第20話 地中海病院の方針
翌日、10時前5分にビレッジビレッジに行くと、すでにあの赤いスポーツカーが駐車場に停まっていた。ふーん、時間はきちんと守る人なんだ。この人みたいに、私の中で評価が変動する人は珍しい。時間厳守でプラス10点。それでもまだマイナス30点だからね。
ドアを開けると、若いバイトの女の子が「いらっしゃいませ〜」と、語尾を高く持ち上げた言い方で迎えてくれた。
「おタバコはお吸いになられますかあ〜」
いちいち耳障りなマニュアル言葉だった。
「待ち合わせをしていますので」と言って、私は久保田を探した。
禁煙席の4人がけケーブルに、新聞を広げた久保田を見つけた。赤のチェックのワイシャツにジーンズ姿。
「こんにちわ」
挨拶をすると、新聞を下げて久保田が答える。
「おっ。どうぞどうぞ」
新聞を無造作にたたんでソファに置く久保田。同じ人物なのに、ファミレスでだと”森”で会うのと微妙に違って見えるのは面白い。この人は、赤いスポーツカーと”森”の3点セットで私の頭の中にインプットされていたのだ。
紅茶と食べかけのケーキがある。紅茶の減り具合からすると、それなりの時間、私を待っていたのだろう。
私の視線を確認して、久保田が言う。
「たまには紅茶もいいですよ。どうせティーバッグですけどね。流石にここでコーヒーを飲む気にはなれませんわな」
それは同感だった。私はストロベリーシェイクを、そして、久保田は新たにハーブティーをオーダーした。
「地中海病院の印象はどうだった?」
話は久保田が切り出した。
「うーん。あの池が地中海かって、そう思いました」
「はっはっは。そういう感想かい。病院を建てた院長が外国かぶれだったらしいよ。変な名前だもんな、確かに」
「それと、あんなに大きな病院なのに産科と小児科がないから、ちょっと驚きました」
「お。今度は鋭い感想だな。だけど、新たに産科、小児科、それに新生児集中治療室を作る構想ができてるんだよ」
「え? そうなんですか? でも、何でそんなことを久保田さん、ご存知なんですか?」
「舐めてもらっちゃ困るね。これでもジャーナリストだよ。頼りなさそうに見えるだろうけどさ」
久保田は、上目遣いで私を見たが、口元は笑っていた。
今、全国で産科の閉鎖が言われている。一度閉鎖した産科を新たに始めるのは、周囲からの相当の圧力でもあったのだろうか。どちらにしても望ましいことだ。
「早くできるといいですね。多くの患者さんが待っておられますしね」
久保田は、私のそんな感想を鼻で笑った。
「今、子ども一人産むのにいくらかかると思う?分娩だけでだよ」
どれぐらいだろ。恥ずかしながら、全然知らない。
「今の相場は、35万円から45万円。出産は基本的に保険が利かないからね、自由診療なんだけど、平均的にはそんなもんだろう」
何の話をするつもりなのだろうか。
「地中海病院は一旦産科を閉鎖した。その方が改革がやりやすいからだ。医者も入れ替えられる。それに、あの近辺で、あそこの産科は大きな役割を担っていた。その影響は無視できない。今や患者も不自由している。だから、産むところがあるだけで有難いって思うだろう。勿論、金持ちは、だけどね。今度の産科は、完全にVIPを対象にしている。問題なく子どもが生まれたとして、最低費用が260万円。分娩費用250万円プラス保険が10万円らしい」
「に、にひゃくろくじゅうまんえん・・・?」
こういう話は絶対に看護学校で習わない。私がこれから飛び込もうとしている医療の世界は、今まさに、大変動の真っ只中にいるんだということを感じた。今は呑気に過ごしているけれど、これから一体どうなるのだろう。いい知れぬ不安が頭をもたげてきた。
「260万円って、庶民にとっては簡単に出せる値段じゃないですよね」
「そう。つまり、金持ちしか相手にしないってこと。途中で何か異常があれば、260万円じゃ済まないから相当の準備がいるだろう。260万円は最低の金額ってことだよ」
「でも、今のように産科不足の状況だと、救急車とかで運ばれてくる人もいっぱいいるんじゃないですか?」
「基本的に予約患者以外は救急車お断りなんだよ。その代わり、この代金を払ってくれた人には責任を持ちますよ、と、そういうスタンスなんだ。この値段でも、今の産科医不足の状況だと予約が殺到すると言われている。今でも金持ちは外国で出産することを考え初めているくらいだから。産科を開くことで、地中海病院での不妊治療の需要も大きくなる。新生児治療も責任を持つと言っている。不妊治療してここで分娩すれば、最低一千万円の貯金が必要になるだろうな」
日本の医療の話とはとても思えなかった。
「久保田さん……医療情勢のこと、詳しいんですね」
「この前までずぶの素人だった。こうさんのことがあってからだよ。バカなりに勉強したさ」
そうだ、マスターの話を聞くんだった。
それにしても、これから、私だっていつかは結婚して子どもも産みたい。そのために最低260万円が必要になるのかと思うと、他人事とは思えない話にショックを受けた。
「お金のない普通の人は、赤ちゃん産めないんでしょうか」
おずおずと聞く。
「自宅出産とかそういうのが増えるだろうね」
「何かあったら?」
「その時は、仕方がないさ。運命だと思って諦める」
諦める……。
そんなに簡単に割り切れることなの? 私は、その言葉をどう受け止めたらいいのか分からずに、途方に暮れた。
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