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にらめっこ

作者: だいふく

 電車に乗っていたときの話である。

 その日はちょうど大学入試の帰りだったのだが、朝から行われていた試験から開放されて羽を伸ばすようなこともせず、私は一人で自宅に向かうところであった。

 この路線は、普段私が学校に通うときに乗っているもので、今日は受験帰りの高校生がやけに多く、普段の満員電車と比べると些か居心地の悪さを感じていた。満員電車に快適さを感じたことなどないのだが、習慣化しているとそれが突然失われた際にはどこか悲しいものであるらしい。

 さて、大学入試とはいっても、私は既に浪人を決めた身である。高校三年間の生活で勉強に費やした時間など雀の涙ほどであり、そんな私が現役で大学に行こうと思うとまともな選択肢がなかったため、親に頼み込んで一年間の猶予を得ることに成功し、取り敢えずは受験会場の雰囲気を掴む為にこのようにして入試を受けるだけ受けているということになる。今日の車内が居心地悪く感じるのは、もしかするとそういう「他の乗客との意識の差異」というのがあるのかもしれない。

 別に地頭は悪いわけではないと自分では思っている。私が通う高校は全国で百校挙げろと言われれば恐らくはその中に入るであろう進学校である。そんな学校に私が入れたこと自体が奇跡に近いものなのかもしれないが、しかし私がそこの生徒だという事実は変わりない。私が浪人を決めたのも、同級生が難関大学や医学部を受験する者ばかりだったので私一人だけ聞いたこともないような大学に進学するのは嫌だった、ということも理由の一つにはある。

 左手で吊り革を掴んで、右手で文庫本を広げて読んでいると、視界の端にベビーカーが映った。ドア際のスペースにつけるかたちで置かれたそのベビーカーの中には、一歳くらいであろう男の子が座っていた。横ではお母さんが立ったまま瞼を閉じたり開けたりしながらまどろんでいる様子が窺えた。

 一度気になってしまうと目が離せなくなってしまう性分である。私は読みかけの文庫本に栞を挟んで鞄の中に仕舞い、男の子を見た。ちょうどそのとき男の子がこちらに顔を向け、真っ黒な澄んだ瞳でこちらを見つめてくるではないか。なるほどこの年頃の子供は辺り一帯のものに興味を持つものだと心の中で思った。

 それにしても、男の子は全く目を逸らそうとしないのである。私も意固地になって男の子の目を見つめるので、あたかもにらめっこの様相を呈してきたではないか。

 私としても十七年早く生まれただけの矜持があるし、簡単に一歳児に負けたとあっては我が家の恥さらしである。ここは退けぬとばかりに男の子を睨み返してやった。しかし男の子は私の目を見つめたきり石のようになってしまって動こうとしない。こうなってしまえばにらめっこというよりも最早我慢比べである。

 二分もそうしていると、段々と周りの視線が気になってきた。十八ともなればアダルトな本や映像作品を購入する権利を持っているわけで、世間的には一端の大人である。そんな男が電車の中で一歳の男の子を穴が空くほどに見つめて――見ようによっては睨んでいるようにも取れる――いるのである。母親の意識がしっかり覚醒していれば私は不審者としてお縄を頂戴することになるかもしれない。そう考えると突然、この男の子と我慢比べをしているのが怖くなってきた。

 そういう気持ちになってくると、相手の男の子のことも少し不気味に思えてくるのである。まるで黒真珠を嵌め込んだかのようにさっきから全く動かない瞳は、まるで私の内面をサトリとかいう妖怪の如く見透かしているように思われた。私が浪人するであろうことも、この車内で居心地の悪さを感じているということも、昨晩の夕食であったトンカツが期待よりも薄かったことに不満を抱いていることも……。そう考えると、私はこれ以上この男の子と我慢比べをしている精神的余裕がなくなってきた。

 早速私は、男の子から目を逸らさないようにしながら鞄から文庫本を取り出して、そのページを開いた。そしてあたかも何もなかったかのように視線を印刷された文字に滑らせた。

 するとちょうど、寝かかっていた母親がふと目を開けてベビーカーを引いた。それで私は、電車が駅に着いたのだと気付くことになったのである。

 母親は何事もなかったかのように車両から降りた。そのときに微かに見えた男の子の顔は、勝ち誇ったかの如く口角がつり上がっていたように見えたのは、きっと私の錯覚に違いない。

 八割五分くらいは先日の出来事であり実話です。

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