アクアリウムの遺産
Pentagram Falling 5.
"The Aquarium Heritance"
矢内宇音(やないうおと)は私鉄の壺ヶ浦駅を降りると、駅前のレンタカーで水色のトヨタ・アクアを借りた。
海辺にある叔父の家までは、歩くには少しばかり遠い距離だった。
叔父の家と言っても、今では宇音が所有者だった。宇音の叔父、尾島澄午は三か月前に自殺したためだ。
宇音の父は、その家を売り払うか、別荘として使うか自分で決めろと言う。それで宇音は大学の夏休みを利用して、しばらく滞在してからどうするか判断することにしたのだった。
駅から離れるとすれ違う車もなく、人もほとんどいなかった。
海辺の家までは、車で二十分足らずの距離だった。白い壁に囲われた緑の屋根の建物で、玄関の周りは青いタイルで覆われていた。
車で近づいていくと、家の前に人の姿が見えた。夏だというのに灰色のコートを着こんだ、髪がぼさぼさの男だった。その男は郵便受けの中を覗きこんでいるようだった。
宇音は車を止めた。男が顔を向けた。目つきが悪い。無精ひげを生やした口に折れ曲がった煙草をくわえていた。
「君は?」
男は聞いた。
「ここの所有者ですけど」
「ほう、では君がこの“アクアリウム”の相続人というわけか」
尾島澄午はこの家をアクアリウムと呼んでいた。地下に魚を飼うための大きな水槽がいくつもあったためである。
「なぜその呼び方を知っているんです?」
「なに近所のペットショップで聞き込んだのさ」
「で、あなたは何なんです?」
「いや失礼、こういう者で」
と、男は名刺を差し出した。
〈ジャーナリスト 菅野史郎〉と記されていて、東京の住所と携帯の番号も刷り込まれていた。
「取材はお断りしますよ」
「ま、そう言わず、名前ぐらい聞かせてくれよ」
「矢内宇音です」
「ウオト、ウオトか」菅野史郎は驚いたように聞き返した。「字はどう書くんだね?」
「宇宙の宇に、音楽の音ですけど」
「なるほど宇宙の音か。いい名前だ」
「それが何か?」
「いや、それはそうと、名字が違うが、尾島氏とはどういう?」
「叔父です。母の弟だったんです」
「ふむ、お母さんは元気かな?」
「そんな事、どうでもいいでしょう」
宇音は腹を立てて言った。
「すまんね、立ち入ったことを聞いて」
そう言う菅野を無視して、宇音は車を降り、ガレージのシャッターを開けた。
「尾島澄午の死体が見つかったのは……」菅野はしつこく話しかけてきた。「ガレージの前というから、ちょうどこのあたりなんだろうな。ガソリンをかぶって火をつけたそうだね」
「何なんですか、取材はお断りといったでしょう」
「君は、おかしいと思わないか。すぐ目の前は海なのに、何だって焼身自殺なんかしたのか」
「叔父さんは泳ぎが得意でしたから、海に飛び込んでも死ねなかったでしょうよ」
「はん、泳ぎが得意だから死ねないか、そりゃ君、なかなか的を得た答えかもしれんよ」
何が言いたいのかわからず宇音は黙って睨みつけた。
「ま、そう気を悪くせず、またいずれ話を聞かせてくれよ」
軽く手を振って菅野は去っていった。
宇音は車をガレージに収め、家に入った。
二階に上って窓を開けると、防風林に寄りかかってこちらの様子を窺っているコート姿のジャーナリストが見えた。菅野はポケットから茶色のガラス瓶を取り出すと、中の液体を一口飲んだ。どうやら酒を飲んでるようだ。そして瓶をポケットへ戻すと、煙草をくわえ道路をとぼとぼと歩いて行った。
母親のことを聞かれて、宇音は腹を立てた。それというのも彼の実の母はもう死んでいるからだった。彼が生まれてすぐに病死したのだ。父はその後まもなく再婚した。宇音には実の母の記憶はなく、現在の母ともとくに問題もなくうまくやっていた。
この家の主だった尾島澄午は、宇音の死んだ母の弟だった。澄午には他に家族もなく、遺言で宇音を遺産相続人に指名していたのだった。
叔父の澄午とは中学から高校にかけてよく遊んだものだった。一人っ子の宇音は澄午を兄のように慕っていた。夏休みになるとこの家に泊まりに来て、二人で釣りやダイビングを楽しんだのだった。だが、高三の夏休みは受験勉強に集中しろと父に言われ来ることができなかった。今思うと、父は宇音が澄午と付き合うのを快く思っていなかったような気がした。大学生になってからは何かと忙しく、会うことはなかった。そして大学二年の春、突然、叔父が自殺したという知らせを聞かされたのだった。
宇音は客室に自分の荷物を置くと、叔父の書斎に行った。所有物はまだそのまま残されている。
本棚を見て、澄午が意外と読書家だったことを知った。フレイザー『金枝篇』、キャンベル『千の顔を持つ英雄』、エリアーデ『永遠回帰の神話』、レヴィ=ストロース『神話理論』など神話や伝承に関する本が多かった。日本のものでは柳田国男の『遠野物語』や『古事記』『日本書紀』に関する研究書があり、あとは小説が少しと、海洋生物の図鑑などがあった。
机の上にはノート・パソコンがあった。開いてみるとモニターの横にランダムに並べたらしい英数字の書かれた付箋が貼り付けてあった。電源を入れるとパスワードを要求されたが、付箋の英数字を入力するとログインできた。
メーラーをチェックしてみると、スパム・メールがいくつか着信しているだけだった。
ブラウザを立ち上げると、HTMLで組んだ手製のブックマーク集が表示された。リンク先は百件以上もあって、《ロシアの漁師が謎の生物の死体を引き揚げる》《沖縄でダイバーが海底遺跡を目撃》《マラッカ海峡で旅客機がまた消失》《南極の氷の下に未知の生物の痕跡》といった、いずれも海に関連した超常現象についてのニュースサイトやブログの記事ばかりだった。
履歴を見るが、何も記録がない。メールも履歴も死ぬ直前に削除しておいたらしい。
ライブラリのピクチャ・ファイルには画像が数十枚保存されていた。魔方陣のような図形、異様な生物のイラスト、それに世界各地の遺跡や宝飾品の写真といったものだった。テキストや音楽や動画は何も無く、変わったソフトなども無かった。
叔父は半年ほど前、それまでやっていたダイビングのインストラクターの仕事を辞めてしっまったと聞いた。その後は、いったい何をやっていたのだろう。オカルト研究にでものめりこんでいたというのだろうか。
宇音は書斎を出て寝室へ行った。
寝室の壁には大きな絵が飾られていた。
それは、荒れた灰色の海に石造りの大きな城が浮かんでいる風景で、背景の空は黄昏の淡い黄色に染まっていた。城壁には黒い金属製の門扉があって、かすかに開きかけたその扉から白い頭足類の触腕が這い出しているのが見えた。全体に幻想的な雰囲気だが、細部までリアリズムの筆致で描き込まれていた。宇音がこの家に泊まりに来ていた三年前までは目にしたことのない絵だった。
ベッドサイドのテーブルには小型のCDステレオがあった。澄午叔父さんはジミヘンやジェフ・ベックが好きだったなと、宇音は思い出したが、周囲にCDソフトは見当たらなかった。プレーヤーの電源を入れてトレイを開けてみると、CDが一枚入っていた。それはレーベルのないCD-Rだったのでどんな音声が収録されているのかわからなかった。トレイを戻し、再生してみる。
スピーカーから流れだしたのは反復する静かな電子音だった。どうやら環境音楽のようなものらしい。しばらく聞いていると、チャッチャッチャッという大勢の声がかすかに響いてきた。バリ島の民族音楽ケチャだ。
宇音は、ケチャの重ねられた環境音楽に聞き入っていた。そうして海上の城の絵画へ視線を向けると、幻想的な光景がじっさいに目の前に広がっているような気になり、心がざわめくような感覚があった。絵画や音楽にこれほど惹かれるということは宇音には初めてのことだった。だが、同時に不安な気分も兆してきて、彼はプレーヤーを止め部屋を出た。
次に宇音は地下へと降りた。
地下室には、この家の呼び名“アクアリウム”の由来である多数の水槽が設置されていたのだが、叔父は仕事を辞めたのと前後してそれを撤去し、改装してしまっていた。どんな改装をされたのか宇音は知らなかった。
そこは、温泉旅館の大浴場のような空間になっていた。床の半分ほどが大きな浴槽のようなものになっていた。壁にあるスイッチを操作してみると、水が流れ出し、浴槽がいっぱいになると同時に排水の機能もはたらいて、水が循環し続ける仕掛けになっていた。潮の匂いがするので、水をすくって舐めてみると、それは海水のようだった。地下からポンプで汲み上げているのだろう。
どうやらこれは流れる海水を身体に浴び続けるための設備らしい。しかし、いったい何のために? 海亀かアシカのような生物をここで飼おうとしていたのかとも考えられるが、どうもそんな雰囲気でもないような気がした。
宇音は、持参したインスタント食品で早めの夕食を摂った。
そして自分用の部屋を片付けてしまうと、もうすることはなかった。
ベッドで身体を伸ばして読書でもしようと思った。本は、電車の中で読むためにと出発前に近くのブック・オフで百八円の文庫本から適当に買ってあった。選んだのは村上龍の『だいじょうぶマイ・フレンド』だった。
読み始めても一向に内容が頭に入ってこなかった。やはり叔父の死をめぐって、気にかかることが多すぎた。
宇音がここへ来たのは、相続したこの家を別荘として所有するか、売却するかを決めるためだった。どう判断すればいいのか。それを決めるためには、叔父が自殺した本当の理由を知らなければならないと、そんな気がした。
尾島澄午が自殺した理由を、警察ではよくあるノイローゼのようなものと判断していた。宇音もはじめはそんなものかと思っていたが、今日この家の様子を見て、それは信じられなくなった。何か隠された理由があるのではないかと思う。
原因があるとすれば半年前、叔父が仕事を辞めた頃ではないか。同じ頃にアクアリウムの水槽も処分されている。神話や伝承に関する本を集めたり、音楽の趣味が変わったりしたのものもそれ以降のことではないのか。だが、いったい何があったのか?
夜になっても様々な想念が渦巻いて宇音は寝付けずにいた。打ち寄せる波の音がずっと聞こえていた。そのうち彼はあの音楽が気になってきた。ケチャの声がかすかに響く環境音楽。もう一度あの音楽が聴きたいと思い、叔父の寝室へ行った。
CDを再生して、照明のスイッチを切り換えた。すると蛍光灯が消え、間接照明が壁の絵画を照らすようになった。海上の城がより幻想的に浮かび上がった。宇音は音楽を聴きつつ、絵を眺めながら眠りに就いた。
宇音は夢を見た。
彼は暗い海を一人で泳いでいた。波が高く、今にも溺れそうで不安だった。
いっそ海中に潜ってしまった方が楽なのではないか、そんな気がして、思い切って沈み込んでみる。
するとやはり苦しくもなく水中をどこまでも泳いで行ける。しばらくすると前方に巨大なダイオウイカを見かけた。彼はその白い巨体に導かれるようにどこまでも泳いでいった。やがて海藻に覆われた石の柱廊にたどり着いた。まるで太古の神殿のようだ。中で何かが光っている――
その時、宇音は大きな音を聞いたような気がして目を覚ました。ガラスの割れる音だったのではないか。じっと耳を澄ましていた。音楽はもう止まっていた。すぐに割れたガラスが床に散らばる音が聞こえた。誰かが侵入しようとしている。泥棒だろうか。宇音はベッドを出てドアに鍵をかけた。どうせ高価なものは置いていないのだから、下手に顔を合わせて危険を冒すより出ていくまでじっとしていようと思った。
ドアに耳を寄せると、ひたひたと足音が聞こえた。それに水滴のたれるような音もしていた。海から上がってきたのだろうか。ドアの開く音がした。向かいの部屋、つまり書斎だ。さほど時間はかからずすぐに侵入者が出てくる気配があった。廊下をもとの方向へ歩いていく。家を出る頃を見計らって、宇音は寝室のドアを開けた。一目でも賊の姿を見ておこうと思った。足音を忍ばせてリビングへ行った。サッシのガラスが割れていた。一瞬だけ庭を走っていく人影が見えた。ひどい猫背であることが印象に残った。それに月光に照らされたその人物は、赤紫色の裾の長いガウンのようなものを身にまとっていた。泥棒に入るにしては派手な服装だなと宇音は不思議に思った。
侵入者が歩いた跡は点々と水が溜まっていた。書斎に行ってみると、机の上にあったノート・パソコンが失くなっていた。
パソコンならそれなりの値段で売れるだろう、だが、侵入者が迷わずそれだけを盗んでいったことを考えると、単なる金銭目当ての泥棒ではない気がした。あのパソコンの中には何か重要なデータが入っていたのではないか。だが、宇音が見たところ、メモリーには画像しか入っていなかった。画像の中に何か決定的に重要なものがあったのだろうか。例えば犯罪の証拠になるような。よく確認しなかったことを悔やんだが、今となっては仕方がない。
問題は警察に知らせるかだが、叔父の自殺の直後だけに、よけいな疑惑を向けられるのではないかと思うと面倒だった。朝になってから考えることにしていったん寝てしまおうと思った。リビングのガラスはそのままにして、雨戸を閉めておいた。
ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。
朝になってあらためて考えてみると、泥棒に入られたと警察に知らせるなら、夜中であってもすぐに通報すべきだったと気づいた。時間がたってしまうと電話もかけづらく、宇音は通報しないことに決めた。
午前九時過ぎ、朝食を終えたところ電話が鳴りだした。この家の固定電話である。
「こちらキリン書房ですが」
相手は言った。
「は?」
宇音が聞き返すと「古本屋のキリン書房です」と言った。
「はあ」
「そちらは尾島さんですね?」
「あの、尾島澄午は亡くなったんですが」
「ええ、するとあなたはご家族の方で?」
「家族というか、親戚ですけど」
「そうですか。ともかくですな。ご注文の本が手に入りましたので引き取りに来ていただきたいのですが」
「いや、だから尾島は亡くなって……」
宇音は思わずそうくり返したものの、叔父がどんな本を取り寄せようとしていたのかには興味があった。
「そうおっしゃられてもですな。もう前金はいただいておりますし、特殊な物ですから返品というわけにもいかず、そちらで引き取っていただきたいのですよ。何なら郵送いたしますが?」
「じゃあ、取りに行きますよ」
古本屋は住所を告げた。私鉄で二つ先の駅の近くだった。
「では、お待ちしております。ああ」と、切る間際に相手は付け足した。「それで料金ですが、もう三十万ほどかかりましたので、ご用意をお願いします」と。
三十万ではとても宇音には払えなかったので、父親に相談すると、父から相手の口座に振り込むということで話がついた。銀行員である宇音の父は外聞をはばかって、トラブルを望んでいないようだった。
宇音はガレージからアクアを出した。
駅前の商店街は活気がなく、大半の店はシャッターを降ろしていた。キリン書房は、商店街の外れで店を開いていた。古びた小さな古書店だった。
ポルノ雑誌の積み上げられた薄暗い店内に入っていくと、店主らしい白髪頭の小柄な男がパソコンのモニターに顔を寄せてキーを叩いていた。
「あの、お電話いただいた尾島の親戚のものですが……」
宇音は声をかけた。
「ああ、わざわざどうも、少々お待ちを」そう言って店主は奥へ入っていき、しばらくすると茶色い表紙の本を一冊抱えて戻ってきた。「こちらになります」
差し出された本を宇音は受け取った。見ると、角は折れ、あちこちに黒ずんだ紙魚が浮いていた。タイトルは長ったらしい英文だった。
「これが三十万?」
「ええ、前金と合わせて三十六万。端数はおまけしておきました。いや、手に入れるのには苦労しました。普通のルートじゃ出回ってませんからな」
「そんなもんですか」
「はい」
宇音は、包装は断ってそのままの本を手に店を出ると、車のシートであらためて表紙を見た。
タイトルは"The Prehistoric Pacific in Light of the 'Ponape Scripture'"となっていた。
中身も英文だった。簡単に訳せるほどの英語力は彼にはなかった。
ページをぱらぱらとめくって図版のあるページで手を止めた。見知らぬ文字の刻まれた石版や、ヒトデとタコを合わせたような奇怪な生物をかたどった小像の写真があった。それに銅版画らしい線で描かれた、魚と蛙の中間のような生物の絵もあった。それらに似たものを宇音は、叔父のパソコンに入っていた画像で見たような記憶があった。
帰り道、食料を仕入れるためにコンビニに立ち寄ることにした。
駐車場にトヨタRUV4が止められていた。その白いボディは、まるで今砂漠を横断してきたというように埃にまみれていた。運転席に目をやると、そこにいたのはジャーナリストの菅野史郎だった。
菅野はその時、ぼんやりと自分の両手を見つめていた。よく見ると手が震えているようだった。やがてその手をぐっと握りしめると茶色い瓶を取って、中の液体を口に流し込んだ。手の甲で口を拭っていると宇音と目が合った。菅野は気まずそうに苦笑して車から降りてきた。
「昼間っから酒ですか?」
宇音は声をかけた。
「おれにとっちゃ薬みたいなもんさ。君は、おでかけかね?」
「ええ、ちょっと……、古本屋に」
「古本屋?」
「澄午叔父さんが本を注文していたらしくて。それで三十万も取られちゃって」
宇音はこの男がどの程度事情を知っているのか試してみたくなった。
「そりゃ大した買い物だな。『ナコト写本』でも買ったのかね?」
「なんですか、それは?」
「いや、尾島氏はそんな資料を探してるんじゃないかと思ってね」
「これですよ」
宇音は車から例の本を取って菅野に見せた。
「ほう、これは『「ポナペ経典」から考察した先史時代の太平洋海域』じゃないか。コープランド教授の論文だ」
「知ってるんですか?」
「ああ、まあ町の古本屋に探し出せるのはこれくらいがいいとこだな」
「何が書いてあるんですか?」
「おれも読んだわけではないからくわしくは言えんが、そうだな、ムー大陸とか、まあその辺の話だ」
「ムー大陸……」叔父はやっぱりオカルトにはまっていたのかと、宇音はがっかりした。「そう言えば叔父のパソコンにそんな記事とか画像がたくさんありましたよ」
「ほう、パソコンにね。それをちょっと見せてもらえないだろうか?」
「それが昨夜、泥棒に入られて盗まれちゃったんですよ。被害はパソコンだけでしたが」
「泥棒が……!?」
「あの泥棒、まさかあなたじゃないでしょうね?」
「おれがそんなことするわけないだろう」
「まあ、そうでしょうね。じゃ」
宇音が本を受け取って、戻ろうとすると菅野は言った。
「君は、その本をどうする気だね?」
「何とか訳して、少しでも読んでみようと思います」
「叔父さんに何があったのか知りたいというわけか?」
「ええ、そうですよ」
「それならもっといい本がある」
「何ですか?」
「ラヴクラフトという小説家を知っているかい?」
宇音は首を横に振った。
「その作家の「インスマウスの影」とか「インスマスを覆う影」とか、翻訳によって微妙に違うんだが、そんなタイトルの短編がある」
「小説なんですか?」
「ああ、怪奇小説だがね。まあ読んでみたらいい。叔父さんに何が起こったか、それに、この壺ヶ浦で何が起ころうとしているか、よくわかるだろうさ」
「壺ヶ浦で……、この土地が関係あるんですか?」
「ああ」
そう言うと菅野は、宇音の背後上方に目を向けた。
宇音もその方向を見た。丘の上に白い建築物が横たわっていた。
「丘の上の白い建物、あれが何か君は知っているかね?」
「さあ」
「この辺の住民は“サナトリウム”なんて呼んでいるがね。実のところあれは精神病院さ。もっとも最近は、ある特殊な病状の患者だけを集めているようだがね」
「特殊な……病状の?」
「尾島澄午もその件にはずいぶん興味を持っていたようだよ。君も一度訪ねてみるといい。尾島の甥と言えば、追い返しはしないはずだ。それにラヴクラフトのことも忘れずに。これらのことから君が何を理解したか、後でぜひ聞かせてくれよ」
宇音は海辺の家へ帰った。
古本屋から持ち帰った本は書斎に収めておくことにした。そこで本棚を見ると『ラヴクラフト傑作選』という文庫本を見つけた。手に取ってみると最初に「インスマスの影」という短編が入っていた。すぐ読み始める気にはなれず本棚に戻した。
昼食を食べながら、スマートフォンを使って丘の上の病院について調べてみることにした。
市内の医療施設の一覧を見つけた。そこでわかったのは病院の名は〈水瓶座治療院〉で、院長は鰐淵類なる人物ということだった。電話番号もわかったが、ほかに情報はなかった。
尾島の甥と言えば追い返されないと、菅野は言っていたが、どうするか。
叔父の身に起こったことは、この土地壺ヶ浦とも関係してるとも言っていた。澄午叔父さんはもともとこの土地の出身だった。澄午の両親、つまり宇音から見れば母方の祖父母は、まだ澄午が若いころ海で船の事故があって二人同時に亡くなったらしかった。宇音は幼いうちに母を亡くしたこともあって澄午以外には母方の親戚を誰も知らなかった。葬式も宇音の身内だけで行ったのだった。宇音には兄弟もない。つまり澄午や母と同じ血を引く者は、今では自分一人しかいないのではないか。
叔父の死と関連した秘密が、この土地に隠されているのなら、それは宇音自身が探り出さねばならないのだ。
そう思って宇音は、水瓶座治療院へ電話をかけた。
女性が応対に出た。
自分は尾島澄午の甥だが一度そちらを訪ねたいというと、しばらく間があってから相手は、院長がすぐ会いたいと言っていると告げた。これから行くと言って宇音は電話を切った。
距離はさほどでもないので歩いていくことにした。
九十九折の階段を昇ると治療院へ着いた。
黒い木枠にガラスのはまったドアを開けるとすぐ受付があった。
白衣姿の女性に宇音は名を告げた。
「院長がお待ちです。どうぞ」
スリッパに履き替えると、奥へと案内された。廊下を複雑に曲がった突き当りに〈院長室〉と書かれたドアがあった。
白衣の女がノックをしてドアを開けると宇音を招き入れた。女はすぐに戻っていった。
そこは青い絨毯の敷かれた広い部屋だった。窓からは芝生の植えられた庭が見渡せた。
執務用の机の周りには何枚ものレントゲン写真が吊るされていた。机の上には様々な色の薬品の瓶がきれいに並べられていた。
男がカルテに書き込みをしていた手を止めて宇音を見た。
太った大男だった。椅子を回転させ向きを変えるとギギーと軋んだ。肌は生白く、驚いて目を丸くしているような顔をだった。頭は禿げあがっていて、左右のこめかみに飾りのようにわずかに白髪が生えていた。
「君が矢内宇音くんか」
男は妙にかん高い声で聞いた。
「はい」
「私がここの院長、鰐淵類です」話すたびに顎の下の肉が、蛙の腹のようにひくひくと震えた。「叔父さんのことは残念だったね。私ももっと力になってあげられればよかったのだが」
「いえ、そんな」
「尾島澄午さんは、亡くなった時何歳だったかな?」
「四十二歳でした」
「ふむ、四十二といえば、もう若くはないね。彼、見た目は若かったがね、そうは言っても若さは失われていく。そうすると人は変化を受け入れられなくなるのだ」
「変化を……」
「そう、社会の変化、環境の変化、そして自分自身の変化を。結局、それが彼の自殺の原因だろう」
「それは、具体的にいうとどういうことなんでしょうか?」
「うむ……、いや、それは君にもいずれわかるだろう。君はまだ若い。若いうちは何でも学ばねばならんよ。変化を受け入れるためにね。変化について学びなさい」
「はい。あの、叔父はここへ来たことがあったんでしょうか?」
「ああ、一度だけ見えたことがあったね」
「それはやはり病気で?」
「いや、その時は見学ということでね。そうだ、君もここを見学していくといい」
「ええ……」宇音が答えた時、窓の外に人影が見えた。そちらに目を向けると、赤いガウンを着た、ひどく猫背の人物が庭を横切っていくのが見えた。「あっ、あれは?」
院長が振り向いた時には、もう見えなくなっていた。
「何だね?」
「今、窓の外に赤いガウンで、猫背の人がいて」
「ふむ、それはうちの患者かもしれないが、どうかしたかね?」
「いや実は、昨夜うちに泥棒が入ったんですよ。その泥棒に、服や体の感じが似ていたような気がして」
「ほう、泥棒がね。何か盗まれたの?」
「ええ、ノート・パソコンを一台だけなんですが」
「ノート・パソコンね。ふむ、ちょっと待っていてください」
鰐淵院長はギギッと椅子を軋ませて立ち上がると、がに股歩きで部屋を出ていった。
五分ほど待たされ院長が戻ってきた。手にノート・パソコンを抱えていた。
「盗まれたパソコンというのは、もしかするとこれかな?」
宇音が受け取ったパソコンを開いてみると、モニターの横に見覚えのあるパスワードの書かれた付箋が貼られていた。
「ええ、これです」
「それでこのことは警察には……?」
「まだ、知らせてません」
「そう、できれば穏便に済ませてもらえないかね。ほら、うちはいろいろ心に問題のある患者を抱えているものでね」
もともと警察とは関わりたくないと思っていた宇音だったが、相手が精神病院の患者じゃなおさら無駄だと思い返事をした。
「いいですけど」
「そうかね。壊れているようなら弁償するから、いくらでも請求してくれたまえ」
「ああ、べつに……」
「で、そうそう、見学だね。では案内するからついてきたまえ」
宇音は大男の院長の後について部屋を出た。廊下を何度か曲がり、防火扉のような金属のドアを抜けた。
そこは広めのロビーで入院患者らしい人々が雑誌を読んだりゲームをしたりしてくつろいでいた。全員が赤い色のガウンを着ていた。どうやら患者に支給される部屋着らしい。よく見ると赤というよりはシックなえんじ色である。月光の下だと赤紫に見えるのかもしれない。
ロビーを横切って歩いていると音楽が流れていることに気づいた。カーテンで仕切られた一角がありその中で音楽を聴いている人がいるようだった。その曲には聞き覚えがあった。叔父の寝室にCDがあったケチャ入りの環境音楽だ。
「この曲は?」
宇音は尋ねた。
「知っているかね」
「ええ、叔父の部屋で」
「ある種の音楽は人の心を落ち着かせるものでね。知り合いの音楽家に作曲してもらったものなんだ。君の叔父さんにもCDを差し上げたよ」
「そうでしたか」
奥にあるドアをくぐると大きな浴室のような部屋へ出た。激しく水の流れる音が響いていた。
浴槽の流れる水に、水着を着た太った女性が頭まで身体を沈めていた。この設備が叔父が改装した地下室にあったものとそっくりなことに宇音は気づいた。
「こうして流れる海水に身を浸すことは心身を健康にする効果がある。私が考案した治療法だ。地球上のあらゆる生命は海から誕生したことは、君も知っているね」
「はい」
「人間の身体のおよそ六十パーセントは水分で、その中には海水と同じ成分も含まれている。われわれは海から離れては生きることができないのだ」
浴槽の中の女性が水面に顔を出した。目を丸くして、下唇の突き出た口が空気を求めた。その様子は不気味な深海魚を思わせた。そしてその顔は院長とよく似ていた。そう言えば、この病院で見かけた人は皆、こんな深海魚のような顔をしているなと宇音は思った。受付の女性まで魚類系の顔だった。
菅野は、この病院にはある特殊な症状の患者が集められていると言っていたが、この顔つきは病気の症状と関係しているのだろうか。だが、そうすると院長自身も病気ということになるが。
「ここの人たちはどういう病気なんでしょうか?」
宇音は聞いた。
「いや、必ずしも病気というわけでもない。まあ心の問題とか人それぞれでね」
と鰐淵院長は何かごまかすようなことを言った。
宇音は家へ帰った。
書斎で持ち帰ったパソコンの電源を入れた。
正常に作動した。画像ファイルなども元のままのようだった。だが、一枚ぐらい削除されていてもわからないだろう。一応ゴミ箱を開いてみるが、中は空だった。それで何かがわかるわけでもない。
あの院長は「心に問題のある」患者が盗んだようなことを言っていた。だが院長自身がその指示を下した可能性もある。だとすればそれは澄午叔父さんがどんな情報をこのパソコンに保存していたかを知るのが目的なのではないか。
叔父もあの病院に興味を持っていた。一度見学に行き、もらったCDを寝室のプレーヤーに入れていた。そして地下室を流れる海水を浴びる設備に改装した。それは鰐淵院長が自ら考案した治療法だという。
何の治療なのか。そもそも目の前が海なのに、なぜ家の中にまでそんな設備を必要としたのか。
目の前が海なのに……なぜ、焼身自殺を……それはこの家の前で菅野と初めて会ったときに突き付けられた疑問だった。
わからないことが多すぎる。
そう思って、ぼんやりと本棚を眺めた。一冊の文庫本が目に止まる。『ラヴクラフト傑作選』、この土地で起こっていることを知りたければ読むといいと菅野に勧められた本だ。
宇音はそれを手に取り最初の作品「インスマスの影」を読みはじめた。
短編にしては長めだが、読み進めるうちに物語に引き込まれ、時間を忘れた。
この小説に登場するインスマスという土地の住人は、魚を思わせる醜い顔をしているという。その描写を読んで宇音は、あの病院の院長や患者たちの顔つきを生々しく思い出した。これはどういうことなのか。小説の中の出来事が現実に起こっている。ますますわけがわからなくなった。
インターネットで何か情報が得られないかと思いパソコンに向き合った。いつもの習慣で、まずメーラーを開いた。見ると新たなメールが一通着信していた。発信者はオンライン・ストレージを運営している会社だった。ネットを経由してデータを外部のサーバーに保管できるサービスである。
本文には、無料の試用期間がもうすぐ切れるので、契約を更新するならひと月以内に使用料を振り込むようにとあった。
メール内のリンクを踏むとストレージのログイン画面に行った。IDとパスワードを要求される。IDはメールに記されていたが、パスワードはわからない。試しにパソコンの起動時に使ったパスワードを入力してみるが、違う。
宇音は何か叔父が使いそうな単語はないかと考えてみる。ふと思いつき "aquarium" と打ち込む。
ログインできた。ファイルのリストが表示される。
アップロードされたファイルは一つだけだった。拡張子からすると動画のようだ。ファイル名は八ケタの数字なので、制作時の日付だろう。その日付は半年ほど前のもので、ちょうど叔父が仕事を辞めた頃だった。
動画をダウンロードした。ファイルを開くと、自動的にプレイヤーが起動した。
表示された画面は黒一色だった。
はじめはファイルが正常ではないのかと思ったが、よく見るとかすかに何かが写っていた。映像が上下に揺れると、夜空に浮かんだ雲が見えた。照明のない夜間に何かを撮影しているらしい。しばらく見ていると写されているのは海面らしいとわかった。時折激しく揺れるのは船の上から撮影しているためだろう。スピーカーの音量を上げると風の吹きつける音が聞こえた。
月光が射し始めたのか、画面が多少明るくなった。海面がきらきらと輝いている。画面の中央に穴のように黒い部分があった。そこに波にあらわれる暗礁があるのだった。カメラがズーム・アップし黒い暗礁が拡大された。何かが動いていた。生物の群れだ。
しかし一体これは……!?
蛙と魚の中間のような何かが岩の上にひしめいていた。波にさらわれて、また這い上がったりしている。よく見ると中には妙に人間じみた手足を持つものも混じっていた。
スピーカーからは「ハァハァ」という撮影者の興奮した息遣いが聞こえた。
しばらくすると、海が明るくなってきた。海中で何かが光を発しているのだ。おぼろな青とピンクの光が点滅していた。じょじょに輪郭がはっきりしてきた。何かが浮上してくる。ネオンサインのようなものが、円形に配置されている。発光するクラゲか。それにしても大きい。
暗礁の生物群も折り重なるように乗り出して、光るものを見つめていた。
そこで唐突に映像は終わった。まるで事態の異常さに耐えきれなくなったかのようだった。
これは一体何なのか?
暗礁で蠢いていた異様な生物。蛙と魚の中間のようなその姿態は、つい今しがた読んでいた「インスマスの影」に登場した《深きもの》そのものではないか。
さらに気がついたことがあって宇音は本棚から『「ポナペ経典」から考察した先史時代の太平洋海域』を手に取った。図版のあるページを探す。そこに掲載されていた銅版画は、やはり蛙と魚の中間のような生物だった。
病院の患者たち……ラヴクラフトの小説……そして、異様な生物の写された動画……この土地では一体、何が起こっているのか。澄午叔父さんは何を知ったというのか。なぜ自殺を……
電話が鳴った。
受話器を取ると、相手は菅野史郎だった。
「どうだね、何かわかったかい」
「何なんですか、あの動画は?」
「動画って、それは?」
「オンライン・ストレージに保管されていたんです。ラヴクラフトの《深きもの》みたいな生物が写ってる」
「ふむ、「インスマスの影」を読んだようだね。しかしそんな動画が存在していたとは」
「あなたは何を知ってるんです?」
「あの病院には行ってみたかね?」
「ええ行きましたよ」
「それじゃ、もう君の方が詳しいようなもんだな」
「そんな……」
「で、その動画とやら、見せてもらえないだろうか?」
「いいですけど、そのかわりあなたの知ってることを話してください」
「いや、本当に俺もたいしたことは知らん。ある政治家の不正献金疑惑を追っていたら、ここへ辿り着いちまったってだけでね」
「政治家の?」
「ああ、そいつはある宗教団体から多額の賄賂を受け取ってたって疑惑があってね。その団体の教祖がこの町の出身だったんだ。これが日本版の《ダゴン秘密教団》なのか何なのか。そこらへんはまだ何とも言えないがね」
「でも、じゃあ、叔父の自殺の原因は……?」
「それは、君が自分で見つけ出さなくてはいけないよ」
「そうですか」
「ところで、今夜、ちょっと出かけないか。面白いものが見られるはずなんだが」
「何です?」
「まあ、見てのお楽しみってね」
夜になって家の前へ菅野のLUV4が迎えに来た。
宇音が助手席に乗り込むと、菅野は空を見上げて言った。
「見ろ、今夜は満月だ。満月の夜にやつらは動き出す」
「やつらって?」
「もちろん、あの病院の患者たちさ」
言いながら菅野は手のひらを見つめていた。手は震えていた。彼はポケットから酒瓶を取り出して一口飲んでからハンドルを握り車を出した。
「ちょっと、飲酒運転じゃないですか」
「俺の場合飲んでた方が安全なんだ。それにこのあたりはめったに警官も来ないしな」
車は海岸沿いの道を走り、丘を登る別れ道の近くで停止した。ここで病院から降りてくる車を待つという。
宇音は、オンライン・ストレージのIDとパスワードを記したメモを菅野に渡した。菅野は車内のガラクタの山からノート・パソコンを取り出すと、電源を入れた。スマートフォンのテザリング機能でストレージにアクセスし、動画をダウンロードした。型が古いので完了までにやたらと時間がかかった。
その場で動画を再生した。菅野は黙ってモニターを見つめていた。
動画が終わると、彼はまた震えだした手のひらを見た。
「遠慮しないで飲んでくださいよ」
宇音は言った。
「この震えは飲んでも止まらんさ」
「えっ?」
「酒のせいじゃないんだ。恐怖だ、怖いんだよ」
「この動画がですか?」
「ああ、ラヴクラフトの他の小説ではクトゥルーの秘密を知った者は、必ず殺されることになっているんだ」
「それは小説の中の話でしょう?」
「ラヴクラフトは自分が見た夢を小説にしていたんだ。そしてその夢はクトゥルーが彼に見させていたんだ。クトゥルーというのは海底に眠る邪神の名だよ」
「それが実在すると……?」
「ああ、げんに《深きものども》は実在してるんだからね」
「だから殺されると……、じゃあ僕も危ないじゃないですか?」
「いや、君は……」
菅野は何かを言いかけてやめた。
その時不意に、宇音は叔父が自殺した原因がすっかり理解できた気がした。
坂道をマイクロバスが下ってきた。
菅野はRUV4のエンジンをかけた。尾行を気づかれない程度距離を置いてから発進した。
しばらくするとマイクロバスは砂浜へ降りていった。
RUV4を道路脇に止め、二人は徒歩で砂浜に降り、波打ち際に止められたバスに接近した。砂浜にうち捨てられていた廃船の影に身を隠すことができた。宇音は赤外線ライト付きの暗視双眼鏡を菅野から受け取った。菅野はヴィデオ・カメラをかまえていた。
バスのドアが開き、人影が降りてきた。暗視双眼鏡で見ると白く浮き上がった姿が見えた。バスを降りた患者たちは、ガウンを脱ぎ捨て、つぎつぎと海へ駈け込んでいった。その者たちの身体はすでに人間のものではなかった。皮膚は鱗に覆われ、手足にはひれ、首には鰓があった。十数体が沖へと泳ぎ去ると一人残された運転手がガウンを回収し、バスを波の届かないところまで後退させた。その運転手も深海魚のような顔つきだった。
「隣町の漁師の話だとこの沖に大きな暗礁があるそうだ。たぶん、あの動画の暗礁がそれだろう。やつらそこまで泳いで行って明け方まで戻らない。もとは人間だったやつらが《深きもの》の仲間になるための訓練でもしてるんだろうよ」
「そんなこと調べてどうする気なんですか?」
「公開するのさ。世に知らせるんだ。俺もジャーナリストとしちゃ三流もいいところだが、やっとつかんだ特ダネだからな」
「菅野さん、僕と初めて会ったとき、名前が宇音と聞いて驚いていましたね。字をどう書くんだって」
「あ、ああ、そうだっけな」
「あれ、ウオトと聞いて、字がサカナにヒトで魚人だと思ったんでしょう?」
「ああ、まあな」
「じっさい母はそのつもりで僕にウオトと名付けたのかもしれない」
宇音は一人歩いて家まで帰った。
菅野は患者たちが海から戻るところも撮影すると言って砂浜に残っていた。
「君は自殺なんかするな」
別れ際、彼は宇音の腕をつかんでそう言った。
地下室で宇音はポンプを作動させた。裸になって流れる海水に体を浸した。
そうしていると緊張がほぐれて、落ち着く気がした。体を確かめてみたが、どこにも魚のような特徴はあらわれていなかった。
澄午叔父さんの体は変質が始まっていたのだろうか。だから自殺したのだ。それも焼身自殺を。海へ飛び込めば、そのまま魚人間になってしまったかもしれない。叔父はそれを恐れたのだ。
鰐淵院長は、叔父は若くないため変化を受け入れられなかったと言っていた。そして、若い宇音なら変化を受け入れられるだろうと。
それはいつなのか。叔父と同じ血を引く自分の体に、変化が現れるのはいつなのかと、宇音は虚しく問いつづけていた。
その翌日、矢内宇音は壺ヶ浦の海岸で、首を切断され、肺を抜き取られた死体で発見された。
予告
最終話「海への供物」
――旧支配者ハ実在スル!
公開中