC、ABC……。エアウェイ、エアウェイ、何だっけ。気道確保、呼吸、えっと、C、Cは、Cは……
ぶつぶつ言いながら、”森”のドアを開けて外に出た。
Cは……Cは、循環!
走り出して事故現場に向かった。
現場では車の運転手らしい人が頭に手を当ててウロウロしていた。横に、通りがかりのおばさんだろうか、道路脇の石垣の所で携帯電話で話をしていた。
そして、倒れていた人は……。
おじさんが座って怪我人の手当てをしている? よく見えない。
道路には近所の人が数人集まってきていた。
ABCじゃなくて、警察と救急車を呼ばなくちゃ。
えっと、えっと、と考えている私の後ろでささやき声が聞こえてきた。
「もうすぐ警察と救急車が来るはずですよ、あの方がたった今電話されていたから」
何の騒動かと後から集まってきた人に、先に来ていた人が説明している。
あ、そうか。あのおばさん、警察と救急車に連絡取ってたんだ。
じゃあ、次は……ABC、私の出番だ。怪我人の近くに行く。
「大丈夫ですか?」
私の呼びかけに、怪我人の傍らで膝をついていたおじさんが振り返った。
それは、黒い腰エプロンをかけた”森”のマスターだった。
事故直後に、マスターはここへ駆けつけていたんだ。私には、それが驚きだった。
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