第25話 マスターの過去 7
私と久保田はそれぞれの思いに没頭していた。彼は、どこまで私に話したらいいのかを考えていただろう。一方の私は、数枚のピースの欠けたジグソーパズルが、徐々にその模様を明らかにしつつあるのを感じていた。それは私が今まで見たことのない模様。
「Kはどうなったんですか?」
私は、少しずつ頭を整理しながら、思いつく所から質問した。
「ああ。傷害罪の罪名で禁固1年執行猶予2年の刑が確定した。本当は、もっと重い刑でも良かったんだ。実際には義父を見殺しにしたんだからな」
私は話を聞きながら水を飲んだ。聞きたいことは、次から次に出てきた。
「久保田さん、Kが保険金詐欺に関与していたことは黙っていらしたんですか」
「ああ、結果的にはね。これ以上事件を深追いするなというのが社の方針だった。ボクはこの事件から外された。ただ、自分の中で納得いかなくて独自に調べたりしていたが、それは、社会の表には決して出せないということも分かっていた」
私は、母の言葉を思い出した。
『医療ミス、患者死亡、担当医の逮捕』
私の次の疑問。
「諸岡医師が無罪だったことは、世間ではあまり知られていないですよね」
「もしも、諸岡医師の判決が有罪だったなら、新聞にデカデカと記事が踊っただろう。だが、判決は無罪。それは端的に言うと、新聞社的には『面白くない』結果だ。ニュースとしてはインパクトが小さいんだね。記事は、三面記事として、ほんの数行出ただけだった。新聞社の正義は実は『新聞が売れるかどうか』なんだよ。真実を追究することではない。こんなことはみんな知ってるさ。心の中ではね」
久保田の記事から始まった間違った情報は、7年経った今も、一般の人の頭の中では訂正されることもなく、医療ミスであり続けている。これは、考えてみると、すごいことではないか。母だけではない。ビジネスホテルのめがねおじさんもそうだった。『有名になって傲慢になっちまったのかねえ』とつぶやいていたっけ。私はこれから一体、情報の何を信じていけばいいのか……。
「諸岡医師は、なぜ地中海病院を辞めたのですか? というより、なぜ、医師を辞めたのでしょう? 怪我ですか?」
久保田は、眉間にしわを寄せて答えた。追い込まれた諸岡医師の話をするのはつらいのだろう。
「まず、地中海病院だが、病院側が医療ミスを発表した時点で懲戒免職になっている。早い話、クビになった。医師を辞めた理由……。それは、本人に確かめるしかないね」
「そう言えば、さっき、途中まで話していたこと……。院長が諸岡医師を捨てる気になった、もっと根深い問題って……」
久保田は、黙っていた。喋った方がいいのか迷っている様子だった。
「うーん。ボクの中である程度の確信はあるんだが、なにぶん証拠がない。だから憶測になるんだけどね。実は、村瀬院長はどうも事件の前から、エース金融とつながっていたみたいなんだ。病院改革の話し合いで、市場原理を取り入れるべきだ、とか、自由診療を大幅に拡大すべきだとか……」
私には、よく理解できなかった。
「それが、諸岡医師とどう関係があるんですか?」
「諸岡医師は、反対していた。米国型医療の危険性について危惧していたし医療界を経済界の人間が牛耳ることは許されないと思っていた。医療は市場原理に委ねてはいけない、これが諸岡医師のスタンスだった。院長としては、諸岡医師は有能な医師だけに大事にしなければならない反面、病院を改革する上で邪魔でもあったと思われる。あの事件は、諸岡医師を追い出すのに格好の事件になった。恐らく、記者会見を行ったのは、院長がそのことに気づいたからではないかと思う。もしくは、エース金融から耳打ちされたのかもしれない。あの事件の後、地中海病院はズタズタになった。諸岡医師の懲戒免職と同時に、諸岡医師を慕っていた医師が次々に辞職して行ったんだ。皆、病院を支えてきた中堅クラスから若手の医師ばかりだったから、それは大変だったと思う。廃業寸前のところを結局エース金融に助けられた形になった。スタッフは大幅に入れ替わったが、他の病院より条件をよくすることで、医師達もそこそこ集まったようだ。誰も知らないが、全て計算づくのことだったんだよ。エース保険会社のな。ガタガタになることを知っていて、病院が悲鳴を上げるのを待っていた。先ず、事務長が経営責任を取ってクビになった。そして採用された新しい事務長は元エース保険会社の人間。それから本格的な買収が進んだ。今、完全に地中海病院は保険会社の言うなりだ」
久保田は大きくため息をついた。
「院長の今の気持ちを聞いてみたいよ。諸岡医師を捨てたことを、今現在、どう思っているのか。実際、経営方針が大きく変わって、完全にVIPに特化した病院に変えようとしているが、そのことについてどう思っているのか」
何やら難しい話で、全てを理解することはできなかった。諸岡医師は、病院の経営主導権をめぐる院長を含めた周囲の思惑の犠牲になったということなのか……。偶然おきた病院内の患者さんの急変。そこで起きたトラブルを病院側が利用して諸岡医師を追放した……。途中までは、偶然が重なって進行したが、途中から恣意的に事件が作られて行った……。しかし、全ては、久保田の想像の域を出ないことであった。
それにしても、別の意味で身震いする事件だ。医師が医療ミスを犯して逮捕された事件と世間は理解しているが、現実は全く違う。一人の人間が勢いで書いた記事が、誰からも訂正されることなく、その方向に突っ走っていく。それに関与した全ての人々のその後の運命が、間違った情報のまま進められていく恐怖。その一番の犠牲者が、諸岡医師だった。
マスターが医療ミスで逮捕されたという情報が間違っていたというのは、私にある種の安堵感を与えた。しかし、一方で、あまりにもやるせない。マスターの余りにも理不尽な過去の一部を知らされて、私は泣きたい気持ちでいっぱいになった。
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