第17話 久保田
日頃勉強していない身には、試験は過酷そのものだった。試験前1週間からお尻に火がついた私と景子は、ほとんど毎日一緒に過ごした。不思議と二人で勉強すると能率があがる。いや、単に、時間がないから集中力が上っただけか……。
日頃あまり真面目でない景子と私のコンビは、試験で不思議とまぐれ当たりが多かった。いつも同級生から「ずるい」と言われる。そんなことを言われても、集中力が”勘”を研ぎ澄ませてくれるのだ、なんちゃって、終わってしまえば何とでも言える。でも、景子も私も一教科落とした。薬理学の先生は意地悪で、大抵みんな落とされる。膨大なレポートを書かされるが、追試がないのはある意味ラッキーだった。
そんなわけで、今日は久しぶりの”森”。いやなことを終えた後の珈琲館は、やっぱり単純に嬉しい。
「いらっしゃい。おお、久しぶりですね。さては、試験だったかな」
いつものようにマスターが声をかけてくれる。鋭い!
「ピンポーン。そうなんです。やっと終わりました」
マスターも嬉しそう。グラスとメニューを持ってきて、にっこり笑う。
「試験はホントにいやですよね。とりあえず、終わってよかったですね」
メニューを受け取るより先に、私はオーダーした。
「マスター。嬉しいときに飲むコーヒーを出してください」
マスターは、目玉をちょっと上へ向けると、ニンマリ笑った。
「嬉しいときに飲むコーヒーですか。うーん、ブレンドはどうです? まだ、試したことないでしょ? 中深煎りに仕上げたこのブレンドなんか、いいんじゃないかな。マイルドですよ」
「はい。じゃあ、それ、試してみます」
窓の外を見る。ちらほらと紅葉が始まっている。ここの風景は、夏も秋もいい。
あ。赤いスポーツカーが入ってきた。げげー。久保田さんの車かあ。なるべく気がつかない振りをして、私は外ばかり眺めていた。
カランコロン。
私の目と耳は分離状態。目は顔とともに”森”の外に釘付け。そして、耳は、”森”の中の音と声に集中していた。
「おう。元気だったか。今日は久しぶりのお客さんばかりだ」
マスターの声が聞こえる。
「ああ。おかげさんで元気だけは誰にも負けん」
久保田の声だ。声の質からして、後ろ向きだ。ほっと安心する。カウンターに座ったんだ。
別に私が悪いことをしたわけじゃないんだけど、何となく顔を合わせたくない種類の人間だった。こちらに背を向けて座ったことを知って一安心、私は推理小説を出した。新しい本。「美人宝石商殺人事件」白畠悠里、最近話題の女流作家だ。シリーズ物でこれで3冊目。
読み始めた途端に、ブレンドコーヒー”なごみ”が運ばれてきた。マスターは、何も言わず、私の顔を覗き込んでにっこりした。私も、久しぶりの贅沢が嬉しくて、笑顔のお返し。うーん。いい香り。
「ブラジルサントスとコロンビア、それにモカ・シダモを加えています」
飲みやすいコーヒーだった。飲みやすいけれど、コクとほんのり酸味があって、口になじむ、と言うのかな。なるほど。ブレンドって安っぽいイメージがあったけれど、そうじゃないんだ。新しい発見だった。
「ブレンドはね、その喫茶店の顔なんだよ。私は勝負コーヒーだと思っている。一番出るからね」
マスターの嬉しそうな顔。
「ゆっくりしていってください」
包み込むような優しさ。何も考えず麻薬に浸る。コーヒーと、そしてマスターの。小説をゆっくり開く。私の贅沢の時……
「あ。この間の……」
カウンターの方から声がした。いや〜な予感。知らん振り、知らん振り。
背後に気配を感じながら、無理やり私は小説を覗き込んでいた。勿論読んじゃいない。
「いやあ。こんにちわ〜。この前はどうも〜」
心の中でムカッとしながら、顔をあげた。
「あ、ああ。こんにちわ。どうも……」
久保田が目の前に立っている。しかも、コーヒーを手に持って。
「ここ、空いてます?」
図々しい男……。私の気持ちを見透かしているのか、
「いやあ、図々しいのは職業病でね、ここ、座りますね、ごめんなさいね」
どう対応しろっちゅうのよ。全く。
私は小説をテーブルに置いて、久保田をじっと見た。この、マイナス100の雰囲気を打ち消すために、プラス100のコーヒーに口をつける。プラマイゼロだ。これでどうだ。
ところが、こいつの顔を見た途端、前回の久保田の言葉が蘇ってきた。
(君たちは、地中海病院事件って知らないよね?)あの、言葉だ。
「私、地中海病院に行ってきました」
唐突に話を切り出したのは私の方だった。久保田は、沈黙した。私は、内心、マスターのことをあまり詳しく知りたくないと思っていた。でも、あまりにも中途半端すぎて、頭の中のジグソーパズルが気になっているのも事実。久保田は、マスターのことを知っているはずで、この人に聞けば、今以上にピースが揃うだろうということも何となく感じていた。
「この前は、ボクのこと、多分誤解されたんじゃないかと思ってる」
あんたのことなんて、どうでもいいのよ。誤解じゃなくて理解したと思ってるけど。
「地中海病院事件については、どこまでご存知ですか?」
真面目な顔で久保田が聞く。
「ほとんど知りません。7年前に地中海病院で医療ミスがあった。患者さんが亡くなった。カルテ改竄もあった。担当医師が逮捕された。そして、地中海病院事件がきっかけで、病院近くの小さなホテルが2件潰れた。それだけです。」
久保田が苦笑いをしている。
「ホテルが潰れた? そうなんですか」
私は冷たく答えた。
「ええ、宿泊したビジネスホテルのおじさんがそう言ってました」
久保田は慎重に言葉を選びながら話した。
「地中海病院事件。あれは、本当は実在しない事件だった」
「はあ???」
一体何なのだ。
私には、久保田の言っている意味が全くわからなかった。
生豆を焙煎するときに、はぜる音がします。ハゼ音と言いますが、煎りの深さを知る指標として大切なものです。
最初にパチッパチッと大きな音(1ハゼ)、それが過ぎると、今度はピチピチピチと細かい音(2ハゼ)がします。
生豆を焙煎すると、豆自体は膨張し、水分が飛んだ分軽くなります。
ハゼ音は、豆のどこかの部分に亀裂が入って出る音だろうと思うのですが、1ハゼと2ハゼ、一体どこから音が出ているのか。この二つの音は別の場所から出ているに違いないのですが、それがどこなのかわからない。外から熱が伝わりますので、外が先ず裂けて、次に内側が裂けるのだろうと想像していますが、具体的な場所がわからない。
いろんな本を読んで探しましたが、その謎は不明のまま現在に至っています。
どうでもいいと言われればそれまでですが、気になって仕方がないのです。
どなたか、ご存知の方がおられましたら、ご教示くださいませ。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。