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  虚空の鑑 作者:直江和葉
【再往】

 暗い空の向こうに鈍い光が見える。目を凝らすと裂け目のような闇が見えた。そこにさまざまなモノが吸い込まれる時、ねじられるように消える。鈍い光はその瞬間にうまれるもののようだった。
昼も夜もない闇が支配する世界――形を持たぬ者どもがのたうつように蠢く。あたるを幸い、目の前のものをすべて飲み込み、また、飲み込まれ、ますます闇を濃くしてゆく。空を徘徊する不気味な怪物が吐き出す赤黒い火炎が下をほの暗く照らす。怪物の大群の影は闇をさらに深くし、吐き出される火炎は不吉な赤い星がいくつもまたたくように見えた。ゆらゆらと揺れていた巨大蕨がいきなり虚空へ伸び上がる。けたたましい鳴き声とともに引き摺り下ろされたのは火炎を吐く怪物だった。巻きつかれた怪物は蕨の表面を覆う鋭い針に貫かれ、みるみるうちに干からびていった。巨大蕨はぶるりと全身を震わせると、またゆらゆら揺れ始めた。

 竜樹は眉をひそめた。
延々と繰り返されるそれは、空を飛んでいるかのように見える怪物でさえ、およそ生の躍動感というものが欠如しており、無機質な運動はかえって不気味さを増す。まるで生きているかのように振舞っている――違和感。
そう――そこは何もかもが異質だった。
「あれはおんしが呼んだのか?」
あの男が言った。白竜のことだろう。
「知らない……僕は呼んでない」
「ふうん。ああも簡単に捕らわれるとはの……白竜王かと思うたが、違うのか……まあよい。おんしは我と共に居るがよいぞ。いずれ、目の前に四竜王を並べてやろう」
「四竜王……?」
あの男に言質をとられぬように固く口を閉ざしていた竜樹だったが、聞きなれぬ言葉に思わず問い返す。
「そうとも。青竜、白竜、黒竜、赤竜の四竜王じゃ。……おんしとは(えにし)深き竜王たちではないか。忘れたとは、薄情なものよの」
男は竜樹の返事も聞かず、くつくつと笑った。


     ※


 雪は止むことなくしんしんと降り積もっている。
「兄さん! もう!」
ハナは窓から身をのりだして空を凝視している尭の腕を引っ張り、中に入れた。窓を閉める前に自分も空を見上げてみるが、重い灰色の雲と落ちてくる雪だけで変わったものはなにも見出せなかった。しっかりと鍵をかけ、ごていねいにカーテンまで閉める。
「……暗いな」
低い呟きに電気をつけ、バスタオルを突きつけた。
「いくら兄さんが丈夫でも、いつまでも雪に濡れてたら風邪ひくでしょっ!」
憤然とした妹の言に苦笑してバスタオルを受け取った尭を、ハナは心配そうに覗き込んだ。
「……ねえ、何か見えたの? なんか嫌なもの?」
尭は頭を拭いていた手を止め、ハナを見つめる。

 昔から、この妹だけは自分の不可思議な能力を怖がらなかった。両親も祖父や祖母、近所の子供も、すべてを言い当ててしまう自分を怖がり、気味悪がった。
『兄ちゃん、かくれんぼしよう。兄ちゃんがオニさんね』
そう言って返事も待たず、小さな妹は楽しげに走っていく。
ハナのお気に入りの遊び。どこに隠れても必ず見つけてしまうから、必ず最初はオニをやらされた。
なぜかくれんぼが好きなのか、一度聞いてみたことがある。すると三つ年下の四歳になったばかりの妹は、はにかんだように笑ってこう答えた。
『だってどこにかくれても、兄ちゃんは、ぜったいハナを見つけてくれるから。……ねえねえ、もしもねえ、ハナがすっごいすっごい遠くに行っても、兄ちゃんにはわかる?』
『わかるよ。外国にいたってわかる』
返ってきたのはこぼれるような笑顔だった。
あの時の気持ちをなんと表現したらいいのか、この年になってもわからない。ただ、あの瞬間に生まれた思いは今も変わることなく、彼の中心におさまっている。
己が全身全霊をかけて守らなければならない存在――。

 空に走った不吉なもの――それは、まるで悲鳴のように感じた。ねじれ、歪みながら翻弄される空の悲鳴。
尭は手を伸ばし、ハナの髪をなでた。彼女はくすぐったそうに笑いながら、なあに? と問いかけてくる。
「……ハナは、どうしたい……?」
兄の言葉に、彼女は一瞬はっとしたように口をつぐむ。が、このひとに嘘や誤魔化しは通用しないと知っているハナは、意を決して顔をあげた。そのとき。
ピンポーンピンポーンピンポーン
軽快に鳴らされたチャイムに思わずビクリと肩をふるわせる。
こんな大雪の日に誰だと思いながら慌てて玄関に走り、覗き穴から見てさらに仰天した。
「亮兵!」
「よう。遊びに来たぜ」
腐れ縁の友人が軽く手をあげ、笑っていた。

 「いやあ、まいったまいった」
そう言いながら靴をぬいであがってきた亮兵は、ほれ、とコンビニの袋をハナに差し出した。ジュースやお茶類、惣菜パンやお菓子がどっさりと入っている。どうやら今日はここに篭城するつもりらしい。
「ありがとう! ……コンビニ、開いてたの?」
「商売根性だよなー。でもけっこう客いたぜ? あ、尭さん。こんちわ」
「いらっしゃい」
尭はにこりと笑って妹の友人を迎えた。
ハナが温かいコーヒーを淹れている間、青年二人はああだこうだと楽しげに話している。珍しく気が合っているらしい。二人とも共通して他人と距離を置こうとする傾向があるため、親しい友人と呼べる人間はそう多くない。
(あ。でも、そういえば、亮兵は兄さんと初対面のときから平気そうだったっけ……)
だからついつい兄のことをあれこれ話してしまうのだ。
「……ハナ? 何ボーっとしてんの?」
いつまでもコーヒーを持ってこないのを怪訝に思ったのか、亮兵は物思いに耽っている友人を覗き込んだ。
「あ、ごめん。……亮兵、ここまで歩いてきたの?」
「そ。雪をかきわけて」
青年はコーヒーの盆を持って戻りながら頷く。
この雪のせいでインターネットに繋がりにくくなっており、仕事を放棄した彼は、退屈なので出てきたのだそうだ。
「電車は止まってるし、車も進みゃしないだろ? こりゃ歩いたほうが速いかなって思ってさ。……あれ? どーでもいいけど機種変更したのか?」
ハナのショルダーバックに差し込まれている携帯電話に気付いた亮兵が訊ねた。むにゃむにゃと歯切れの悪い返事に、尭がくすくす笑った。
「携帯を入れてたポケットには香水が入っててね」
「兄さん!」
「香水?」
目を丸くした亮兵はハナのほうへ目を向ける。珍しく赤くなってむっつり黙り込んだ友人を見つめ、「へえ」と呟き、
「どんな香水?」
意地悪そうな笑みを浮かべて身を乗り出した。
口をへの字にまげてしまったハナの代わりに、尭は簡単に説明してやり、箪笥の上に置かれていたその木箱から香水瓶を取り出した。
「に、兄さん、開けないで!」
「わかってる」
慌てたように叫ぶ妹に頷いてみせ、尭は亮兵に尋ねた。
「例えば、嗅いだだけで意識を失ってしまうような香料なんてあるものかな……?」
嗅いだだけで気を失ってしまうような香料……?
しばらく考え込んでいた青年は、首を捻りながらいくつかの可能性を指摘する。
まずは、この香水に使われている精油にアレルギー反応を示したというもの。あるいは、こちらの人間には合わない成分が含まれていたというもの。だが、これについては尭が香りを確認しており、まったくもって何の症状も出てこなかったため、可能性は低いかもしれない。また、こういったものは体調や精神状態にも少なからず影響を及ぼすため、ハナが倒れたのもたまたまそういった条件が重なった、とも言えなくもないのだ。
「……精油を使っての催眠療法ってのもあるし……どれかの成分がハナの神経系にダイレクトに作用したのか……」
「香水って、そんな作用もあるの……?」
「ん、ああ。匂いって記憶と密接に結びついてるだろ? ある匂いを嗅いだとたんに忘れていた一連の記憶が浮き上がってくるとかさ」
記憶……。
唸ってあの時のことを思い出そうとしてみるが、これといって自分の記憶が蘇ったというものはない。ただ、あの香りを思い出そうとすると必ず青銀の煌めきが蘇るのだ。
(……つまり、これって、すでに香りと一緒に記憶されたってこと?)
華麗な模様、繊細な彫刻を施された小さな瓶を見つめ、溜息を吐き出す。おそらく、一生こうやってあの時のことを思い出すのだろう。香りを忘れてしまうまで―――
ん? ちょっとまて。
「もしかして、こっちの世界で嗅いでみると何ともないってこともありうる?」
「なきにしもあらず……じゃないか? 試してみるか? 尭さんがいる今のうちに」
それはどういう意味だと思いながら、ハナが香水瓶を見つめ兄を見つめ、また香水瓶に目を戻し……恐る恐るその華奢な蓋をつまんだときだった。
「待て、ハナ! 何かくる!」
初めて聞く兄の切羽詰ったような声音に顔をあげる。反射的に玄関へと振り向き、彼女は息を飲んだ。
「なんだ、あれ……?!」
亮兵が呟き、玄関の表面に出現したそれを凝視した。それは徐々に大きく広がっていき、星の流れる空洞をあらわした。
「あっ……」
ハナの腕がぐいと引っ張られる。
「ハナ!」
尭が慌てて妹の胴に腕をまわし、引き寄せようとした。それへ亮兵も加わり、彼女を引き戻そうとするが、凄まじい力でズルズルと玄関へと引きずられていく。
家具を掴もうとしたが間に合わず、手に触れたものを握ったのだがもろとも引き寄せられてしまい、次元の穴は三人の目の前に迫った。
「おいおい、冗談じゃないぜ!」
亮兵が毒づき、ありったけの力でハナを引き戻そうとする。尭のほうも必死で妹を戻そうとしていたが……

 ―――ハナ!

声が聞こえた。
三人は一斉に穴の奥を注視した。だが、目に見えるのは縦横無尽に走る星の河だけだった。
「たっく……」
夢の中で何度も聞いたその声――ホウライヌの暗黒世界に閉じ込められているらしい、従弟の声。
両足が流れにつかまれた。途端、凄まじい力がハナを引き寄せた。
「うわっ!」
誰があげた叫びだったのか……。
ハナにしがみ付くようにしていた二人の青年は、次元の穴から弾き飛ばされ、ハナは星の河に放り込まれてしまった。
「ハナっ!」

必ずもどるから、まってて……

急速に遠のく彼女の声。そして見る間に、その姿も星の中に消えてゆき、穴は渦を巻いて収縮していった。
元のドアがあらわれてもしばらく、亮兵と尭は呆然と佇み、それを凝視していた。
「……因果なものだな……」
彼の低い呟きは、傍らに立っていた青年には届かなかった。





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