第12話 小柳師長
ウソです。ウソです。すみません。勘弁してください。ごめんなさい。
心で絶叫しながら、口がカラカラに渇いてきた。胸は高鳴り、極度の緊張で脚まで震えだした。
一体、ナースはどこに連絡を入れるつもりなのだろう。これ以上長引けば、絶対にウソがばれる。
私が知っているのは、コーヒーを淹れているモロオカコウイチであって、こんな大きな病院で働いていたモロオカ先生ではないのだ。第一、本当にここで仕事をしていた、それも、多分、多分だけど、ここで医者をしていたらしいという確信を得たのは、たった今なのだ。後は、私は何も知らない。どうすればいいのだ。これ以上の作り話は私には無理だ。
「あ、田原さん? 秋吉師長、そちらにいる? 私、小柳だけど。うん、うん」
小柳ナースは、鳴っているナースコールを気にしながら、頭をキョロキョロさせて相手の返事を待っている。ナースが走ってきて、ナースコールを止め、「どーされましたー? 今いきまーす」とボードに向かって喋るのを確かめると小さく頷きながら、大きな身体を右に左に動かして落ち着かない。
相手が出たようだ。
「あ、秋吉さん、突然なんですけどね、諸岡先生、どこで仕事されているかご存知? そう、あの諸岡先生。いえね、先生の手術を受けた患者さんが、先生に会いたがってここに見えているのよ。ええ。多分、7階西と8階西を間違えたんでしょうけど。いえね、大きなリュックしょってるからわざわざ遠くから見えたみたいで。ええ。」
まるで私と関係のない話が勝手に進んでいく。
バックパックを下ろして、タオルを出すと、私は首筋の汗を拭いた。脚はまだぶるぶるしている。
小柳師長が電話を切って私の方へ近づいてきた。
「あら、どうなさったの? 顔色が優れないわね。それにすごい汗」
「あ、いえ、何でもないです。外があんまり暑かったから……」
苦し紛れの言い訳をしながら、早くここを立ち去ることばかり考えていた。
「ごめんなさいね。ICUの師長ならわかるかなって思ったんだけど、無理みたいで。諸岡先生は、ホントにオペが上手でしたからね。こうやって何年も経って、わざわざお礼に見える患者さんがいらっしゃるなんて、諸岡先生もお知りになったら喜ばれるでしょうね」
とにかく、早くここから脱出しないと……
「折角だから私の部屋へいらっしゃい。少し休んでいかれた方がいいみたいだし」
え?? 冗談じゃない! そんなことしたら、もっと具合が悪くなる!
「いえ、あの、私大丈夫ですから」
「いいえ。何年ナースをやってきたと思ってるんですか? これでも私はプロですよ。あなたは今、熱中症になりかけてるんです。地中海病院の師長が熱中症の患者を見逃したら、ここの病院の名が廃ります。いらっしゃい」
有無を言わさず、小柳師長は私を師長室に引っ張って行った。
とんでもないことになってしまった。
走って逃げるわけにも行かず、小柳師長の後をついて行った。ナース服のお尻がぴったりしている。私は師長室に着くまで師長の揺れるお尻を眺めて歩いた。
この小太りの少々おせっかいな師長は、ちょっと早とちり。だけど、心底優しいんだと思った。憎めない性格は景子に少し似ているかも知れない。
師長室には師長用の机と本棚、それに応接セットが置いてあった。
「ささ、そこの長い方のソファに横になってなさい。えーっと、スポーツドリンクが…確か、あ、あった、あった。ちょっと待っててね」
横になれって言われたって、そんなに簡単に横になれるものではない。私は行儀良くソファに座った。
扉の開いた冷蔵庫が異様に小さく見えた。小柳師長が前かがみになると、ナース服のお尻の部分が余計にはっきりして、下着のラインがくっきり見える。
コップに注がれたスポーツドリンクを二つテーブルに置くと、小柳師長はどっかと腰をかけた。
「私は5時から師長会議だから、しばらくここで休んで気分が良くなったらお帰りなさい。5時までまだあとちょっとあるわね」
師長は立ち上がって、今度は空調のコントロール板をいじった。
会議の資料らしきものを準備しながら、小柳師長は誰にともなく言った。
「モロオカ先生には、色々教えてもらったわ。ホントに厳しい先生だったけど、ICUがあれだけ成長したのもモロオカ先生のお陰だしね。あんな事件さえ起きなければ……」
深いため息をつく小柳師長。少なくとも、この師長にとってモロオカ先生はいい先生だったようだ。私は少しホッとした。マスターが何か犯罪を犯したのかもしれないと、そういう不安が常にあったから。
「あのー。厳しい先生でいらっしゃったんですか?」
マスターの落ち着いた行動と共に優しい顔が浮かんだ。
「そりゃ、もう。患者さん方には優しかったですけど、スタッフに対しては、何ていうんでしょう、完璧主義者でいらしたから。若い先生達はびびってましたよ。だけど、モロオカ先生を慕って優秀な先生方が集まっていたし、あの頃はこの病院の全盛期でしたね。あなたもそうでしょうけど、先生に手術をしてもらいたい患者さんが全国から集まってきて……」
そう言って、少し喋りすぎたと思ったのか、肩をすくめた。
「実は、私、看護学生なんです。来年最終学年になります。将来どういう病院で勤務したらいいのか、そういう悩みもあって、近くに来たついでに、立ち寄ったんです」
私が困る種類の質問を牽制するために、咄嗟に口をついて出た。自分でも驚く。追い詰められると、人間って自分でも知らない能力が出るものだ。
「まあ、そう。じゃあ、後輩ってわけね。頑張りなさいね。市中の大病院は、初めはきついかもしれないけれど、看護師にとって大切なことがきっと身につくから、若いうちは頑張った方がいいわよ。そうそう、諸岡先生が仰ってた。自分の価値は自分で作っていくしかない。看護師に対してもね。役に立たない看護師にはなるなって。どんなに立派な看護計画を立てられても目の前の患者に対して無力な看護師だったらいらないとまで。他の先生に言われたら反発したいところだけど、あの先生に言われたらね。医師と看護師では立場が違うから、諸岡先生と私とは少し考え方が違うんだけど、でも、私も実践的な看護師を育てたいという思いは一緒なのね。あら、私、ちょっと喋りすぎたわね」
その時、壁にかけてあった時計から鳩が飛び出してきた。ちょっと間抜けな時報だった。
「あら、いけない。会議の時間だわ」
「あ、私も失礼します。どうもご親切にありがとうございました」
小柳師長は、資料を脇に抱えると、満面の笑みを浮かべてお尻を振りながらドアを開けた。
「コップはそのままでいいわ。顔色も良くなったわね。頑張ってちょうだい。それじゃあ」
廊下に出て部屋に鍵をかけると、師長は小走りに去っていった。その後姿は何とも愛くるしかった。
物語も中盤に入ってきました。私もリキ入ってます(笑)。
さて、今日はコーヒー抽出の器具について。
私は、紙フィルターで抽出しています。コーヒー用の首の長いケトルを使って湯を沸かします。あの首は大事で、熱を冷ます役割があります。また注ぎ口が細いので少量ずつお湯を注ぐのに適しています。
ネルドリップをやりたいと前々から思っているのですが、ネルの管理が面倒で、まだ実行に移せていません。
一世代前のモデルのエスプレッソマシンを知人から譲り受けました。コーヒー豆を細かくグラインドする必要があり、専用のミルをまだ購入していないので、そのままになっています。
かつては、エスプレッソの代わりに、簡易式の『マキネッタ』を使用していた時期もありました。その頃には、まだ、自分で焙煎していなかったのでエスプレッソ用の粉を買っていました。
コーヒー抽出と言えば、サイフォンを想像される方も多いと思います。演出用としてはカッコいいと思いますが、どうしても抽出温度が高くなるので、美味しいコーヒーを追究される方にはお勧めしません。
私は、やや深く煎った豆を、少し低めの温度のお湯でゆっくり抽出したコーヒーが好きです。コーヒーの種類にもよりますけれど。一般的に高温で抽出すると、苦味が強くなります。
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