【前夜】
闇の中で、かれは身じろぎした。
うっすらと瞼を開け、そのホワイトオパールの瞳をほんの少し覗かせた。
身体を這い回る生きた鎖は気持ちのいいものではなかったが、かれは、それらと己を隔てるごく薄い膜で全体を覆って直接触れさせぬようにした。
待っているのだ。かの人を。
べつだん、こうして捕らわれてやることもなかったのだが、守ってやってほしいと言われたあの少年を見た時、かれは首を傾げたものだ。
――奇妙なことになっている……
おそらく、あの少年を助けてやることは容易いだろう。それは少年を消滅させることに他ならない。
かの人は、彼の消滅を望むか否か。
――答えは解っている。それに、あの慕わしい者にこの鎖を解いてもらうのも、一興かもしれぬ……。
かれは内に浮かんだその考えに、幸福感をおぼえた。
――――だから、待っている。
そして再び、煌めくホワイトオパールの瞳は瞼に隠された。
※
彩色玻璃から洩れる月光が室内を不思議に彩って、床に反射した薄い赤や緑が、堂室の調度品をぼんやりと浮かび上がらせる。テラスに続く玻璃扉は青白い光を室内に運び、淡い光が交差して幻想的な空間をつくりあげていた。
静謐な、天蓋から垂れ下がる薄布の寝台に起き上がり、じっと手元の剣を見つめていたハナは、月光の翳りにふと顔をあげた。
「……なっ……」
そこにありうべからざる人物を見出し、思わず声をあげそうになったのを慌てて抑えた。
堂室の中央に佇む長身が、足音も立てず寝台に近づいて、さらりと薄布を開ける。群青の髪と青銀の目を持つ若い男の顔が、少し悪戯っぽく微笑って彼女を見た。
「さっ……参謀長官殿! どっ……どっから……ていうか、どうやって……!?」
ハナに与えられた部屋は神殿の上階に位置する。宰相は人差し指を唇にあてると、反対側の手でテラスを示してみせた。――つまり、忍び込んできたのである。
ハナは何度か口をぱくぱくさせ、呆れ果てて溜息をついた。
「……貴方もたいがい、宰相らしくないね……。普通、地位あるひとは窓を出入り口にしたりしないもんだよ……」
「そうか? 祖国ではよくやっていたがな。警備の目をすり抜けるのは得意なほうだと思うが」
当の本人はけろりとして言ってのけ、口の中で何かぶつぶつ言っているハナの傍らに腰掛けた。そして彼女の手元にある剣に目をとめた。
「……それは?」
「え? あ。青慧さんが持たせてくれたんです……伝説の、建国王が竜王から賜った剣だそうです……。青慧さんは魔法の剣だと言ってました」
ハナの言葉に宰相は目を見張った。ありありと浮かんだ疑心の色に、思わず苦笑したハナはこの剣を持ったときのことを話して聞かせた。
「なんだか青慧さんにかかると、どんな不思議なことでも当たり前みたいな気がしてきます……」
「同感だ……」
頷いたあと、宰相は異邦の女をじっと見つめた。
手元の剣に目を落としている白い顔に怯えはない。淡々とした表情の奥で何を思うのか、彼に量ることはできなかった。
「……不安ではないのか?」
訊いてきた宰相に、ハナは笑った。
「今から不安を感じても仕方ないでしょう。……でも、まったく無いと言えば嘘になるけど……あの竜があの子と会えてくれていればいいんですけど……」
「私が言っているのはそのことではない」
宰相はいくぶん強い口調で遮った。
今日、自分が非礼を承知で忍び込んできたのは―――
「ハナ。少しでも物見遊山の気持ちがあるなら、ホウライヌへは行くな。暗黒世界は……そなたが考えている以上に恐ろしい所だ」
ハナは、宰相の生国が暗黒世界の影響を真っ先に受けていることを思い出した。
緑の豊かな美しい国だったと言っていた。それが今や深い霧に覆われ、前の宰相は冷遇され、国王の心気も定まらぬとか……。その瘴気にいつ侵されるか――否、知らぬ間にこの身に入り込んでいるかもしれないのだ。
「ありがとうございます。でも、やっぱり行かなくちゃ……でないと、ここに引っ張り込まれた意味がないと思うし……」
宰相は深く長い溜息を吐き出したあと、ハナの肩にとまっている小さなドラゴンに目を遣った。
シュリーマデビイは二人の会話を邪魔しないよう静かにしていたが、彼と目が合うと金色の目を煌めかせて、ぴったりとハナに寄り添うようにした。――まるで、それは 「このひとから絶対離れないぞ」 という意思表示のようにも見えた。
「……シュリーマデビイ。お前は……」
宰相が言い差した途端、小さなドラゴンはかっと口を開けて火炎を噴いた。
「わっ!」
肩先から噴出された火の玉に仰天したハナが思わず仰け反る。
「シュリーマデビイ。気炎を吐くな。ここは火気厳禁だ」
宰相のげんなりしたような言葉に、シュリーマデビイは不満げに喉を鳴らすと、勢いよく鼻息を吹きだした。
「…………まあ、そうだろうは思ったが……」
呟き、形良い顎をつまみながら考え込んでいた宰相は、吐息をひとつ落とした。
「ハナ。シュリーマデビイを連れて行け」
「えっ!? でもこの子は……」
「そうだが、無理矢理そなたから引き剥がして、城に癇癪球をぶつけられても困る」
冗談だか本気だかわからないようなことを生真面目な顔で言われても、こちらのほうが困るのだが。
彼はその真面目な顔つきのまま、こう言った。
「私が許可を与えることはできぬ。だから、この件について私は関知しないものとする。……シュリーマデビイ。戻った際に咎めを受ける覚悟はあるか?」
碧のドラゴンはふんっと鼻息を吹き出し、胸を張ってみせた。
「シュリー……」
「いいだろう。国を出るまでは大人しく隠れていることだ。……それと、ハナ。少し気になることがあるので伝えておく。海門までの道中に気をつけろ。貴族どもが何やら画策しているらしい」
「……はい」
「青慧殿が海門までの護衛を吟味しておられる。そなたに同行する藍華という女官も手練だときいた。ちんぴら程度でどうこうされることはないだろうが、油断はするな。……殺しを生業とする者も存在する。己の手を血で汚さねばならぬ状況もあることを、肝に銘じておけ」
一瞬、ハナの肩がビクリと震えた。彼を見上げた目に、初めて怯えが浮かんだのを見て取った宰相は、真っ直ぐそれを受け止め、彼女をそっと抱き寄せた。
「……青慧殿がその剣を持たせたのはどういうことなのか、よく考えろ。……這ってでも、生きて帰れ。待っている」
腕の中で、ハナが大きく呼吸し、はい、と頷いた。宰相は身を離し、彼女の頬を両手で包むとそのなめらかな額に唇を落とした。
「明日、私は見送りには行けぬが、成功を祈っている」
頬を赤くしているハナに柔らかな笑みを向け、宰相は来たときと同じに音も無くテラスから消えた。
「………………うぅ。あの人、天然のタラシじゃないのか……」
真っ赤になって額を押さえ、うめくように呟いたハナの言葉に吹き出したのか、ドラゴンが小さく喉を鳴らした。
神殿の数階上から、テラスの手摺を足場にして飛び降りてきた宰相ターガナーダは、羽が舞うようにふわりと地に降り立った。ハナのいた堂室のテラスを見上げると、隣室の主――否、この神殿の主が微笑みながら彼を見下ろしていた。
(やはり気付かれていたか……)
苦笑して一礼すると、神祇官長もそっと一礼を返した。宰相は身を翻し、王城へと足を向けた。
―――此処へシュリーマデビイを置いてはいけない。
昼間、宰相の執務室に忽然と現れた青慧が言った。
「お国から、お呼び出しがきておりますよ」と――。
口を開きそうになった宰相を、神祇官長はしっと人差し指をあてて黙らせた。執務室にいる官吏たちは、驚いたことに誰も青慧に気付いていない。呆気にとられて再び彼に目を向けると、
「ひとつはお国の、神官長なる者から。シュリーマデビイを返せというもの。いま一つは、前宰相・バーダバグニから。自分はいま反逆者のパドマバラの人質となっている。助けてほしければ貴方を国へ呼び戻せと迫られている、というものです」
青慧はにこにこ笑いながらこう言った。
「ね。言ったとおりでしょう。恩は高ぁく、売るのですよ。宰相」
そして、ふっと掻き消えた。
「まったくあの方は……」
何度目かになる呟きを洩らした宰相は足を止めた。
あのパドマバラがバーダバグニを人質にとる? 一体、何の茶番だ。――これが、この一件だけなら本当に茶番だと思っただろう。だが、シュリーマデビイを戻せと言ってきているなら話は別だ。
「……勝手なことをほざく……」
吐き捨てるように呟いた。
自分を水華蓮に放り出す際、己らはあの小さな者を籠に閉じ込め、厄介払いとばかりに押し付けたのではないか!
ターガナーダの口から苦々しい言葉がこぼれ落ちた。
「……宰相……。貴方の言うとおりだ……。ローブミンドラの荒廃は、あれの一身に具現されているのだ……」
「――結果、王の血を引くたったお一人の皇女は、竜身となってお生まれになった。王妃殿下はあまりのことにお心を煩い、数日後にお亡くなりになりました」
ローブミンドラ文書館館長は、重い吐息とともに吐き出すように言った。
初めて聞く事実に、ターガナーダは言葉もなく前宰相を見つめた。バーダバグニは強い光を目に宿し、真王たるべき青年を見据えた。
「姫様のお姿は憚りながら、真王たちの呪いなどと言われておりますが、果たしてそうなのでございましょうか?」
「……どういうことだ?」
「考えてもごらんなさいませ。ローブミンドラ王国は竜王の一族の地でございます。そう掲げておりながら、何ゆえに竜王の似姿で生まれた者を忌むのでしょうか? 数百年前にウバラよりお生まれになった皇子がありました。幽閉されたのち水華蓮の宰相として赴き、かの地で生涯を閉じられたようです。――これは水華蓮の文書に記載されております。こうしてまことの王をないがしろにしてきた……わたくしは、それこそがローブミンドラの荒廃の因であり、結果として皇女殿下が竜身となってお生まれになったのだと、確信しております」
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