第24話 マスターの過去 6
一年半かかった刑事事件の判決は、無罪だった。指の手術の手順に不審な点はなく、また、脳梗塞との因果関係は専門家によって否定された。患者急変後の対応にも、特に落ち度と呼べるものはなく、主治医が病院を離れていたことも、罪に問われなかった。
唯一問題になったのが、カルテ改竄だった。何も改竄する必要もないのに、なぜ、改竄が行われたのか。
改竄をしたのは、諸岡医師ではなく院長であった。村瀬院長は、カルテ記入の医師氏名の欄に、ローマ字筆記体で ”Mura”を丸印で囲んでいた。医師の字は総じて汚く、それは、”Moro”と読めた。つまり、村瀬院長のサインが諸岡医師のものと勘違いされた。それが、検察側には最初は分からず、話がややこしくなった。諸岡医師のサインは、漢字で”諸岡”であり、両者が別の人物であることは明白であった。この点でも、諸岡医師には何ら責められるべき点はなかったわけだ。
院長は、患者の手術経過等について把握していなかったため、実際の患者家族への説明は、患者が急変したことと、助けることが難しいこと、現在、脳神経外科チームを加えて全力で対応に当たっていることについて力点が置かれていた。カルテには、簡単なMRIの図が手書きで書き加えられていた。ところが、村瀬院長は久保田の記事が新聞に出て、あわてて、余計な一文をカルテに書き加えた。実際には、書き加える必要もない内容であった。家族への説明の欄に小さな文字で、無理やり”手術と脳梗塞の因果関係はない”と。それは、諸岡医師を守るというよりは、説明をした院長自身の身を案じてのことだった。それは、傍目にも、後で付け加えたことがわかるような稚拙なやり方だった。恐らく、その時点で、院長はまさか今回のことが刑事事件にまで発展するとは考えもしなかっただろう。しかし、実際には、その後、自ら、病院の(諸岡医師の)医療ミスを認める記者会見を行っている。その間にどのような心境の変化があったのか、それは、現実には当事者、すなわち院長自身にしか分からない。
この辺りのことを、久保田は、次のように述べた。
「院長は一見、温厚な性格に見えるが、実は、かなり激しい一面がある。諸岡医師への気持ちは、院長としては複雑なものがあったみたいだね。」
「複雑なもの、ですか?」
「そう。諸岡医師は、若手ながら医師としての実力もあり病院全体を盛り上げる魅力を持っていた。彼のお陰で、地中海病院の評判は上っていたし、院長としては大切にしたいという思いはあったと思う。しかし、一方で、諸岡医師に激しい嫉妬心をも持っていたようだ。」
「うーん。何だかよくわからないですけど……」
「君には分からないかも知れないね。でも、ボクには、院長の気持ちも理解できる」
「だって、院長なんでしょう? 病院内で一番偉いんでしょ? 嫉妬する必要もないと思うけど……」
「男とはそういう生き物だ。肩書きが上であるからこそ、諸岡医師に対して嫉妬心をかきたてられたのかもしれない。特に病院の院長なんて、時には従業員の憎まれ役に徹しなければならないときもあるだろう。諸岡医師に対して面白くない感情を持っていたとしても、不思議ではない。マスコミ攻勢で追い込まれた時、何らかの形で事件と関わり合いを持ってしまっている院長としては、何とか自分を守りたいという気持ちが働いた。その時に、ふっと、諸岡医師を捨てる気持ちになったのかもしれない」
男とは、何と悲しい動物なんだろうか。そんなことで、病院に貢献してきた部下を簡単に捨て去ることができるのか。
「もう一つ、これは、証拠を掴んでいないんだが、院長があの会見を行ったもっと根の深い理由がありそうなんだ。問題としては、こちらの方がずっと大きい」
久保田は、そう言って、一息入れた。