二章 『真っ赤な空を見ただろうか』
橙色をした太陽が、暮れなずむ町並みを照らす。そこそこに活気のある商店街。軒を連ねる魚屋や八百屋に、規則的に植えられた街路樹が鮮やかな影を映し出している。
俺の歩く数歩先を、日比野が先行していた。さきほど食べた巨大なパフェにご満悦なのだろう、歩調はかなり軽快だ。リズミカルに刻まれるテンポに合わせ、金髪が上下に揺れる。
俺は、財布の中身に思いを馳せる。先月のバイト代がまだ結構残っていると思っていたが、実際は千円札が二枚と、小銭が少々。今月もまだ十日近く残っているのに、はたして持つのだろうかという不安が頭をよぎった。そして次に訪れるのは、後悔。どうしてさっき右のカードを引いてしまったのだろうという類の。
「君が右を引くということはわかっていた。――いや、むしろ右を引くように誘導したのだよ」
俺の前を歩いている日比野は俺の心を読んでいるのかのごとく、そう言い放つ。
「お前は人の心が読めるのか」
「そうじゃない、司の考えが読みやす過ぎるのだ。今、物憂げに溜息をついていたら、誰だってさっきの勝負を悔いているのだろうと推察できるじゃないか」
「それもそうだが、ババ抜きもだよ」
「――ああ。まぁ、あれだけゲームを重ねれば、相手の手を読むなんて私にとっては朝メシ前。プーヤンの一面くらい簡単だ」
そんな伝説のギャンブラーみたいな科白を吐きながら、日比野は右足の踵を軸にくるりと回る。
とんだ大言壮語だ――とはとても言えない勝負強さを彼女は持っている。
二人でボーリングに行けばそこでのプレイ料金を賭けて勝負。
ビリヤード場に行けばそこでもまた代金を賭けての勝負。
数々の勝負をこなしてきた、俺だからわかる、彼女の強さ。
無敵、といってもいいほどの勝率で、彼女は俺を下してきた。
さらに性質の悪い、とでも言えばいいのか、彼女はあまり圧倒的には勝たない。先ほどのババ抜きでもそうだったように、俺に追い詰められるような事もしばしばある。が、決して負けない。追い詰められたように見せているだけで、さらに奥の手を持っているのだ。
(先日のビリヤード勝負は酷かった。偶然に玉の配置も俺に味方して、絶対にこちらが買ったと思ったのに、最後の最後で彼女は玉をジャンプさせるといった高等なショットをやってのけたのだ。それまでは一度も使わず、使えるような素振りすらみせなかったのに)
そんなこんなで日比野があまりにも強すぎるものだから、俺のバイト代のほとんどは、彼女との交友費に消えていく。それを俺が残念に思うかと聞かれれば――そんな事は無かったりするのだが。
日比野響。彼女は唐突に振り返ると、俺が見ていたことに気づき、破願した。
金色のショートカットヘアが、夕日を反射し絹糸のように照り映える。普段は吊目がちだが、笑顔によって細められた目は、えもいわれぬ可憐さをたたえていて。丸く、小さめの鼻の下にあるさくらんぼのような唇が、魅力的な曲線を描いた。
「どうした。あんまりじっと見つめられると、照れる」
冗談めかしてそう言う彼女を見ながら、俺は自分の心を再認識する。――それは今まで何度も意識してきた感情。日比野がそばに居るだけで、いつもほんの少しだけ息苦しくなるような感覚の、その原因。多分、分かっている。それが何なのか。
だけど伝えない。伝えられない。それは俺が臆病者で、日比野に拒絶される事が耐えられないのだという事もあるが、それよりも『卑怯』だからだ。今、彼女に自分の気持ちを伝えることが。
きっと今告白すれば、彼女は受け入れてくれると、思う。それは希望的観測でも、うぬぼれでもなく、恐らく事実として。
でもそれは、彼女が俺に好意を抱いているという理由では決して、無い。
ただ彼女が優しいから、自分に同情してくれるのだという、それだけの理由だ。
それは、駄目。
それだけは、駄目。
彼女が自分に与えてくれる優しさに、つけこむような真似だけはできない。
だから、
「いや、頭に桜の花びらがついてるぞ」
「何、どこでついたのだ」
「多分、さっきのファミレスの横にあった桜だと」
「むぅ。ずっと見えていたよな、何故取ってくれなかったのだ」
「桜餅みたいだなーって思ったから」
「……それを褒め言葉として受け取っていいのだろうか?」
そんな言葉で、誤魔化した。
ひとしきり談笑していると、ふと、日比野が俺の頭を指差して、言い出した。
「そういえば、君、随分と髪が伸びたな」
「そうか?」
「うん。下手したら私よりも長い気がする。前髪が目にかかっていて、見づらくないのか」
「別に不便を感じたことは無い、な」
「そうか。しかし、見ているこっちが鬱陶しい。切るんだ」
「断る。これは別に無造作に伸ばしている訳じゃない。俺なりの試行錯誤があってこの髪形に至ったんだ」
「……ほう? 私は君が"わかめ頭"などと不本意なあだ名をつけられないために親切心からしてやっている忠告を聞けないというのか」
「なんだその安直なネーミングは。今日び小学生だってもうちょっとマシなあだ名をつけるだろ」
「安心しろ、ちゃんと私が浸透させてやるから」
「あれ? 親切心はどこへ行った?」
そして日比野は何かを考えるかのように視線を彷徨わせると、突然右手を握りこぶしにして、左手の掌に打ちつけた。もはや漫画でも絶滅危惧種認定をされかねない、典型的な『何かを閃いたポーズ』だ。可能ならば彼女の頭上に豆電球が発光するエフェクトが追加されたに違いない。
「よし、勝負をしよう」
その言葉は俺の想定外の範囲外、――つまり予想通りだった。
「内容を聞くだけ聞いてやるよ」
俺がそういうと、日比野は左手を腰にあて、右手の人差し指を空中でくるくると回しながら、俺に内容を説明した。
「つまりだな、明後日は日曜日だ。そこで君の頭髪を賭けて勝負をしよう。私が勝ったら君には散髪に行ってもらう」
言い終わると俺に指を突きつける。より正確に言えば、俺の髪に指を突きつけている。オーバーアクションな奴だ。
「……俺が勝ったときのメリットが何も無いんだが?」
多分、俺はその提案に乗ることになるんだろう。――内心ではそう思いながらも、表面上は渋ってみる。
「そうだな……よし、君が勝ったら、何でも一つ言うことを聞いてやろう」
日比野はそういうと、にんまりと笑う。その提案は俺には願ったり叶ったりだったが、一応確認してみる。
「いいのか、エロい事させるぞ」
随分とストレートだが、俺は冗談めかしてそう尋ねる。それに対する日比野の反応も、ほぼ、予想通りだった。
「問題ない。毎回言ってると思うが、どうせ私が勝つ勝負だ。それに――」
そこで日比野は言葉を切った。
俺はその言葉の続きを待ったが、何時まで経っても彼女から言葉が紡がれる気配が無い。目線で続きを問いかけるも、日比野はゆっくりと首を左右に振り、
「いや、なんでもない」
そう、言った。
「……勝負内容はどうする?」
「君が決めてかまわない。今月はピンチみたいだからな。精々金が掛からない、それでいて面白いゲームを用意しておいてくれ」
どんな種目でも負けるわけが無い。そういった彼女の自信が透けて見える発言だった。
きっとこれが、日比野なりの、気の使い方なのだろう。そういった彼女の心遣いは、正直に言えば嬉しかった。まぁ、髪形に関してはさっきも言った通り、俺なりのこだわりがあるので、それを切る、というのは少々憂鬱だったが。
「それで、どうするつもりだ」
日比野が俺に訊く。何をだ、と返すと、
「お願いの事だよ。君が、勝った場合の」
そう続けた。俺はその質問に表面上は考える素振りをする。恐らく日比野が言うとおり、日曜日の勝負は彼女が勝つことになるだろう。だからあまり身が入らないまま、俺は答える。
「よし、それをやめてもらおうか」
「それ、とはなんだ」
「とぼけるなよ。俺の指の先を見ろ」
「爪が伸びているな。キチンと切らないと、生爪を剥がすぞ」
「そうじゃねぇよ」
「私の目の錯覚でないのならば、君は私の下半身を指差しているように見えるが」
「そういうと何か生々しい感じがするな、おい」
「つまり女を辞めろというのか」
「そんな事は頼んでません。埴輪だよ、埴輪」
そう、日比野はスカートの下にジャージの長ズボンを履くという、いわゆる『埴輪スタイル』を好んでいるのだ。
「埴輪スタイルなんてもうほとんど見ないぞ。学校ではお前だけじゃないのか」
「……ぐっ、だが、しかし……だな、これは、その、色々と……」
俺が指摘すると、急に日比野は狼狽し始めた。顔を少し赤くしてうつむきながら、声にならない声で何事かをつぶやく。――実はそれほど日比野に埴輪を止めさせたい訳ではなかったのだが――そんな姿を見せられたら、嗜虐心を刺激されてしまう。
「なんだ、俺は日比野が"埴輪マン"――いや、"埴輪ウーマン"なんて不本意なあだ名をつけられないように親切心からお願いしているというのに、それが聞けないのか」
「――っ、な、なんなのだその、安直なネーミングはっ、今日び、小学生だってもっとマシな渾名をつけるだろうッ」
もっと赤くなり、先ほどとは立場が逆転した会話を俺と繰り広げる日比野。もっとも彼女の場合は俺に勝てばそんな願いは聞かなくていいという前提条件があるのだから、そこまで必死にならなくても良いはず、だが。
「……だ、大体、本当にそれは親切心からのお願いなのかっ?」
「いや、ただ単に日比野の生足が見たいだけだけど」
彼女が、凍る。
――あれ、俺は冗談だと言うことを暗に伝えたかっただけなのだが――ひょっとして、言葉を、間違えた、かな。
「――――――ッ――ッ」
固まった日比野が小刻みに震えだす。その様はまるで固体である氷内の水分子の細かい振動みたいだな、などと水分子も裸眼で見たこと無い俺がそんな感想を抱いていると、彼女はあっという間に融解し、沸騰した。
「巫山戯るなっ」
耳鳴りのような怒号が俺の耳を襲う。脳が数瞬遅れて、その音源の発生地が日比野だという事を理解する。
「巫山戯るな、巫山戯るなっ巫山戯るなっ」
日比野はそう呷然と叫びながら、俺との距離を詰める。そうして俺の胸倉を掴み上げた。
「ちょ、日比野」
「五月蝿い、黙れ。セクハラ裁判だ」
なんですかその聞いた事の無い不吉な裁判は。そうは思っても、もう声を出せなかった。"蛇に睨まれた蛙"とはまさにこのことだ。
俺たちの横を買い物帰りだと思われるおばちゃんが自転車で通り過ぎる。その際に何か微笑ましい物を見る目でこちらを一瞥していった。チンピラのような金髪を日比野はしているが、彼女は小柄で、何より女の子だ。そして胸倉を掴まれている俺は、痩せぎすで頼りなさそうとはいえ身長は、ある。多分カツアゲの現場というより、痴話喧嘩だと思われたのだろう。その推察は概ね正しい。しかし俺はその痴話喧嘩に生命の危機を感じざるを得なかった。
「い、異議ありっ」
俺は駄目もとで叫ぶ。このままではどんな判決が下されるか、想像に難くないからだ。
「異議を却下する。遺言があるなら、三十字以内にしろ」
判決が下されるのではなく、既に下っていたようだ。処刑という名の判決が。なんという魔女裁判。しかし、遺言は許された。それならばきちんと誤解を解けばいいのだ、その三十字で。いくら日比野とはいえ鬼じゃない。冷静に論理立てて説明すれば、きっと自分の思い違いだったとわかってくれるはずだ。
「十」
日比野の唇が、動く。
なんだろうか。彼女の意図を測りかねる。
「九」
カウントダウン。
――どうやら彼女は、罪人である俺の弁解を悠長に待つ気など、さらさらないらしい。
「八」
落ち着け。考えろ、考えるんだ。今の俺に許される、最大限の言い訳を。
「七」
しかし、三十字という限られた文字数の中で、彼女の誤解を解くのは、すこし考えれば至難の技だと容易に推測できる。
「六」
ならばどうすればいい。
「五」
――冗談、か?
ウィットに富んだ冗句で、有耶無耶にして切り抜けてしまうか?
「四」
うん。なかなかに悪くない手に思える。笑いは世界を救うのだ。そんな大層なことはしなくていいから、俺を救え。
「三」
しかし、いざ考えるとなかなか思い浮かばないな。そもそも俺はそんなにユーモアのセンスを持っていない。
「ニ」
まずい。タイムリミットが差し迫ってきた。どうしたらいいっ……? どうしたらっ……。
「一」
うわやばいまずい。落ち着け、日比野は生足を俺に見られるのが嫌なんだ。つまり、生足がいや。生足がいやなら――
「ゼ――」
「な、生足がいやなら、タイツを履けばいいのにっ」
マリー・アントワネット【Marie-Antoinette】
フランス王ルイ16世の妃。マリア=テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世との末娘。フランス革命の際、ギロチンで処刑。(1755~1793)
貧困で今日食べるパンも無いと嘆く国民を見て、「パンが無ければケーキを食べればいいのに」と言ったとか言わないとか。
ザ・ワールド。時は止まる。
日比野は俺の胸倉を掴んだまま、凍りついたように停止していた。――一陣の風が、地面に落ちた桜を舞い上げながら、俺たちの間を通り抜ける。
……無いな、今のは、無い。最低だ。と、いうか意味が分からない。我ながら、人生で最大の失言をしてしまった気がする。
と、日比野の手が俺から、離れる。
意外な展開に俺は思考が停止する。どうしたのだろうか。
「坊主な」
先ほどまでの真っ赤で恥ずかしそうな顔からは、一転。今の日比野はにこやかに微笑んでいた。目は、笑っていないけど。
「坊主って、なにが」
「いや、ほら『髪を切る』ってさ、結構曖昧じゃないか。毛先をそろえる事だって広義でいえば、『髪を切る』事だろう」
「あ、あぁ」
「でもそれじゃ意味が無い。だからある程度明確な基準を設けようと思って、な。この際だから坊主にしよう」
もの凄く朗らかな、でも少しも好意的な印象を与えない笑顔で彼女は続ける。
「ちょと待」「そうだな。春になって日が落ちるのが遅くなったが、もう結構な時間だ。明日も半ドンとはいえ学校がある事だし、私はもう帰るとするよ」
「だから坊主っていくr」「ああ、見送りは結構だ。ここからは一人で帰る。じゃあまた明日、学校で」
そう言うやいなや日比野は俺に背を向け、歩き去っていく。その後ろ姿だけでも、俺は脚が竦んでしまって彼女を追いかけることはおろか、声を出すことすら出来なかった。
「……我ながら変態街道まっしぐらな発言をしてしまった割には、あの反応は、まだいい方、なのか、な」
俺はオレンジ色をした太陽に向かって歩いていった日比野の姿が見えなくなってから、そんな独り言を漏らした。下手したら養豚場の豚を見るような目をされた後、絶交されてもおかしくはなかった、と思う。そのレベルの失言であったが、それでも俺と幼馴染――友人のままでいてくれる事は、
"同情、してくれてるのか"
それとも純粋な彼女の『優しさ』なのだろうか。
今の俺には判別は出来なかったし、次の瞬間には友人の行動をそんな風にしか捉えられない自分に、唾を吐きかけたくなった。
「――俺も、帰るか」
一々そう口に出してから、俺は帰路へと一歩踏み出したが――、
そのとき。
後ろから。
――なにか、悲鳴のような物が、聞こえた。