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  メスと珈琲 作者:GFJ
第26話 許し
 久保田は3杯目の飲み物、コーラをオーダーしてトイレに立った。私はコーヒーを飲んでみようかと一瞬思ったけれど、やめた。後悔するのが見えているから。私はアップルティーにした。
 久保田が席に戻ってから、私は真っ先に聞いた。ずっと気になっていた疑問。
「久保田さん。マスターは、あなたが彼を追い詰めた新聞記者だったことをご存知なんですか?」
「はっはっは。不思議なんだろ? ボクがこうさんのところで普通の顔してコーヒーを飲んでいるのが」
「ええ。私がマスターだったら、とても自分の人生を狂わせた相手を受け入れることはできませんから」
 久保田は、苦笑している。
「君は、はっきり物を言うね」
「あ。すみません。そうですね……」
「いや。いいさ。事実だからね」

 久保田は、消息のわからなくなった諸岡医師を探したところから話を始めた。
「謝りたかった。とにかく謝罪するべきだと思った。人間としてね。だけどね、謝って気が済む問題じゃなかったんだね」
 片田舎でコーヒー店を始めたらしいと知って、久保田は珈琲館”森”を探し当てた。
「始めて”森”の扉を開けたときのことは、今でも昨日のことのように覚えている……。本当に怖かった。黒いエプロンをはめた諸岡医師は、ボクが入った瞬間に、すぐにボクが誰だか認識した。ジロリと一瞥したまま黙っていたんだ」
 私は、ゴクンと唾を飲んだ。
「久しぶりです、とボクが挨拶したら、諸岡医師は、こう言った。今、おまえに出すコーヒーはない、と」
 そりゃそうだ。私がマスターだったら包丁つきつけてた所だ。
「謝罪しに来たと告げると、30分待てと言って裏に消えた。針のムシロに座っているように長い30分だった」
 久保田は、マスターから何の説明も受けずに、いきなり30分待たされた。マスターは裏に消えた。不思議な光景が浮かぶ。
「そのうち、香ばしいコーヒーの匂いがしてきた。諸岡医師は、裏でコーヒーを焙煎していたんだ。ボクは、覚悟した。コーヒーに毒を盛られるかもしれないと本気で思った。相手は医師だ。劇物を手に入れようと思えば簡単にできるだろう。それに知識だってある……」
「コーヒーに……毒? で、どうだったんですか?」
「諸岡医師は、ボクの前に、焙煎したての豆で淹れたコーヒーを丁寧に置いた。お前のために淹れたコーヒーだと言った」
 そこで、久保田は、コーラのコップを持ち上げた。
「ボクは死んでもいいと思った。不思議だけれど、本気でそう思った。ここで殺されるのなら、それも仕方がないと」
 久保田は、静かにコーラに口をつけた。
「諸岡医師の淹れたコーヒーは、苦味の強いコーヒーだった。第一印象はとにかく苦いということだった。ところが最初に苦味を感じたが、後からほんのわずかだが、酸味と甘味がやってきて口いっぱいに広がった。あんなコーヒーを飲んだことは今までなかった。もう少し苦味を抑えていたらどれほど絶品だっただろう」
 思い出すように、久保田は、もう一度ゆっくりコーラを飲んだ。
「ボクは、泣いた。信じられないが、コーヒーを飲んで泣いたんだ。コーヒーの苦味が心に突き刺さった。謝れば気が楽になるとボクは思っていた。そのために諸岡医師を捜し当てたんだ。ところが、そのコーヒーはボクに簡単に謝罪することを制した。自分が楽になりたいがために謝罪をしに来たことを諸岡医師に見破られていたんだ」
 久保田はそこまで言うと、ため息をついた。緊迫した”森”でのやり取り。コーヒーを介して二人が言葉にならない会話を交わしたことがわかった。

「諸岡医師が淹れたコーヒーは、後で知ったんだが、極上のケニアだった。ケニアは、もともと個性の強いコーヒーで強い酸味が特徴なんだ。だから、他のコーヒーより、やや強めにローストすることですばらしい味が出る。酸味が抑えられ甘味とコクが増す。諸岡医師がボクに出したケニアは、それよりさらにほんの少し強く焙煎されたものだった。通常はお客さんには出さないんだ。彼はボクに自分の気持ちを伝えるためにコーヒーとして味わえるか味わえないかというギリギリのところまで強く焙煎したんだよ」
 その日、久保田は、マスターの淹れた苦いケニアを飲んで黙って帰った。謝罪することもできなかったそうだ。簡単に『すみませんでした』の言葉で償えることではないことを悟ったと言う。

 翌日、再び久保田は”森”へ足を運ぶ。そこで出されたのが、今度は、通常、お客さんに出すケニアだった。強い苦味はなく奥深いケニア本来の味わいが久保田の胸を突き刺した。再び、久保田は泣いたと言う。彼が大人になって泣いたのは、後にも先にも、その2回だけだそうだ。男泣きしている久保田を前に、諸岡医師は静かに語り始めた。あの事件後の諸岡医師の生活について。


今年の投稿はこれで最後です。次回は1月5日を予定しています。

沢山の方に読んで頂いて、本当に嬉しく思っています。年末年始を挟むことになってしまいましたが、できればもう少しお付き合いくださいませ。

皆様、どうぞよいお年をお迎えください。


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