第2話 マスター
その日は朝から土砂ぶりだった。珈琲館”森”には、白いセダンが一台だけ。ドアを開けると同時に急いで傘を差した。走って玄関に行く。砂利の上は走りにくい。フレアスカートの裾が少し濡れた。
”森”の中は静かだった。
いつものように濃いコーヒーの香りが立ち込め、いつものようにクラシック音楽が静かに流れていた。そしていつものように、ここだけ、日常と違う時間が流れていた。違っていたのは一つだけ。私の指定席に二人連れが座っていた。
う〜ん、困った。どこに座ろうかとしばらく考えて、私はカウンターに腰掛けた。
いつもと違う光景。カウンターの中が綺麗に見渡せた。
驚くほどきちんと整理されたカウンターの内側。偏屈おやじは実は相当の綺麗好きであることもわかった。今日の収穫だ。違う席もたまにはいい。沢山並んだコーヒーのガラス瓶。綺麗に並んでいるだけじゃない。名前のラベルも綺麗に同じ高さ、同じ長さで見事に整列していた。
濡れた足元が気持ち悪くて、私は、右足で左足のサンダルのかかとを外した。同じように右足も。サンダルをぶらぶらの状態にして、私は観察を続けた。今日は推理小説はお休み。
「マスター。今日の私は何がいい?」
偏屈おやじは、にっと笑って
「少し艶かしい今日の君には、野性的なマンデリン」
なに? 偏屈おやじは実はスケベおやじか?でも、不思議といやじゃなかった。
「オッケーです。それください」
マンデリンのガラス瓶に手を伸ばしたマスター。右手の掌に傷? 一瞬のことだった。気のせいかもしれない。すぐにコーヒー瓶に隠れて見えなくなった。
グラインダーの音。野性的なマンデリンの香り。
コーヒーに湯を注ぐ手は熊のように大きかったが、その動きは綺麗だった。
不思議な人。家庭の匂いがしない。でも、この年で独身って、そんなことないよね。若い頃はハンサムだったに違いない。頭には白いものが少し混じっている。今日は小説じゃなくて、目の前のマスターのことを色々推理して遊ぶことにした。
「何か質問がありますか?」
コーヒーカップにコーヒーを注ぎ終わって顔を上げたマスターが笑って言った。ぎょっとした。すっかりこちら側の心を読み取られている。
コーヒーの自己主張に誘われるようにここに通うようになった私だったけれど、その自己主張を作っているのがこのマスターであり、”森”の異次元空間を作り出しているのもこのマスターであることに今更ながら気がついた。麻薬は実はコーヒーではなく、このマスターなのかもしれない。
「あ、いえ、何も」
しどろもどろになった。マスターは静かに笑った。
「はい。おまたせ。ごゆっくりどうぞ」
カウンター越しに、やっぱり左手でカップを私の前に静かに置いた。
今日のコーヒーカップは大胆な色使いの幾何学模様で黄土色のドットが強烈なアクセントになっていた。でも、カップの内側はコーヒーの色がわかる真っ白。
「変わったカップですね」
「一口飲んでごらん。私はこのコーヒーとこのカップは相性がいいと思っているんだ」
個性的な味のコーヒーだった。官能的と言ってもいいかもしれない。口に含んだ時と飲み終わってからの味が違う。そして後味が、いつまでも口腔内で自己主張を続けるコーヒー。なるほど。今日の私にはいいかも。
「勉強は順調ですか?」
突然のマスターの言葉に噴き出しそうになった。
「え?」
頭をフル回転させて考える。私はここへ通うようになって何も自分の話をした覚えがない。何なの? このおっさん、ただの偏屈おやじでもただの綺麗好きでも、そしてただのスケベおやじでもなさそう……
”推理して遊ぶ”なんて考えが甘かったと思った。相手はどこまで私のことを見抜いているのだろう。もしかして背中のほくろまで見えているとか。それにしても、この偏屈おやじ、一体私のどこを見て学生とわかったのだろう。
私は、その疑問を直接マスターに質問することを躊躇った。理由は二つ。「負け」を認めるようで悔しかったのが一つ、そして、私が無防備すぎたかもしれないという反省から。相手がどういう人なのか突き止める必要があると感じ始めていた。
「勉強の方は、ぼちぼちです」
当たらず触らずの答えで相手の様子を伺う。
口ひげマスターは眉を少し上げて
「そうですか」
とだけ答えた。ううっ、意味深……
気を紛らすために、バッグから推理小説を出した。79ページ。えっと、主人公が犯人らしき人を追って電車に乗ったところからだった。眼は文字を追っているが小説に集中できないでいる私がいた。
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