第29話 医師
「そうだ。お客さんからケーキを貰ったんだけど、食べませんか?」
マスターは、私の返事も待たずにケーキを準備している。箱から出された小さなケーキは、真っ白な大きな皿の真ん中に移された。
「珈琲館の主が客からケーキを貰うなんて、本末転倒もいいとこだね」
きれいに盛り付けられた皿を左手に持ち、マスターは笑った。ラズベリーの乗ったかわいいケーキだった。ケーキの周囲には、チョコレートとフルーツソースで器用に模様が描かれている。この人は、本当に有能な形成外科医だったんだろうなあ、と、妙なところで納得してしまう。ホントにここにケーキを置けばいいのに。こんなに綺麗に盛り付けられるのだから……。そんなことをぼんやり考えていたら、マスターがぽつんと言った。
「私の家内がね、ケーキ作りが好きだったんだよ。休みの日になるとよく作っていた。子ども達も大喜びでね。特にチーズケーキが得意だった」
はっとした。”森”にケーキを置かない本当の理由……。作れないからなんかじゃなかったんだ。珈琲館としては、あまりにも不完全な「ケーキのない喫茶店」。クールな顔の内側に必死で隠しているマスターの慟哭が聞こえた気がした。私は、余計なことを言うとまた涙が出るんじゃないかと心配で、黙っていた。
マスターは眉を少しだけ上げて、ふっと笑った。
「久保田から聞いたんでしょ? いろんなこと」
私は、小さくうなずいた。
「医者は自分の専門分野の病気になるって言われている。医学生の頃、授業でそんなことを聞いた時は、バカな話だって思ったけれど、実際に自分の身に降りかかると、なるほどなあと思ってしまうね。右手じゃなくて、いっそ腹を出しとくべきだったと後から思いましたけどね」
笑いながら話し出したマスターだったが、やがて真面目な表情になり淡々と語り始めた。
「私には晴天の霹靂で、家族を満足に守ることもできなかった。それまで私は列車のように毎日走っていた。それがある日突然レールが消えた。そんな気分だった。メスを持つしか芸のない人間だった私が拘置所で感じたのは、いきなりタイムトンネルで別世界に迷いこんだような、そんな不思議な感覚だった。それからの2年弱は本当に私の理解を超えた世界だった。でも、その世界で戦っていくしか私の道はなかった。患者さんを救えなかったのは本当に申し訳ないと思っている。けれど、あれ以上私に何ができただろうか。拘置所では根掘り葉掘り手術の手技について聞かれ、ローマ字で Moro と何度も書かされたり、感染症に対して使った抗生剤の適応について、何十回も同じ説明を繰り返した。本当に気が変になりそうだった。気になっていたのは、家族のことと、手術を予定していた患者さんたちのことだった。裁判が終わった時、嬉しいというよりは虚しい気持が強かった。メスを握りたいという気持は完全に失せていたし、しばらく一人になりたかった」
私には到底想像できない世界だった。
「壊れかけた私を助けてくれたのが、コーヒーだった。何でも良かったんだ。もともとコーヒーが好きだったしね。焙煎していると全てを忘れられる。生臭い豆が美味しいコーヒーに変身する瞬間を確認する作業、それに没頭している時間だけは自由になることができた。毎日毎日ほとんど寝ずに焙煎した。気が狂ったようにね。少しずつ、生きる希望が湧いてきた。コーヒーを淹れるためのおいしい水を求めて私はこの地にたどり着いた。必死だった。医師としてではなく、人間として生きていくために、そう、もう一度生きていくために私にとっては大切なプロセスだった」
この人は、メスを置いたかわりに、珈琲の中に人生を見出そうと夢中だったんだ。苦しい中で、自分を再構築するために、命を賭けて珈琲を焙煎してきたんだ。でも、医師という職業に未練はないのだろうか。
「もう、メスは持たないのですか?」
恐る恐る聞いてみる。
「外科医が真の意味で外科医として生きていける時間は、正直言って、そんなに長くないと思う。メスは諦めた。メスを置くのが他の外科医より少しだけ早かったというだけだ。怪我をしなければ、もう少し長く外科医でいられたかもしれない。でもそれは大した問題じゃないんだ。ただ……、一つだけ私が遣り残したと感じていること、後ろ髪を引かれていることがあるとするなら、それは……教育かな」
「教育……ですか?」
「そう。先輩達から学んだ、そして私自身が工夫して育ててきた技術のバトンがそのままになっている。」
地中海病院、小柳師長のまるまるした笑顔が思い出された。(実践的な看護師を育てたい……)小柳師長は力説していたっけ。
「私、実は、夏休みに地中海病院に行ってきたんです」
上目遣いでマスターを見る。マスターは、驚いた顔をしていた。
「おや、そうかあ」
急に笑い出して
「そうだったのか。いやあ、あなたも面白い人だなあ」
私も何だかおかしくなった。
「はい。小柳師長にお会いしてきました」
マスターは、ますます驚いた様子になった。
「え? あっ、そう。いやあ、懐かしいなあ。当時、彼女はICUの主任をしていたよ。実は私は形成外科を専攻する前に救急医療を勉強したんだ。5年間。手の手術は、専門性の高い分野でね、顕微鏡を見ながら手術を進めていく。いつかは手の手術を専門にしたいと思っていたが、その前に全身管理をきちんと学びたいと思っていたからね。地中海病院には形成外科医として勤務したんだけど、転勤してすぐ、ICUのお粗末さにびっくりした。設備はいいんだが中身がさっぱりダメだった。ICUがきちんと機能しなければ、怖くて手術なんてできないからね。私は、ICUを何とかすることが先決だと思った。小柳主任とはよく喧嘩をしたよ。3年がかりで、徹底して教育した。まあ、あの地域で、地中海病院の救急医療は最高レベルになったと自負している。今度は、形成外科医としての教育に力を入れようと思っていた。やる気満々の後輩医師が来てくれていたしね。そんな時に私はクビになりおまけに逮捕された。バトンを持ったままコースから外れて、未だに野原を歩いているのが、今の私だ」
その時私は、マスターの心の中に、医師としての思いが閉じ込められているのを感じた。
10月に『メスと珈琲』を始めてから今まで沢山の方に読んで頂いて、大変嬉しく思っています。本当にありがとうございます。
来週には話が完結する予定です。次話は、11日を予定しています。
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