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又右衛門、斬ってはならぬ 〈宇都宮釣天井異聞〉 作者:陸 理明
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本多上野介正純という男

 では、本多上野介正純がなぜにここまで幕府の老中土井利勝、堀伊賀守らに失脚を企まれているか、その背景について述べなければなるまい。

 本多正純は本多佐渡守正信の嫡男として永禄八年(1565年)に生まれた。
 父親の正信が三河における一向一揆で徳川家康に反逆していた頃は、諸説あるが近畿一帯を母親とともに放浪していたとも伝われている。
 正信が徳川家康のもとに帰参すると、正純も家康の家臣として仕えるようになる。
 父と同様に有能な官吏として家康に重用され、関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、将軍職を三男の秀忠に譲って大御所として、秀忠を絡めた二元政治が始まると、江戸城には父の正信、駿府城には正純が、それぞれ補佐として従うようになった。
 家康の死後は、秀忠の老中となり辣腕を振るったという。
 ……彼はその没後、父の正信と同様、蛇蝎のごとく世間に嫌われ、今でも「家康の寵愛をいいことに勝手気ままにふるまった君側の奸」と思われていることが多い。
 歴史における彼のイメージは、近年再評価されつつある石田三成のものと重なることが多く、石田三成のエピソードがそのまま正純のものとして書き換えられたものも少なくないという。
 天下を平定した家康のもとで、その事務方を一手に引き受け、平定後の難しい舵取りを行った忠臣であるはずの彼が、なぜ、そのような汚名を受けることになったのか。
 それが、この物語の軸となる。


 ◇◆◇


 堀伊賀守利重は、この時、古河にある奥平家にお預けの身となっていた。
 大久保忠隣(おおくぼただちか)の姻戚というだけで、所領である八千石を召上げられ、罪人として幽閉されることになったのだが、その大久保忠隣を失脚させたのが本多正純なのである。
 最初は岡本大八という小物が犯した詐欺事件であった。
 大八は長崎奉行所に勤める役人であり、「計算・算筆巧みなり」と評されるほどの能吏でもあった。
 その有能さから本多正純の与力として引き抜かれた切れ者である。
 同時に金に汚い、武士らしからぬ男でもあったようだ。
 大八は九州肥前の大名である有馬修理大夫晴信に対して、詐欺を働いたのである。
 有馬晴信はキリシタン大名ではあり、所領の一部をイエズス会に寄進してしまうほどの熱心な信者でもあったが、見返りに佐賀の竜造寺勢と戦うためにイエズス会から武器や兵糧を援助させるなどの強かさも兼ね備えていた。
 さらに、南方諸国と交易することで軍資金を調達するなどの賢さももっていたのである。
 有名なローマへの少年使節を大村、大友らともに行ったぐらいに、有馬晴信は海外への進出に熱心であった。
 慶長十三年にもチャンパに交易船を送り出したが、マカオに寄港中、その船の水夫がポルトガルの水夫と怪我人の出るもめ事を起こしたのである。
 マカオの当局者はポルトガル領の官憲だから、当然のこととして、自国の船員の肩を持った。
 依怙の沙汰だと腹を立てた晴信は、翌年長崎に入港してきたポルトガル船マードレ・デ・デウス号を撃沈してしまう。
 しかも、それで国威が高揚したのだとの理由づけで公儀に、「鍋島領となっている有馬の旧領の三郡を恩賞としてお返し賜りたい」と願い出たのであった。
 このあたり、キリシタン大名といってもやはり戦国生き残りの武将である。
 思考がなかなかに好戦的で気儘であろう。
 しかし、いくら待っても晴信には公儀からは何の音沙汰もない。
 業を煮やした晴信はこの要求を大御所家康の加判筆頭の本多正純を介して、もう一度伝えようと考えた。
 その際に、正純の家来である岡本大八に金を握らせて、彼を経由して「大御所御朱印状」なるものを手に入れた。
 なぜ、晴信が大八に近づいたかというと、それは岡本大八も熱心なキリシタンであったからである。
 ともにキリシタンということで両者には何らかのつながりがあったようである。
 それにキリシタンが同じ信徒に嘘をついてだますということも、晴信は考えたこともなかった。
 これが大名である晴信に対して与力である大八の詐欺がなされた背景であった。
 だが、「御朱印状」を手にしたとしても、それ自体大八による偽物であるのだから、いくら晴信が待っても進展がみられるはずがない。
 晴信が正純に催促の手紙を送ったことで、ようやくことが明るみに出る。
 正純が晴信と大八を自分の屋敷で対決させると、さすがに隠しきれずに大八は自分の悪事を白状した。
 自分同様の役人として潔癖性を家臣にも求めていた正純は、大八を投獄し、そのうえで死刑にすることに決めた。
 しかし、岡本大八はやすやすと死ぬ男ではなかった。
 自分がだました被害者でもある有馬晴信を道連れにすることにしたのだ。
 かつての上司である長崎奉行・長谷川左兵衛を確執のあまり、晴信が刺客を送り付けたことがあるという事実を訴えたのである。
 長谷川左兵衛の妹は、家康の側室・お夏の方である。
 長崎奉行になったのもそれを含めて家康の信任が篤いからであり、その家康直臣を暗殺しようとしたというのは大問題であった。
 そのため、詮議の場所が今度は家康のお膝元である駿府に移り、対決の場所も大久保長安の屋敷に変わった。

 ……すべてはこのちっぽけな詐欺事件が大久保長安の管轄に移ったことから大きくなっていく。
 有馬晴信はこの二度目の対決で大八の言い分を覆せず、そのまま大久保長安に身柄を預けられたのち、甲州の都留郡に配流され、そこで斬罪に処せられた。
 大御所の寵臣を暗殺しようとしたのだ、ある意味では仕方のないところであった。
 もっとも反訴した大八自身も安倍川原に組まれた矢来の中で、武士としてはあるまじき火あぶりの極刑を受けたのである。
 形だけは喧嘩両成敗ということになったのである。
 だが、事態はそれだけでは収まらなかった。
 有馬晴信、岡本大八の二人がキリシタンであったということが、大御所家康の猜疑心に火をつけた。
 まず江戸・京都・長崎・駿府の天領からではあったが、キリスト教の布教の禁止を言い渡したのである。
 いわゆるキリシタン禁制であった。
 慶長十七年八月六日のことだった。
 これを幕閣の協議の場で持ち出したのは、本多正信であったという。
 ゆえにこれは息子である正純の家臣が引き起こした問題であることを、両者がキリシタンであったことにすりかえるための、正信の方便であったとも言われている。 

 ―――それだけでは終わらない。
 こののちに、大久保長安が病死した際、本多正信は長安が「ポルトガル国王と九州諸藩のキリシタン大名と示し合わせて謀反を企んでいた」と主張したのである。
 はっきりとは語られていないが、これは大久保長安もキリシタンであったということを示唆している。
 なぜ、長安がキリシタンであるという疑いが生まれたのかは不明だが、二人のキリシタンの対決が彼の屋敷で行われたということから、かなり初期の段階から正信は彼とキリスト教の結びつきを疑っていたのではないだろうか。
 長安が大出世した発端である金銀山の採掘において、日本には存在しなかったアマルガム鉱法などを用いていたことが、実はキリスト教の伝道師から学んだものだと囁かれてからかもしれない。
 真偽はさておき、どのみち正信は死した長安を完全に利用することに決めたのであろう。
 表向きは、長安が職権を利用し莫大な公金を不正に横領して財を築き上げたことが原因として死後処罰されたのであった。
 従五位下・石見守という官職を帯び、「幕臣一のおごりもの」と権勢を誇った金山銀山の主・大久保長安は他の家臣からも嫉妬されていたこともあり、その七人の子供も斬首されて、財産は没収されることになる。
 本人の遺骸は棺から引きずり出されて、磔柱にかけられたという。
 そして、その長安を大御所に推奨して上司となり、大久保の姓を許した、三河以来の大物大久保忠隣がある老人の「叛心あり」という訴えに基づいて処罰された。
 忠隣は二代秀忠の幼少時からの家老であり、秀忠が将軍になったことで、幕府の中でも有数の権力者となっていた。
 そのうえ、金の回りがよく人望も篤い。
 であるにもかかわらず、ほとんど言い分も聞いてもらえずに所領没収のうえ、近江に配流され、失脚したのである。
 その訴えそのものが、実のところただの言いがかり、讒言であることは誰の眼にも明らかであった。
 世人は噂した。
 すべてが家来のなした失態を糊塗するためと、政敵であった大久保忠隣を失脚させるための本多親子の陰謀である、と。
 長安の死を利用したのもそのためである、とも。
 大久保忠隣に連なるものとして罰せられた堀伊賀守などはその噂を完全に信じ切っていた。
 ゆえに、世代の違う政敵である正純を失脚させるためという老中土井利勝の誘いに乗り、他家にお預けの身でありながら、自分の屋敷に根来から派遣された七人の忍術僧を匿うということをしてのけたのである。
 ただ一つ、本多上野介への恨みのために。

 これが堀伊賀守の現在の立ち位置である。


 ◇◆◇


 荒木又右衛門が死闘の末、根来七忍の一人である黒歯坊を斬ってからひと月ほどが経っていた。
 その間、堀の屋敷に潜んでいた七忍(すでに六人となっていたが)がしていたのは、まず、片腕を失った一黙坊の再訓練である。
 腕を喪った忍びは戦闘力だけでなく、その体術ですら格段に落ちる。
 そのぶんをなんとか補わせないと、一黙坊という戦力が使いものにならなくなるという理由で常に二人の法師が付きっきりで再訓練にあたっていた。
 おかげでひと月が経ったころには、一黙坊はなんとかもとの身の軽さを取り戻すことに成功している。
 一方で他の三人がしていたのは、行方不明になった黒歯坊の捜索である。
 ある日、宇都宮城の三ノ丸にあるという武器蔵を探りに行ったまま帰還しなくなった同僚の消息を探っていたのだ。
 根来僧たちは、黒歯坊がおそらくは討たれたであろうことはうすうす承知していた。
 だが、死体がみつからなければ、まだ生きている可能性は捨てきれないので、もしや藩士に囚われているのではないかと城の中に潜り込める限りで必死に捜索したが、どこにも姿が見つけられなかった。
 十日もすれば諦めはついたが、すると問題になるのは黒歯坊ほどの猛者を斬った相手である。
 そこでようやく根来僧たちは、二ノ丸の奥屋敷に住み着いたという大男の存在を認知した。
 当初の調べでは影も形もなかった男がこつ然と本多上野介のそばに現われたのだ。
 おそらくやつが下手人であろうと推測する。
 本丸で普請に携わる普通の根来同心からの情報では、大男は名を荒木又右衛門というらしい。
 それ以外の情報は皆無であったため、さすがに根来僧たちも大男にちょっかいをかけることは躊躇われた。
 相手の正体が不明なのに仕掛けるのはさすがに難しい。
 数に頼んで押し殺すという手もありえたが、荒木又右衛門という大男はほとんど昼間のうちには奥屋敷からでてこない。
 夜になるとなにやら動いているようだが、それでも完全に動きを察知できずに逃してしまう。
 あの男がいる以上、無暗な陰働きはできないというジレンマを抱えることになってしまったのである。
 そのため、根来僧たちは方針を改めた。
 直接に城内に忍び込むのではなく、別の手段を用いて、城の内情を探り出すことにしたのである……。
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