第27話 マスターの過去 8
事件後、諸岡医師の生活は激変した。久保田が記事を出してから、報道陣が病院と諸岡医師の自宅前をウロウロするようになった。病院が謝罪会見を行って、諸岡医師は地中海病院をクビになり、報道陣の数が一気に増えた。クビにはなったが、残務整理で諸岡医師は病院に詰めていた。
諸岡医師は4人家族で、奥さんの他に中学一年生になったばかりの娘さんと小学2年生の男の子がいた。(つまり、”森”のレジ横にあった家族写真は、事件の3年ほど前のものということになる。)病院の記者会見の二日後、諸岡医師は逮捕された。カルテに申し送りを記入している最中だったと言う。右手の傷が痛んで、思うように仕事がはかどらずイライラしている時だった。逮捕後、皮肉にも彼は彼を刺した犯人と同じ拘置所内で過ごすことになった。一方は傷害罪、そして他方は業務上過失致死罪の疑いで。
諸岡医師が逮捕拘留されている間、家族にも異変が生じていた。連日のマスコミ報道、家のカーテンを閉め切って、一歩も外へ出られない状態が続いた。どこから電話番号を探し当てたのか、マスコミから偽名を使った電話も鳴った。玄関の呼び鈴が鳴り続け、コードを引きちぎった後には、今度は玄関のノックの音に替わって行った。堂々と庭に侵入してくるマスコミ関係者もいたという。テレビ恐怖症になり、コンセントを抜いた。電話線も根元から外した。夜中に玄関を開けかけて、門扉のところからフラッシュをたかれたこともあった。家族は完全に孤立無援の状態にあった。それは、次第に、そして確実に家族を精神的に追い詰めていった。二人のお子さんは登校拒否状態になった。当然のことだろう。奥さんは二人の子どもを一人で支えて行かねばならず、ご主人の逮捕から間もなく、ストレスに耐えられずノイローゼ状態になった。
離婚を申し出たのは、諸岡医師の方からだった。拘置所の中で過ごす彼にとって、直接家族を守る手段は何一つなかった。唯一残された選択肢。それは、家族を自分から切り離すことだったと言う。彼は、奥さんに、旧姓に戻って、奥さんの実家の隣町で三人でやっていけと弁護士を通じて指示した。奥さんの実家にもなるべく迷惑をかけないよう、かつ、少しは地理感覚もある隣町を候補地として選んだのだ。マスコミや世間の目から逃れるようにして、三人は新しい地で新しい道を歩むことになった。
大切だからこそ選んだ離婚という道。
私は、久保田の話を聞きながら、涙が溢れて止まらなかった。途中まで必死で我慢していたのだが、テーブルに伏して泣いた。今まで知らなかった、マスターの壮絶な人生。自分がマスターだったら、自分がマスターの家族だったら……。どうして、こんなおかしな事が起こってしまうのだろう。まるで、マスコミ、世間によるリンチ状態だ。
久保田は静かに話し続けた。
「ボクの犯した罪は、法律上、誰からも処罰されないものだ。こんなに大きな罪を犯したのにね。誰もボクを非難しない。記事が間違っていたことを知った後でも、社から非難されたことはない。諸岡医師は、無実だった。何も落ち度のない医療行為を行い、たまたま不幸な転帰を辿った患者さんがいて、遺族から切りつけられた。本当は被害者だ。それが、たまたまボクが間違った記事を書き、そして、それがきっかけで、とんでもない重荷を背負うことになった。この不公平は何だろうね」
私は言葉を失っていた。かろうじて出てきた言葉……
「あんまりです。ありえない」
「そうなんだ。すまない。君に堪えられる話じゃないことはわかっていたんだが」
だけど、もしも、亡くなった患者さんにTIA症状がなかったら、もしも、Kが、それをTIA症状と気づかなかったら、もしも、久保田が徹底的な取材をしなかったら……。久保田は、今でもマスターのことを、医療ミスを犯したと信じ続けているのかもしれない。
「ボクもそう思うよ。ぞっとするね」
私は顔を上げて久保田に聞いた。
「マスターの家族は今……」
久保田は、じっと私の顔を見て言った。
「まだ、遠方で三人で暮らしておられる。マスターは、今でも仕送りをしているみたいだ」
7年前の事件は、「実在しない事件だった」にも関わらず、一番の犠牲者である諸岡医師とその家族にとっては、まだ終わっていない事件だったのだ。
あけましておめでとうございます。
新年早々から、思いっきりダークな展開になってしまいました。私の計算違いです。ごめんなさい。
今回が一番つらい部分です。
次回から、また、”森”を舞台に、違ったトーンで話が展開します。いよいよ終盤に突入です。どうか最後までお付き合いください。次回は、1月7日を予定しています。
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