2007年12月。
ここはスウェーデン南西の町、ヨーテボリ。海に面した港湾都市である。
そんなヨーテボリに幾つもある港の岸壁に、夕日に紅く染められた海を見つめる男がいた。
黒髪に、黒の瞳。
北欧ではあまり見かけることのない、東洋人である。
その男は、肩にかけた重そうなアルミ製のケースを下ろすと、中から一枚の写真を取り出した。
写真には、男と、他にもう一人、女性が写っている。
「ようやく帰って来れたな、ステラ」
そう言って、男は手にした写真を海へと放った。
ヨーテボリの海に、写真はゆっくりと沈んでいく。
沈んでゆく写真を見つめながら、男は彼女との記憶を思い返していた。
男が彼女と初めて出会ったのは、5年前であった。
小さな町でカメラマンを生業にしていた男はある日、結婚式の撮影を依頼された。
男は古ぼけた愛車を運転し、告げられた住所へと向かう。
依頼された住所で男を待っていたのは、教会でもなければ、ホテルでもなかった。
そこにあったのは、洋上に浮かぶ真っ白な船。
どうやら、ここが式場になっているらしい。
男は桟橋を通って、船内へと入っていった。
挙式まではまだ大分時間がある。
余裕を持って到着できるように、早めに出発して来たのだから当然だろう。
時間までの間、男は船内を散策することにした。
もともとホテルとしても使われていた船内だが、今では式場とレストランの部分しか使われていない。
誰もいない船内の廊下を歩いているうちに、男はブリッジまで来てしまっていた。
このブリッジはもう30年近く使われていない。
ドアには、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた札が掛かっていた。
が、男は注意書きを完全に無視してブリッジのドアを開けると、中へと入り込んだ。
ブリッジに入り込んだ男は、予想していなかった光景に思わず立ち尽くしてしまった。
誰もいないだろうと踏んで入り込んだブリッジに、人がいたからである。
そこにいたのは、一人の女性であった。
年の頃は20代半ばくらいだろうか。
真っ白な肌に、大きな灰色の目。
全体的な顔立ちも日本の女性とは大分異なっている。どうやら外人のようだ。
髪はプラチナのように光る銀色。
それを真っ直ぐ腰の辺りまで伸ばしている。
女性は、男がブリッジに入ってきたことなど全く意に介さず、ブリッジの中央にある窓から、外の海を見つめていた。
意外な展開に暫く惚けていた男だったが、ようやく我に帰ると、女性に話しかけた。
「アンタ……誰?」
その声に、女性は意外そうな顔をして振り向く。
一瞬、男はもし英語などで話しかけられたらどうしようかと思ったが、幸いなことに、その口から発せられた言葉は日本語であった。
「あなた、私のことが見えるのですか?」
「そりゃ、見えるよ。だから「誰?」って聞いてるんじゃないのか?」
至極当たり前の話である。
すると、女性は真顔でとんでもない返事を返してきた。
「私ですか?私はこの船の魂です。固有名詞としてなら、「船魂」でしょうか」
「へえ、船魂ねぇ……ってそんなわけないだろ!?ったく、冗談にしてももう少しまともな返事をしてくれよ。こっちは真面目に聞いてるんだから。」
一瞬納得しそうになった後、慌てて突っ込む男だったが、女性は不満そうに言った。
「こっちだって真面目に話してますよ。……そうだ、これなら納得してくれますか?」
と、言うが早いか、女性は男の目の前から消えた。
「え!?」
驚く男。すると、背後から女性の声が聞こえた。
「こっちですよ。これなら信じてもらえますか?」
男が急いで振り向くと、ブリッジの隅、距離にして10mほど離れた所に女性が立っていた。
そして再びそこから消えると、今度は先ほどまで立っていた場所とは反対側の隅に現れる。
「私、この船の中なら、どこでも自由に現れたり消えたり出来るんですよ。これで信じてもらえますか?」
平たく言えば瞬間移動である。
これでは男も認めざるを得なかった。
「……確かに、人間じゃ瞬間移動なんて芸当は出来ないよな。オカルトには興味はないけど、認めざるを得ないか……」
「良かった、やっと信用してもらえたみたいですね」
ようやく信用してもらえた女性は、にっこりと微笑んだ。
そんな彼女の表情を見た男は、つい赤くなりながら目を逸らす。
それも当然だろう。
元々この男は、女性にあまり免疫が無い。
それに加えて、彼女は「超」を付けても良い位の美人なのだ。
そんな男の仕草に不思議そうな顔をしながらも、女性は男に話しかけた。
「そういえば、お互いまだ名前を聞いていませんね」
「確かに、自己紹介がまだだったな。俺の名前は八郎。大場 八郎だ」
「八郎さんですか。いい名前ですね」
「そうかい?ありがとう。で、君は?」
「私はステラ。ステラ・ポラリスです」
「へえ、ステラかぁ。可愛い名前だね。……あれ、でもこの船の名前は「スカンジナビア」だったと思うけど……」
「はい、それは私の日本での名前です。日本に来た時、「ステラ・ポラリス」から「スカンジナビア」に改名されたんです」
ステラの言葉に、八郎はなるほど、と頷いた。
「ところで、八郎さんは何故、この船に来たのですか?」
ブリッジの窓から外を見ながら、ステラが尋ねる。
「俺はカメラマンだからね。今日の結婚式の撮影依頼を受けてきたんだ」
「カメラマンだったんですか!じゃあ、今カメラを持ってるんですね?」
「そりゃあ、これから撮影するわけだしね。もちろん持ってるよ」
八郎がそう答えると、ステラは真剣な顔でこう言ってきた。
「……それなら、一つお願いしてもいいですか?」
「なんだい?」
灰色の眼差しに見つめられ、八郎も真剣な顔になる。
「私、撮ってもらえないでしょうか?」
意外なお願いに、八郎はきょとんとする。
「私、これまで自分の写真、撮ってもらったことがないんです」
彼女は普通の人間には見えない。当然、写真なんて撮ってもらったこともないのだ。
「なるほど、わかった!用意するから、少し待っていてくれ」
八郎はその願いを快諾すると、銀色のカメラケースを開け、中から大きな一眼レフカメラを取り出した。
慣れた手つきでフィルムを装填すると、三脚を立ててカメラをセットし、手持ちのストロボライトを充電する。
手際の良さは、さすがはプロといったところだろうか。
そして、ステラを先程の窓の傍に前に立たせた。
一方ステラはというと、緊張しているのか、先程から「気をつけ」の姿勢のままだ。
八郎はそんなステラに苦笑しながらも、撮影を始める。
「よし、準備完了っと。じゃあ撮るよ!ああ、もう少しリラックスしてね。背筋は真っ直ぐに、顎はちょっと引き気味にすると綺麗に写るよ。……よし、撮りまーす!」
八郎の言葉と同時にフラッシュが焚かれ、カメラがフィルムに彼女の姿を焼き付ける。
これが、ステラと八郎の、最初の出会いであった。
その日から八郎は、結婚式のたびにカメラを入れたケースを担いで現れる様になった。
式場に頼み込んで、専属のカメラマンとして雇ってもらったのである。
そして、撮影が終わった後、日が暮れて星が出る頃まで、ステラと様々な話をする。
それがいつの間にか、二人の習慣となっていった。
八郎はステラに色々な話をした。
カメラマンになろうと決めた日の話。
扱っているカメラの話。
撮影技術に関する話。
これまでに撮った写真の思い出話。
果ては自分の生い立ちまで、とにかく何でも話した。
八郎は、ただ話しているだけで、楽しかった。
ステラも色々な話をした。
初めて海に出た日の話。
故郷スウェーデンの街や人々の話。
第二次大戦中、ドイツ軍に接収された時の話。
戦後、再びクルーズ船として走り出した頃の話。
そして、船としての役目を終えて此処に来た時の話まで、とにかく何でも話した。
ステラも、ただ話しているだけで、楽しかった。
そして今日も、いつも通りとりとめのない話をして、八郎は帰っていった。
当の昔に日は落ち、夜空には無数の星が瞬いている。
星明りに照らされたブリッジに佇むステラは、小さくため息をつきながら、今日もいつもの様に執り行われた結婚式を思い返していた。
華やかな催事場。
煌びやかなウエディングドレスを着た新婦。
大勢の人の笑顔と、祝福の言葉。
かつては自分も、新しい生活へと旅立つ二人に、心からの祝福を送っていたはずだった。
だがいつの日からか、自分は心から祝福することができなくなっていた。
その理由は、自分でも判っていた。
自らは決してその舞台に立つことは無いと、気が付いてしまったから。
自分は常に、旅立つ人たちを見送るだけの存在。
祝福出来ても、祝福されることは無いと、気づいてしまったから。
なぜなら、自分は、人ならざる物だから。
ブリッジの窓から空を見上げるステラの顔に、小さな光が流れた。
それは、流れ星の残した、一瞬の煌きか。
それとも、彼女の流した涙か。
それは、誰にも判らなかった。
翌週、再び結婚式の撮影の為にステラの元を訪れた八郎だったが、式の撮影をしているうちに、あることに気が付いた。
式場のどこにも、ステラの姿が見えないのである。
ステラは、これまでの結婚式では必ず式場に姿を見せていた。
だが、今日はその姿が無い。
不思議に思いながらも、仕事中に抜け出して探しに行くわけにもいかず、八郎はそのまま撮影を続けた。
結局、式が終わっても、ステラは姿を見せることは無かった。
式が終わり、八郎はステラに今日のことを聞こうとブリッジへと上がった。
しかし、ブリッジ内にもステラの姿は無い。
これまで、こんなことは一度も無かった。
「……おかしいな。どこ行っちまったんだ?」
仕方なく、八郎はステラを探して船内を走り回った。
レストラン。
デッキ。
果てはかつての客室まで一つ一つ調べていったが、どこにも彼女はいなかった。
窓から外を見ると、とっくに日は落ち、空には星が輝いている。
「本当にどうしたんだろう……」
途方にくれながら、とりあえず荷物を置きっぱなしにしているホールへと向かう八郎。
そして、ホールのドアを開けた瞬間、ずっと探してきた女性の姿が彼の視界に入った。
彼女は、星明りだけが照らす薄暗いホールの中で、入り口とは反対側にある祭壇の方を向いて立ち尽くしていた。
「ステラ!」
八郎の声に、ステラは驚いて振り返る。
「今日はどうしたんだよ。式にも顔を出さないし、ブリッジにもいないし。何かあったのか?」
問いかける八郎だったが、ステラは答えない。
「ステラ、黙ってちゃ判らな……」
そこまで言ったとき、八郎は気づいた。
ステラの頬には、涙の痕があった。
「ステラ。君、泣いて……」
呆然とする八郎に、ステラは先ほどの質問に答えを出した。
「……だって、失礼ですから」
「え?」
「私が今日結婚式に出なかったのは、失礼だと思ったからです」
「し、失礼って、何故?」
答えの意味が判らない。再び問いかける八郎に、ステラは寂しそうに笑いながら答えた。
「だって、本心から祝福していないのに、上辺だけの祝福をされたって、ちっともうれしくなんか無いでしょう?だから、出られなかったんです」
「……。」
「きっと妬んでたんですね、私。私はいつか、自分がその場所に立って、祝福される日を夢見てた。でも、その日は永遠にやってこない。だって、私は……人間じゃないから」
いつの間にか、ステラの両目からは、涙が再び溢れていた。
なんと、残酷なことだろう。
彼女は、自らは決して掴むことの出来ない幸せを、目の前で、いつも見せつけられていたのだ。
だが……。
「……違う。そんなこと無い」
「え?」
「人間じゃないから結婚できないなんて、誰が決めたんだ?」
「あ……」
「お互いに見えて、話せて、触れる事だって出来る。それだけで十分じゃないのか?人じゃないかどうかなんて、関係ないだろ?」
そういわれて初めて、ステラはそのことに気が付いた。
それは、自分が思いこんでいただけのことだった。
その考えれば至極当たり前の、でもずっと気づくことの無かった事実に、彼女は驚いた。
そして、それに気づかせてくれた八郎の言葉が、たまらなく嬉しかった。
しかし、直ぐに現実が彼女を引き戻す。
「でも、私が人間じゃないことは、変えようの無い事実なんです!叶えられない夢を見たって、悲しくなるだけじゃないですか!」
顔を真っ赤にしながら叫ぶステラ。しかし、八郎は自信ありげにこう言い放った。
「叶うさ。その夢は。……いや、俺が叶えてみせる」
そして、ポケットから小さな箱を取り出した。
「これ、受け取ってくれるかな?」
そういいながら、その小箱をステラに手渡す。
その中身は、金色に光る指輪だった。
「……!これってまさか……!!」
「ああ、男が女性に指輪を贈る時って言ったら、一つしかないだろ?」
そういって、八郎はステラを真っ直ぐ見つめると言った。
「俺と、結婚して下さい」
「…………。」
ステラからの答えは無い。
さすがに恥ずかしかったか、八郎は急に赤くなって頬を掻きながらこう言ったが、その言葉が最後まで発されることは無かった。
「ま、まあ、俺なんかでよければだけ……うわっ!」
なぜかというと、ステラがいきなり八郎に抱きついたからである。
ステラの両目からは、再び涙が溢れ出していた。
でも、それは先ほどまでの涙とは、全く違うもの。
嬉しいときにも、涙は流れる。
それは、彼女が生まれて初めて体験したことだった。
「ありがとう……ありがとう……」
ステラの口から出たのは、ただ、その一言だけだった。
そして、その夜二人は小さな結婚式を挙げた。
薄暗いバージンロード。
誰もいない列席。
神父の姿の無い祭壇。
これまで見てきた、たくさんの結婚式と比べれば、色々と欠けてはいたけれども、それでも二人は満足だった。
手を繋いでゆっくりと祭壇の前へと進んだ二人は、お互いの指輪を取り出した。
八郎は、先ほど見せた指輪。
ステラも、男物の指輪を発現させて、手に持っていた。
そして、お互いの薬指に指輪をはめていく。
指輪の交換の後、二人は十字架に向かって宣誓した。
二人ともこれまで何度も見てきた結婚式。
誓いの言葉は、頭の中にしっかりと記憶されていた。
「私、大場八郎は」
「私、ステラ・ポラリスは」
「この女、ステラ・ポラリスを」
「この男、大場八郎を」
「妻とし」
「夫とし」
「良き時も、悪き時も」
「富める時も、貧しき時も」
「病める時も、健やかなる時も」
「共に歩み」
「他の者に依らず」
「死が二人を別つまで、愛を誓い」
「妻を想い」
「夫を想い」
「妻のみに添うことを」
「夫のみに添うことを」
「「神聖なる婚姻の契約の元に、誓います」」
最後の言葉を同時に言い終えた二人は、目を閉じると、そっと唇を重ねた。
二人にとって、相手が自分とは違う存在であることなど、どうでも良かった。
星明りに照らされる祭壇。
そして、その前に立つのは、たった今生まれた、一組の新しい夫婦であった。
その日から、八郎は結婚式が無くても、必ず日曜日にはステラの元を訪れるようになった。もっとも、回数が増えたというだけで、付き合い方は以前とさして変わらないという、傍目には恋人なのか夫婦なのかわからなような状態だったが、本人達は満足だった。
ただ、相手が自分にとって無二の大切な存在だということを認識できるだけで、二人は満ち足りていた。
そして、それから3年の月日が経った。
ある日ステラは、いつも通りやってきた八郎から信じられない言葉を聞かされることになった。
「閉鎖!?」
驚いて八郎に詰め寄るステラ。八郎は悔しそうに言葉を続ける。
「……ああ。最近この地域全体の観光が不振なのに加えて、所有会社の不採算部門見直しとかで……」
バブル崩壊による不況で、ステラの中で行われてきた結婚式に加えて、最後に残ったレストラン部門すら閉鎖という事態になってしまったのである。
「それで私は……どうなるんですか?」
恐る恐る尋ねるステラ。
「聞いた限りでは、売却先を探しているとか……」
それを聴いた瞬間、ステラの顔に、絶望が過ぎる。
売却されてしまえば、自分がどうなるのか、何処に連れて行かれるか判らない。
最悪、以前と同じように、また違う国に連れていかれるかもしれない。
そんなことになったら、八郎と会うことも出来なくなってしまう。
そういった不安が、心の中でどんどん大きくなっていった。
だが、ステラのそんな不安を直ぐに察知した八郎は、努めて明るい声でステラに話しかける。
「でも、売却されたとしても、廃船にされるわけじゃないし。それに今、俺を含めたこの町の人たちが、ステラを海洋文化財としてずっと保存しようって運動を起こしてる。だから、大丈夫。……それに、もしこの町を離れることになっても、俺は何処だってついていくから、心配するな」
そういいながら八郎は、ステラを優しく抱いた。
「八郎さん……」
それでもなお、不安そうに八郎を見上げるステラに、八郎はもう一度言った。
「大丈夫。俺は、何処へだってついて行く」
その自信に満ちた顔を見た瞬間、ステラは確信した。
その言葉が、彼の心の底からの本心だということを。
肩越しに伝わる、八郎の温度。
その温もりは、先ほどまでの不安を、綺麗に洗い流してくれていた。
ステラの目からは、3年前と同じ涙が溢れる。
「……ありがとう……」
3年前には「ありがとう」までしか言えなかった。
でも、今日は違う。
きちんと、最後まで、言わなければならない。
それは自分の事を、本当に大事に思ってくれている、彼に対する答えだから。
「私……私、貴方と出会えて、本当に幸せです」
ステラは、泣きそうになるのを必死に堪えながらも、はっきりと自分の気持ちを伝えた。
それから一年後。自分の船体へと続く桟橋の上に佇む、ステラの姿があった。
「カリブへの売却交渉も失敗に終わってしまったし……。いよいよ私も廃船かな……」
そう呟いて、寂しそうに笑うステラ。
「私、まだ消えたくないのに……。あの人と、ずっと、ずっと一緒に居たいのに……」
そう言いながら、自分の船体を見上げる。
普通なら、70年以上もその形を留めていられるというだけで、十分以上に幸運な船である。 それはステラも理解していた。だが、それでもやはり、まだ消えたくはなかった。
まだ、自分の大事な人と共に、いきたかった。
「ステラー!」
そんな時、桟橋に向かって走ってくる男の姿があった。
「八郎さん!?」
全力で駆けてくる八郎の姿を認めたステラは驚く。何かあったのか、という不安も一瞬胸の内をよぎったが、それにしては八郎の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
ステラの近くまで走りよってきた八郎は、息を切らしながらも、一刻も早く伝えたいと思っていた事を、ステラに告げた。
「帰れるぞ……」
「は?」
何を言っているのか理解できず、思わず間の抜けた声を上げるステラ。
八郎は、そんなステラにその答えを言った。
「君の故郷、スウェーデンに!」
そういって手に持っていた新聞を手渡す。地元で発行される地方新聞である。そこには、『スカンジナビア号、母国スウェーデンへの売却が決定』という見出しが躍っていた。
「……ゆ、夢じゃないですよね?」
驚くステラに、大作は満面の笑みで話しかける。
「ああ、紛れもない現実だよ!やったなステラ!故郷に帰れるじゃないか!」
「私は……!」
夢のようだった。母国を離れて既に30年以上の月日が経っている。廃船も半分覚悟していた矢先に、こんな奇跡のようなことが起こるとは、想像すらしていなかった。
「あ、でも……」
満面の笑みを浮かべていたステラの顔が、不意に曇る。
彼女の胸の中には、新しい不安が湧き上がってきていた。
「どうした?」
表情の変化を感じ取った八郎は、不思議そうな顔でステラに話しかける。八郎には、何故ステラがそんな表情をするのかが判らなかったからだ。
「でも、私がスウェーデンに帰ってしまったら、私たちは……」
確かにスウェーデンは自分にとって故郷だが、八郎にとっては見も知らぬ異国の地だ。自分がスウェーデンに帰ってしまえば、八郎とは離れ離れになってしまう。再び生きる道が開けたのは嬉しい。帰れるのも嬉しい。……でも、八郎とは別れたくない。そんな葛藤が、ステラの顔を曇らせていた。
だが八郎は、そんなステラに笑顔で言った。
「ステラ。約束したんじゃないのか?一年前」
「……あ!」
そう。一年前、八郎は確かに約束してくれていた。
「何処へだってついて行く」と。
「ステラはこれまで、ずっと俺の故郷で過ごしてくれていたんだ。だから、今度は俺が君の故郷へ移ればいい。それでお相子。問題ないだろう?」
「で、でも、そんな簡単に……」
「簡単だなんて思っちゃ居ないさ。でも、俺は自分のした約束にはちゃんと責任を取る。だから、もし君が嫌といっても、俺はついて行くからな。……だって俺たち、夫婦だろ?」
そういって、八郎はステラに満面の笑みを贈った。
その笑顔を見た瞬間、ステラは自分のこれまでの行いを心から恥じた。
八郎は、いつだって自分の傍に立って、支え続けてくれた。
それなのに、自分はいつも頼ってばかり。弱音を吐くばかりだった。
でも、もうそんな弱気な自分とは決別しよう。
今度は、自分も八郎を支えられるような存在になる。
だってそれが、夫婦のあるべき姿だから。
「……はい。それではこれからも、よろしくお願いします」
そういってステラも、八郎に微笑み返した。
それは、彼女が初めて、自分の意思で一歩踏み出した決意の顔でもあった。
その後、売却先であるスウェーデンへの移動のために、繋留ワイヤーの回収や、周辺に設置された養殖イカダの撤去など、色々な準備が行われた。そういった準備も夏の間には完了し、 2006年8月31日、ついにステラが日本を離れる日がやってきた。
パーキングで行われている出航式を尻目に、ステラと八郎は船内に残り、しばしの別れを惜しんでいた。
「この後はどうなるんでしたっけ?」
「予定では、一週間後に中国の上海にあるドッグに入渠して改修を行ったあと、スウェーデンまで曳航するそうだよ。改修と航海にかかる時間を考えると、ストックホルムに着くのは半年ぐらい先かな」
「半年ですか……。ちょっと長いですね」
「まあ、仕方ないよ。君がスウェーデンに着く頃には、俺もそっちへ向かうから、そこでまた会おう」
また会おう。
その言葉に、ステラの心の中は、幸せな気分に満たされる。
まだ、自分はこの人と一緒に居られる。
これからも、一緒にたくさんの思い出を作れる。
そのためなら、半年の別れも寂しくはなかった。
「……はい。スウェーデンで、また会いましょう」
そういって、ステラは目を閉じる。そんなステラに八郎も、ごく自然に唇を重ねていた。
暫しの間の、別れのキス。
この別れは、再び出会うためのものであると、2人は信じて疑わなかった。
だが、運命は無情にも、2人に最も残酷なカードを突きつけるのだった。
翌日。夜空を映して黒く染まった太平洋を、タグボートに牽かれてゆっくりと進むステラの姿があった。
「……こうしてまた、海を往く日が来るなんて、夢にも思わなかったなぁ」
自らの舳先に立って、ステラは呟く。
スウェーデンで生まれてから、79年の月日が過ぎている。
こんなに長生きできた上に、まだまだ自分を必要としてくれる人たちがいる。
そして、これからも大事な人と共にいられる。
これ以上を望んだら、それこそ罰が当たりそうなほどに恵まれた環境であった。
「……ほんと、夢みたい」
つい、そう呟いては笑みが浮かんでしまう。
だが、次の瞬間、彼女の左脇腹にチクリと、痛みが走った。
これまでに経験したことのない、痛み。
「え?」
急いで脇腹を見ると、白い服の上に、薄らと赤い染みが浮かび上がってきていた。
その赤い染みは、ゆっくりと、だが確実に広がりつつある。
そして、広がりに呼応するように、痛みも少しずつ大きくなってきていた。
「な、何なのこれ!?」
ステラは急いで自分の船体を確認する。
そして、自らの置かれた状況を知り、愕然とした。
船体の左舷に、亀裂が入っている。
そして、その亀裂から、海水が自らの中に入り込みつつある。
浸水した船が辿る道は、一つしかない。
「う、嘘でしょ?こんな、こんなことって……」
ブリッジに戻ったステラは、力なくうずくまる。
タグボートの乗組員も、ステラの傾斜に気付き、船を小さな港の入り江に入れると、状況確認を始めた。
まだ何か打つ手があるのかと、微かな期待をしながら彼等を見ていたステラだったが、日付が換わった頃、タグボートは再びステラを曳航して、沖合へと向かい始めた。
それはステラを湾内で沈没させるわけにはいかないという意味である。
つまり、もはや沈没を逃れる術はないという、死の宣告でもあった。
次第にその傾きを増しつつあるブリッジで、ステラは一人泣いていた。
故郷への帰還の最中で、こんな終わり方をするという事に、耐えられなかった。
そして何より、八郎ともう会えないという事が、辛かった。
だが、それでも、何も言わずに去ることだけは、したくなかった。
ステラは、薬指の指輪を外して手に握ると、祈った。
「……ここ、何処だ?」
八郎は、夜の街に立っていた。
見たことのない街並み。周りにある看板もみな、自分の知らない言葉が並んでいる。
道を聞こうにも、街には人っ子一人居ない。
当てずっぽうに歩いているうちに、八郎は港へとたどり着いた。
空には、数え切れないほどの星が瞬いている。
そして岸壁には白い船と、その傍らに立つ、彼女の姿があった。
「ステラ!」
八郎は、彼女の名を呼びながら走り寄る。
いつもと変わらぬ、彼女の顔。
しかし、今夜の彼女は、何か悲しそうだった。
「……どうしたんだ?」
問いかける八郎に、ステラは寂しそうに言った。
「……私、貴方に謝らなくちゃいけなくなりました。ごめんなさい」
「何で?謝らなきゃいけないようなことなんか、何もないだろ?」
言い返す八郎。だが、ステラは俯きながら言う。
「……私、貴方との約束、破っちゃいました」
「約束破ったって、何を……」
再び問いかける八郎。だが、ステラはそれには答えずに、岸壁の方を向いた。
つられて、八郎も岸壁を見る。
そこには、何も無かった。
先ほどまで泊まっていたはずの白い船は、幻のように消え去っていた。
それを見た瞬間、八郎はステラの身に何が起こったのかを理解してしまった。
「……嘘だろ……」
ステラは答えない。
「……なあ、嘘だろ?……これは悪い夢なんだろ?夢だって言ってくれよ!」
詰め寄る八郎に、ステラは悲しげに呟いた。
「……そうですね。夢なら、良いのに……」
絶句する八郎に向かって、ステラは言葉を続ける。
「でも、死にたくないって思ったとき、私、悲しかったけど、同時に、嬉しかったんです。だって、死にたくないと思えるってことは、今が自分にとって楽しい時間だってことですから」
そして、ステラは八郎に向かって、微笑んだ。
「八郎さん。私、5年間ずっと、楽しかったです。私の最後の5年間は、最高の5年間でした。だから私、これだけは伝えたくて、こうして夢に出てきたんです」
そう言いながら、ステラは頭を下げると、こう言った。
「ありがとうございました。……私、貴方の妻になれて、幸せでした」
次の瞬間。
ステラの姿は、八郎の前から消えた。
「ステラーー!!!」
八郎は、たまらず叫んだ。
だが、返事はない。
「嘘だろ……。」
そう呟いて、力なく両手を付く。
その時、八郎の耳に、ステラの声が響いた。
「大丈夫。私は沈んでも、私という存在が完全に「消える」わけではないんです。……これまでのように、貴方と話したりすることは出来ませんけど、心配しないでください」
確かに、そう聞こえた。
私は、「消える」のではないと。
「……すっかり、暗くなっちゃったな」
八郎は我に帰ると、そう呟いた。
港から見渡す海は、先程まで紅く染まっていたのが嘘のように、黒く染まっている。
見上げた空には、満天の星が光っていた。
ふと、彼女の最後の言葉が、思い起こされた。
「私は消えるわけではない。だから、心配しないで」と。
「……でも、それを確かめる術が、無いんだよな」
八郎は、ため息混じりにそう呟く。
彼女の言葉は、信じたい。
でも、言葉だけで、不安を押しとどめられるほど、八郎は強くはない。
「……なあ、あれは嘘じゃないよな?」
そう言いながら、薬指にはめた、金色の指輪を撫でる。
「あ」
その瞬間。
唐突に、八郎に一つの答えが浮かんだ。
この指輪。
彼女が渡してくれた指輪。
これは、彼女が自らの力で発現させた物だ。
彼女が完全に消えてしまったのなら、これも一緒に消えるはずなのだ。
「……そっか。やっぱり、嘘じゃなかったんだな」
それに気付いた瞬間、八郎は、不安に駆られていた心がすっかり落ち着いたのを感じた。
そう、彼女は間違いなく、どこかで存在している。
もう、2度と会うことは出来ないかもしれない。
でも、確かに、消えてはいないのだ。
ならば、会える可能性はゼロじゃない。
たとえ、それが限りなくゼロに近いのだとしても。
そう思えるだけで、十分だった。
八郎は、晴れ晴れとした顔で、空を見上げる。
頭上には、光のカーテンに彩られた、数え切れないほどの星。
優しく光る夜空に向かって、八郎は言った。
「また、いつか会える日が来るまで、ちょっとの間だけ、お別れだな」
その言葉に答えるかのように、北の空に輝く「北極星」が一際大きく、瞬いた気がした。
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