第18話 マスターの過去 1
「事件が実在しなかったって、それ、どういう意味ですか? 何かなぞなぞみたいですけど」
久保田は苦笑している。
「そうだよね。意味わかんないよね」
久保田はコーヒーを一口飲んで次の言葉までに間をおいた。
「あの事件はね、作られたんだよ。そして、その事件を作った張本人が、このボクなんだ」
頭が混乱してきた。この人は私をからかっているのだろうか?
「すみません。久保田さんの仰ること、全然わからないんですけど。私の頭が悪いのかなあ」
久保田の話すことは驚きの連続だった。地中海病院事件の発端は、遺族がいきなり担当医師を刺したことから始まっていた。刺された医師、そう、それがマスターだった。亡くなった患者さんの死亡宣告をした後、別室で遺族に説明をしている最中のことだったらしい。地方紙のほんの片隅に出た記事だったそうだ。患者遺族、医師に怪我を負わせ逮捕。そんなような見出しだったらしい。実際には、突然刃物で襲い掛かられたところを避けようとして、右手と右大腿部に傷を負った。居合わせた男性看護師と近くにいた放射線技師が遺族を取り押さえたのだそうだ。軽症ではあったが、右手の傷は深く、外科医にとっては致命的とも言える怪我だった。
「ボクは、新聞記者になって6年目だった。とにかくスクープがほしかった。この小さな事件を知って、ボクは何かあるのではないかと思ったね。的外れな直感だった。裏情報があったんだ。医療ミスだってね。実際、警察に連行されて犯人は『医者に殺された』と繰り返しわめいていたそうだ」
久保田は、コーヒーを少しずつ飲みながらゆっくり話を進めていった。それにしても、なぜ、この人は、私にこんな話をしようとしているのだろう。その真意を図りかねた。
「地中海病院に取材に行ったけれど誰も何も話してくれない。まあ、いつものことだ。新聞記者が好きな医療機関なんてないよな。それに実際、ボクは病院側に疑惑の目を向けていたからね。ボクの中の独りよがりな正義感がボクを突っ走らせた。犯人に話を聞きに行ったんだ。友人だと言ってね。拘置所にさ」
久保田は驚く私を無視して話し続けた。
「涙ながらに語るんだよ、犯人が。まだ親孝行をしていないって。これからだっていう時に、突然、死なれたんだって。単なる怪我で入院したのに突然病院で死ぬなんて、ありえないだろう、とね」
私は、何も言えずにただ黙って久保田の話を聞いた。
「患者は68歳の男性だった。元サラリーマンで、趣味で始めた畑仕事、その趣味が高じてトラクター類を使うようになったらしい。そして操作を誤って指を切断してしまった。患者は地中海病院で、形成外科、諸岡医師の執刀で手術を受けた。誰だって指の手術くらいで患者が死ぬなんて思わないさ。患者家族が疑うのも無理はない。ボクは、このまま医療ミスを闇に葬り去ってはいけないと感じた。家族を救おうと思った。いや、それは偽善だね、ボクはスクープを取りたかったんだ。相手はその世界では有名な医師だ。コイツを落とせば相当のネタになる」
指の手術。全国に名を馳せたモロオカ医師の医療ミス。
私は久保田の話をどう捉えたらいいのか、分からずにいた。
指の手術で患者が本当に死ぬということがあるのだろうか。本当だとすれば、やはり、モロオカ医師は医療ミスを犯したのだろうか。
このまま久保田の話を聞くことが怖かった。しかし、私には『止めて』という言葉も出せずにいた。
久保田は、コーヒーカップを口にし、残念ながらコーヒーが残っていなかったことに気がついた様子だった。
身体を前のめりにして、私のカップを覗きこむと、微妙な笑顔で私に聞いた。
「君のコーヒーも、あまり残ってないね。何かオーダーしようか。2杯目はボクが奢るよ」
どうしようかと思ったけれど、久保田という人物を、確かに私は誤解していたようだと感じ始めていた。私の交友関係は、学校の極めて狭い範囲に限られていたから、未知の世界を知りたいという好奇心もあった。
何より、目の前で話される内容は、私が日頃読んでいる推理小説よりもはるかに現実味を帯びた話だった。いや、現実の話なのだ。主人公がマスターである点だけが、私には苦しかったが。
「久保田さんは、一杯目、何を飲まれたのですか?」
「ボクですか? ボクはね、今日はグアテマラを頼みました。芳醇な香り、甘味、絶品でしたよ。まあ、ここで飲んだコーヒーでまずいと思ったことは、まだ一度もないですけどね」
私はグアテマラを頼み、そして、久保田さんは(急にさんづけで、私も勝手だね)、ブレンドコーヒーの”ゆたか”をオーダーした。”なごみ”よりも焙煎度が強く苦味が強くなると同時にコクも深いらしい。
「あの……。どうしてそんな話を私に?」
私はさっきから気になっていた疑問を口にした。
「うーん。自分でもわからないんだけど……。ボク、君とどこかで会ったことがあるような気がするんだけど、気のせいかな。」
私は断言できる。
「いえ。久保田さんとはここで初めてお会いしました」
「そうですか……。まあ、いいや。この前君達と話をした後、一人でここへ来たんだけど、その時に、マスターから聞いたんだよ。君が看護学校の学生さんだってこと。だから、事件の話なんか中途半端なことを言ってまずかったなって反省した。これから医療機関に足を踏み入れる人にする話じゃなかったなって。そしたら、今日、君は地中海病院に行ったって言う。もう、ホントにまずかったって思った。でも、それだったら、きちんと話しておいた方がいいって、そう思ったから……こんなことまで話してるの…かな。」
物語も後半に入ってきました。
毎回、少しずつ読者が増えていて、本当に嬉しいです。期待を裏切らないような作品に仕上げていきたいと思っています。
ブレンドコーヒーは、やりだすと奥が深いです。豆の種類の組み合わせとそれぞれの比率、焙煎度、それこそ無数に組み合わせができます。
私は、趣味で少しずつコーヒー豆を焙煎しているだけですので、最後は、ちょっとずつ余った豆を混ぜ合わせてブレンドになってしまいます。そこにはポリシーも何もありません。あるのは、勿体無いという気持ちだけです。
大抵、フルシティーくらい(中深煎り)で焙煎度合いは固定していますので、へんなブレンドにはなりません。甘味の強い豆、酸味の強い豆、フルーティーな香味の豆、など、傾向の違う豆を3種類くらいを混ぜると、一味違う贅沢な世界が楽しめます。
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