第1話 珈琲館”森”
妥協を知らない男。絶対に手を抜かない。私は彼にコーヒーの美しさを教えてもらったような気がする。味、香りに「美しい」という形容詞が当てはまること自体、彼のコーヒーに出会うまで知らなかった。
山の麓に位置し、ようやく舗装されたばかりの道路脇に一件のコーヒー店を見つけたのは、本屋のバイトからの帰り道、いつもと違うルートを選んだ時だった。『珈琲館”森”〜おいしい焙煎珈琲〜』ののぼりに引き付けられて、私は、車を停めた。砂利を敷きつめられた駐車場には、赤いスポーツカーが停まっていた。車のドアを開けるとすぐに、コーヒーの香りが私の鼻をくすぐった。
ログハウスのこじんまりした珈琲館”森”、ドアを開けると”カランコロン”と音がした。
マスターは口ひげをたくわえた、優しい眼をした人だった。
「いらっしゃい」
ちらと私の方を見て、一言声をかけたあと、彼はまた何事もなかったかのようにそこにいた。
先客はカウンターに肘をついて身を乗り出していた。常連さんだろうか。ジーンズに茶色のジャケット姿。30代後半から40代前半と思われる男性、あの赤い車の持ち主だろう。
「こうさん。何かうまいの入ってる?」
マスターは少し間をおいて答えた。
「ああ。極上のタンザニアが入ってる。今は季節でね。ほかにも、カリブ海系が数種類と、実はブラジルもいい農園を見つけたんだ。ただ、今のお前には、タンザニアだな」
不思議な会話だった。
「はっはっは。こうさんがそう言うなら間違いない。その、極上のタンザニアを頼むよ。それとビスケット」
そんな会話を聞きながら、私は窓際のテーブル席に座った。窓の外には、赤いスポーツカーとその向こうに美しい木立が絵になっていた。
心地よいフルートの音色に”この曲は何だっけ”と思いながら店内の音源を探して眼を移したとき、グラスを手にしたマスターがじっと私を見ているのに気がついた。氷の入ったグラスと黒い皮表紙のメニューをテーブルに静かに置き、
「ごゆっくりどうぞ」
と彼は会釈した。
メニューを開くと、コーヒーの名前がずらっと並んでいた。正直言って、こういうの困るんですよ。あんまり数が多いと。
ケーキ類はないんだ。”食べ物”の欄にはビスケットとある。それだけ。普通”お食事”じゃないかな。”食べ物”っていう表現も面白い。
名前では決められないから、値段で決めるかな。いや、無難なところで、ブレンドコーヒーにしようか。
ところが、ブレンドコーヒーにも4種類あって、色々細かい説明が書いてあった。
うー。決められない。メニューとにらめっこしていると、マスターがニコニコしながら近づいてきた。
「お嬢さんにぴったりのコーヒーが入荷していますよ。ソレを淹れてあげましょう」
……アハハ、ばれていたか。
「あ、はい。お願いします」
グラインダーで珈琲豆をつぶす音が響いた。
私は、バッグから読みかけの推理小説を取り出した。何と言う贅沢な時間だろう。こんな時間を人は人生の中でどれだけ確保できるだろうか。
マスターは左手で珈琲カップを私の前に置いた。
ブルーの小さな花が踊る珈琲カップの中でソレは静かに波打っていた。
「コスタリカです。ゆっくり楽しんでくださいね」
柑橘系の甘い香り、私はすぐに、その珈琲の虜になった。
あれから私は週に一回、”森”へ通うようになった。
私がここに惹かれたのは、コーヒーに対する強烈なまでの認識の変化だった。一杯のコーヒーが、ここまでその存在を私に訴えかけてくることが驚きだった。
土曜日の午後、その窓際の席は私の指定席になった。いつも、そのテーブルに陣取り、心地よい音楽を聴きながら、窓の外の美しい木立を眺め、私を恍惚にしてくれるコーヒーを片手に推理小説を少しずつ読んでいく。その習慣はまるで麻薬のようだった。麻薬をやったことはないから例えるのは見当違いかも知れないが、毎週土曜日の午後のためにその他の日々を過ごしているようなものだった。でも、それ以上は通うことができなかった。時間が許さなかったことと、何より、私に許される贅沢の限度が週一回だった。
マスターのことが気になりだしたのは、ここに通うようになってしばらく経ってからのことだ。
彼は、私の質問にいつも丁寧に答えてくれた。私はコーヒーのことを何も知らなかった。しかし、一度開き直ると、何でも聞くことができた。コーヒーに対して並々ならない情熱を持っていることだけは話していてよくわかった。
「マスター。どうしてケーキを置かないんですか? 普通、喫茶店だったらチーズケーキとかチョコレートケーキくらいはあると思うんですけど」
マスターの答えは意外なものだった。
「私がケーキを作れないからさ」
彼は、”満足いく”ケーキを作れないから出さないのだそうだ。
「そんなの買ってくればいいんじゃないですか?」
マスターは、一瞬私の方を見て、微かに微笑んだ。
「私のポリシーに反するんでね」
そこまでこだわる? いや、こだわってもいいけど、商売してるんだったら利益を上げることは一番念頭にあるでしょ、普通。コーヒー飲む時、ケーキがほしいって人は多いと思うけど・・・
どうも、思ったより偏屈おやじかも知れないぞ、ともう一人の私が心の中でつぶやきだした。
連載小説に初挑戦です。私自身も楽しみつつ物語を綴っていこうと張り切っています。何でもお気づきの点、ご意見頂けましたら光栄です。
作品を書いて、早や1年になります。2008年11月17日より、細かな修正作業に入っています。内容にほとんど変更はありません。
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