メンヘラ妹は関係ありません。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お姉さまの妹にこんなわたくしが生まれてきてごめんなさい」
絶世の美少女が私の目の前でぶるぶる震えあがって、泣いている。その姿は無邪気で儚く人間でなく妖精だと言われても納得しそうなほど美しかった。
髪はゆるく編まれ、サイドから垂らされた金髪は波打つよう白磁の首筋を鮮やかに生えさせている。
透き通った碧眼から零れ落ちる涙が宝石のようである。
周りを見渡してみると、その姿に多くの者が見惚れている。そして同時に、加害者としか思えない立場の私に対しては、背中にぐさぐさと物騒な殺気染みた視線が容赦なく突き刺さっている。
やってくれたわ、この悲劇のヒロインもどき。
私は内心で美少女…妹の『悲劇のヒロイン』爆弾に辟易しながら、少し大きめに息を吐く。それに妹はわざとかと思えるほど過剰にびくんっと身体を震わせ私の顔を下から窺っている。
その途端に、視線の矢が背中だけでなく横からも容赦なく私を振りかかってきた。
背中に見えない矢を背負いつつも、私は努めて猫撫で声で妹に声をかけた。
「マリーヌ、そんな事だれも責めていないわ。だから泣きやんで頂戴?」
ひくひくと泣き癪っている美少女は頑張って私の言葉に答えようとする。その姿は私から見ても健気で善良なお姫様そのものだった。
「いいえ。お姉さまはわたくしを責めていらっしゃるわ」
「どうしてそう思うのかしら?」
「だって、あんな恐ろしい方の所に挨拶しろって…」
か弱く小鳥が鳴くような声で批難染みた事を言われて、私は一瞬言葉を詰まらせる。
うるうるに濡れた上目使いの目は、さぞかし男共の庇護欲をかき立たせることだろう。いや、男だけではない。私自身、この目に弱い。何度、それに屈して妥協した事か…。そうした敗北の数々のせいで、今現に私はいらぬ窮地に立っているのだからある意味、自業自得だ。それでもここで妥協する訳にはいかなかった。
どう言えばこの気の弱い妹が納得してくれるか分からなくて、心の中で頭を抱え込む。
だが実行に移すようなへまはしない。それなりの分別はある。目の前の妹のような行動はできない。なぜなら今、ここは社交の場だからである。まがりなりにも公爵家の長女なのだ。自分の行動、言動が家の評判を左右すると言う自覚がある。だからこそ同じ立場である妹の目に余る行動を黙って身過ごす事はできなかった。
「この催しはポンパール公爵夫人が開催して下さったものだわ。ご存じよね?その主催者に挨拶する事は当然ではなくて?」
「挨拶はポンパール次期公爵さまにいたしましたわ。それで充分ではありませんか?」
社交界の常識を唱えたのだが、ぱんっとそれに切り返してくる。
ポンパール次期公爵って、貴方の信望者じゃない?それにまだ次期公爵と決まった訳ではなく、一つ下の弟君と後継者争いをしていらっしゃるはず…。
自分より下位の爵位主催の場合は、主催者である向こうから挨拶しに来るのが通常だが、上位や同格であれば最初に招いて頂いたお礼を述べてからその場を楽しむ事が常識である。
特に女の世界はシビアである。未婚の令嬢が挨拶するべきなのは公爵でもましてや次期公爵でもなく、公爵夫人である。逆に男である彼らに自ら声を掛けるのは、色目を使っていると思われても仕方ないのだ。そうした礼儀を通さない者はすぐに爪弾きにされる。
彼女も礼儀作法について私と同じようにその事を習ったはずなのに、なぜこの子は常識知らずな事を堂々と言ってくるのだろうか?
何もこれは今回が初めてではない。感情で動く妹のフォローはいつもやってきた。
結局、タイムアウトとなり私は敗北宣言をすることとなった。
「もういいわ。挨拶は私だけで参ります。ここで話しても変に注目を浴びて家名に傷を付けるだけだわ」
美少女が泣き出したのでもう充分に注目を浴びてしまった為に今さらではあるが、これ以上彼女を刺激するわけにもいかないので、彼女を公爵夫人の元に連れていく事を諦めた。
後で、マーヤに特別講座として礼儀作法をみっちりと仕込んでもらうしかない。
「そんな…。私は家名に傷付けたりしていません…お姉さま」
傷と言う言葉がマリーヌには責め言葉に感じてしまったようで、過敏に反応してくる。
もう話にならないと、私は持っていた扇で顔を隠しながら大きなため息を吐いた。
「身形を整えてその泣き顔もしまいなさい。今日は早めに切り上げます」
私はそう言い捨てると、まだ悲劇のヒロインに浸っているマリーヌを放って、目的の人物を探す為にホールへと足を運んだ。
案の定、妹のフォローの為に通常以上挨拶に時間を取られた。社交界に置いて決して蔑ろにすることが出来ない人物が数名いる。その筆頭とも名高いポンパール公爵夫人は成人して久しい子供が三人もいるとは思えないほど、美しく艶のある笑みを私に向けてくる。私もそれに笑顔で応じる。私と彼女の間では楽しい話題で盛り上っていると周りの者は思うだろう。だが、中身は同情、親切と言う仮面を被った嫌味のオンパレードだった。
「私の息子ったら貴女の妹に叶わぬ恋をしているみたいなのよ。ごめんなさいね。栄えある妃候補者なのに、周りをちょろちょろして…」
(王子の愛妾候補のくせに由緒ある我が嫡男に色目つかうな)
「息子から事情を聞いたけど、妹さんお身体が優れなくて挨拶することも負担だそうね。それでも私の館へは足を運んで下さるのは光栄だわ」
(身体が弱くて私に挨拶もできないぐらいなら、欠席しなさい)
「でも、お身体に差し障りがあるでしょうし、よかったら私の領地にある静養地を提供いたしますわよ」
(田舎に引っ込んでいなさい)
それに対して私はただただ平謝りするほか無かった。夫人の言い分は全くもって正しい。こうして遠まわしに言ってくれるだけマシだ。それだけに何も反論できなかった。ひたすら低姿勢で接していると、気が治まったようで逆に私を労ってくれた。
「貴女も苦労しますわね…。世の中の殿方達の見る目の無さには本当に辟易いたします。何か私の愚息が愚かな事を言い出したら教えて下さいね」
その言葉に夫人の情報収集力の一片を感じ、自ずと頭が下がった。伊達に公爵夫人として女社会を取り仕切っていない。自分の母も同じ立場であるがやはりどうしてもこの方に軍配が上がるだろう。
自分の息子が私の妹にうつつを抜かして、その分私に対してかなり剣呑な視線を送っている事をとっくにご存じなのだ。もしかすると、さきほどの妹とのやり取りも耳に入れているのかもしれない。人目があったとは言え、それほど人通りの多くない廊下での一瞬の出来事であったのだが…。
だからこそ、嫌味程度で済んだのかもしれないと頭を働かせた。
結局、私は簡潔に礼を述べることにした。
「ありがとうございます」
この地獄耳で聡明な夫人には色々言葉を並べるより、このほうが賢明である。隙は作るべきではない。こうして解放された時には精神的にだいぶダメージを貰っていた。その上、夫人と離れた事で突き刺さるような負の視線の矢が無数に放たれる。些細な攻撃だがそれでも徐々に精神力を削られ続けていた。
私は溜息をこぼさないように気を付けながら辺りを見渡す。
ちょうど綺麗に装飾された柱の後ろが空いているのを発見する。あそこなら中央から死角になっているしちょうどいい。
容赦のない視線から逃れる為に私はそちらに避難する事にした。
そこで私は気配を出来るだけ消す。だが、それは直ぐに意味のない事になった。
「聞いたわよ~。貴女、また妹を苛めたらしいね」
口元に美しい湾曲を描きながらそんな私に近付いてくるのは黒髪黒目の美女。幸いな事に、それは私には何よりも嬉しい声かけだった。彼女はにっこり笑いながら細身のグラスを一つ差し出してくる。私が好んで飲んでいる真っ赤な果実酒なのは、彼女の気遣いだろう。
それを受け取りながら私は親友である彼女の名を呼ぶ。
「エリー…」
思わず脱力したような声になってしまったのは安堵したせいだ。彼女は隣国の公爵令嬢である。ちょっとした縁で幼い時に知り合い、それから長い間文通し続けていた。
1年に1度、兄の公務に同行し、こちらに会いに来てくれていたので公に会っている。
文通でのやり取りは長く頻繁でかなり気心が知れている。だから一目で私が疲れ切ってることを悟っているのだろう。そしてS気質な彼女は、それはそれは愉しげに傷口をぐりぐりと穿ってきた。
「お久しぶりね。ツィスカ。妖精姫の取り巻きたちがこれでもかと貴方を批判していたわ。妹の美貌に嫉妬した、底意地の悪い魔女のような姉がまた麗しき可憐な姫を苦しめたってね」
はい。分かっていました。分かっていましたとも!
童話に出てくる意地悪な姉。妹が社交界デビューした時からそう言われ続けていた。
元々気が弱い妹である。デビューも乗り気でなかった。それでも公爵家に生まれた以上、義務だ。それにその当時は、コーネリアス王太子殿下の妃候補として私とマリーヌが選出されたばかりだった。欠席など出来る訳がないし、得意苦手で済む話ではない。いつまでも表に出ずにいれば邪推されて悪評が立つ可能性がある。だから、なんとか私なりに彼女にこの手あの手を使ってその気にさせることにした。別に説教したりきつく責め立てたつもりはなかった。
そして愚図る彼女をなんとかデビューさせたのだが、登場のするやいなや多くの男性の心を鷲掴みにした。
身内のひいき目を抜きにしても、庇護欲をこれでもかと刺激する儚げな美少女なのだからそうなる事は必然である。
だが、いざその場になれば私の思惑と大きく外れる結果となる。
私が妹の分まで挨拶周りをし、妹の出現で危機感を覚えた令嬢共に睨みを利かせている間に、気が付けば彼女の周りには信望者が貼りつくようになっていた。
それはマリーヌを神か至上の者として崇めるような気持ち悪い集団。下心満載な奴らであれば問答無用で蹴散らす事はできたのだが、そうではなく気弱なマリーヌを慈しむような視線で包み込んでいたし、男性だけでなくその中には女性も多くいた。そして彼らと微笑ましく談話している妹に私はほっと胸を撫で降ろした。思ったより、妹にとって居心地の良い場になりそうだからである。
だから私はマリーヌにたびたび釘を刺すだけで、一歩離れた場所から彼女を見守る事にした。それが過ちであった。
気が付いたら貼られていたレッテル。
嫌がる妹を無理矢理人の多い社交界まで連れて来ていて、放り出した意地悪な姉。
そんな姉に対しても愛情を注ぐ健気な妹。
これは外見の違いも一因だろう。
輝くように波打つ金髪に宝石にも勝るほど透き通った碧眼。小柄な背丈に少し小振りな胸の谷間。だが肌は染み一つない白磁色である。ほんの少しだけ垂れ下がった瞳がより一層愛らしさを増している。
それに対して姉である私は全て出来損ないで対極的なのだ。
金色になりそこなった明るいだけの栗色の直毛に、見ようによっては黒に見える濃い色の碧眼。身長はそこそこあるし、胸はどちらかと言えば豊満な方だ。
目は化粧していなくてもどちらかと言えば吊り上がっている。だからか、妹と同じぐらいの化粧をしても、私のほうが厚化粧に見えるのだ。
事があるごとに『意地悪な姉』と言うレッテルと貼られて、私はすっかり社交界を嫌いになってしまった。
これで、妹に悪意があればその事を追求して今の現状を回復する事もできるだろう。人を陥れる為にするような妹であれば私だって容赦はしない。
生まれた時から傍にいる妹だけに、ただ単に精神的にか弱く、思った事をそのまま口にしているにすぎない事を分かっていた。
そして、それらを信望者たちが過敏に反応しているだけである事も…。
『お姉さまが悪いのではなく、私が…私が至らないから悪いのですわ!』などと言って逆に火に油を注いでいるのも、彼女は本心で言っている。天使のような魂であると1人の信望者は言っていたが、それについては私も心から同意する。
そしてだからこそ、性質が悪いのだ。
常に迷惑を掛けられているにも関わらずに、嫌いになれないのだ。嫌いであれば、注意や忠告などしようとも思わない。
だから今の意地悪な姉の立場から逃げ出す事も修正する事もしていない。
「ここの主催者であるポンパール公爵夫人にも、妹の悪口を吹き込んでいたんですってね。そこまでして王妃になりたいのかしらね~とか、どこぞの伯爵令嬢が言っていたわよ」
ああ。彼女の為にしたフォローですらそんなふうに捉えられるのか…。
「もうどうでもよろしいですわ。エリーさえいれば、何言われようとも痛くもないですもの。久々に会えてうれしいわ」
「ふふっ。私もよ。でも、私がいるのはたった1週間ですわ。だからそろそろどうにか収拾つけないと厄介な事になるのではなくて?未来の王妃様」
妖艶な笑みを扇で顔を隠しながら見せてくる親友。愉し気で意地悪い笑みだが、そう言いつつも私を心配していてくれているのは分かっている。
とは言え、聞き流せない事もある。
「分からないわよ。決定するのはコーネリアス殿下なのですからね。正直、私は気楽な身分のままでいたいわ」
「あら?お互いの意思を尊重して下さるって聞いたわよ?貴女が嫌なら辞退すれば済むじゃないかしら?」
現在、候補は私たち姉妹を入れて四名。だが、それに強制力はない。だから、一般的には望んでその立場にいると思われているのだ。
しかしながら私がその枠を辞退しないのはただ単にその理由がないだけである。
「別に嫌って訳ではないわ。指名を受けるなら有難く承るだけよ。それに、いくら辞退できるとは言っても理由なしでは無理ですもの。それこそ、恋焦がれる相手がいてと言う事になれば、お優しい王妃様は許可していただけるとお言葉を頂いていますけどね…」
ここまで言い切ってから私は大きく溜息を一つ吐く。
「残念ながら、そんな相手いないのよね」
別に殿下だけに情熱を捧げたりはしてないが、かと言って他に目移りする事はない。
意識してそうしている訳ではなく、そもそも悪評高い私の視界に入ってくるような未婚の男性がいないだけだ。
既婚者は何故か寄ってくるのだが……。
これも私の悪評を高めている一因である。
とりあえず義務は果たしたし、老若男女誑し込んでいる妹を回収してもう帰ろう。
エリーから受け取った果実酒を一口だけ飲む。
「エリー、私はそろそろお暇するわ。明日、じっくり話できるのを楽しみにしているわ。そちらの国でエリーがお勧めする方のお話でも聞かせて頂戴」
本気で言っている訳ではない。
周りの音にかき消されエリーぐらいしか聞こえない程度の音量だったが、第三者がそれに返答を返してきた。
「じゃあ、立候補してもよろしいか?」
声を掛けられたほうに振り向いて思わず息を飲み込む。そこにいるのはかなり目力のある精悍な男性。一本に括られ横から垂らされた黒髪に、黒目。
その色彩に顔立ちはどこかで見た覚えが……。
頭に浮かんだ疑問はすぐにネタ晴らしをされることになる。
「あら?お兄様」
エリーの言葉にすんなりと疑問は解消された。そうだ。この目の前の親友に瓜二つまではいかないが、濃い血の繋がりを感じる容姿を纏っているのだ。
しかし、エリーと仲良くなってから結構月日が経つが会った事もない。数回、エリーの国に行った時もいなかった。主に外交を担当しているようなので、自国にいる事が少ないのだろう。
エリーたちは昨日にこの国に来日したばかりなので、これが初めての対面である。
「挨拶もなしに私の親友を口説くのかしら?軽薄なお兄様。私はかなり待ちぼうけさせられていましたのに……」
「ああ、それはすまない。中々、一人になれなくてね。やっと一息付いた所なんだ。一緒に過ごさせて欲しいな」
「もちろん。お帰りなさい」
目の前で行われる美しい兄妹同士のやり取りをただ見守っていた。憎まれ口を叩いているが、表情は柔らかく仲良いのは間違いないようだ。エリーが『兄様はまるで綿帽子のようにふらふら異国に飛んでいくので、ほとんど会えないのよ』と珍しく愚痴をこぼしていたのを覚えていたので、純粋に良かったなと思う。
お邪魔になってしまうし、挨拶だけして帰ろう。妹をいつまでも放置できないし……。
そう思いながら私は少しだけ前に進む。その気配に気が付いた男性とエリーは一斉にこちらに振り向く。どちらも目力が強い美男美女なだけにその四つの目が自分に集まると、少し圧を感じてしまう。
「それはそうと、お兄様。先ほどの話しは、本気かしら?遊びなら私、絶対許さなくってよ」
「聞き耳立ててしまってすまないね。ただ、本気なのは確かなのでそちらの魅力的な令嬢を紹介してくれないか?エリー」
エリーはその言葉に目でどうするかと聞いてくる。私はエリーの兄である以上、知り合いになりたいと思ったので自ら名乗ることにした。
「兄妹の久々の再会に割り込む形ですみません。挨拶だけさせて頂きます。私はツィスカ・ディ・ソヨナデルと申します。高名なベプヂーア次期公爵様にお会いできて嬉しゅうございます」
「それはこちらの台詞ですよ、ツィスカ嬢。妹のエリーとの会話に割り込む形になって申し訳ない。インディ・バン・ベプヂーアと申します。ソヨナデル公爵家の秘宝とも言われる令嬢の、噂に違わない美しさをこの目に出来て光栄です」
エリーの兄……ベプヂーア次期公爵の挨拶に含まれた言葉を聞いて、私は軽く落胆を覚えた。
「あら、残念でしたね。秘宝と呼ばれるのは私ではなく妹の方ですわ」
ソヨナデル公爵家の秘宝。
少なくとも今そう呼ばれているのは妹のほうだ。
私が社交界デビューのときもそれなりに整った容姿に騒がれた。その時に囁かれたのが誰が発信か分からないがその名称だったのだ。
しかし、それはたった一年で妹の名称になる。
妹は極上の混じり気のない宝石で、私は二級品扱い。イミテーション扱いでないだけマシだと思っている。
もうすっかり慣れてしまったが、エリーの兄に間違われるのは少し辛いものである。
「私がこの国を訪れたのは三年前だったからね。だから、私が言っている秘宝は貴女ですよ。ツィスカ嬢。もっとも、貴女のデビュー間もなかった頃なので遠くからしか見れませんでしたが……」
自分を見てそう言ってくれている事は純粋に嬉しい。だが、それ以上の感情は沸き起こらない。いや、起こらないように無意識に気を静めていた。
私の妹を一目見れば、その考えも覆ることでしょう。
「でしたら、ぜひ妹をご覧ください」
「ああ、先ほど見かけたよ。確かに稀に見るような美少女ではあったけどね。失礼だけど、それ以上の感想は持てなくてね。魂を揺さぶられるのは、間違いなく目の前にいる令嬢だ」
不躾にならない程度に、熱い眼差しを真っ直ぐ向けられて、頬がわずかに熱を帯びてくる。
少し大げさな社交辞令でしかない。
だから、冷静に笑顔で躱せばいい。長年、そうした社交術は身に着けてきた。しかしここだけはそれを駆使する事ができなかった。
「ベプヂーア次期公爵様…」
ただ彼を呼ぶことしかできない。困惑した気持ちを表に出さないようにする事しか私はできなかった。そんな私に彼は容赦なく、攻撃の手を止めない。
「貴女にはぜひ、インディと呼んで頂きたい。先ほどの話が誠、真剣であるならこの私で考えて下さい」
そう言うと軽く膝をついて私の手の甲に口付けをしてくる。
「まあ、お兄様。驚きですわ、本気ですのね。でも、ツィスカがお義姉様になるのは大賛成だから応援はするわ」
私の気持ちなど良く分かっているはずのエリーが何故かここで彼の味方となった事で、私は孤立奮戦しなければいけない事を悟る。
扇で一度顔を隠してから小さく息を吐く。それから私は自分の現状を思い出す。
エリーの兄…インディの言葉に歓喜を覚えてしまったのは確かである。
いつも比べ続けられていた自分と妹。卑屈にならないでいる事を意識して行っていた。それでも、心のどこかで自分だけを見てくれる相手を切望していた。
彼の真意は分からないが、誰よりも信頼している唯一の友であるエリー。彼女の兄で彼女自身が応援するとまで言っているのだ。だから、彼の言葉は信用に値する。
しかし、同時に突き付けられるのは、その言葉を決して受け入れる事はできないと言う現実だった。
「……私はコーネリアス殿下の妃候補でございます。だから、さきほどのお言葉は聞かなかった事にいたしますわ。では、エリー。そしてベプヂーア次期公爵様。本日は楽しい時間をありがとうございました。そろそろお暇させていただきます」
軽く頭を下げてから私はくるっと背中を彼らに向ける。そして早足にならないように気を付けながら、そのまま出口の方へと移動した。
喉の奥に何かが刺さったような不愉快さを感じつつも、私はそれを表情に出さない。
笑顔を顔に貼り付けながら、数人に挨拶をしつつ妹の姿を探す。
妹はすぐ見つかった。
会場とつながる園庭の端。愛らしいドレスを広げて一人だけ椅子に腰掛けている。その周りには有望と呼ばれる容姿端麗な青年たちが張り付いて妹をちやほやしていた。
私は笑っていない笑みを浮かべつつ問答無用でその異様な光景を中断させる。
妹に帰宅命令をかけ、不機嫌を隠そうともしない青年どもの殺人的な眼光には笑顔の盾で応戦する。
そして公爵家の馬車に妹を押し込み、連れて帰る。
その道中。
私は先ほどの出来事を思い出さないようにしながら、さっそく妹に説教する事にした。
「マリーヌ」
呼んだだけで肩を大きく震わせる美少女。本気で恐れられているのが良く分かる。
ダメだ。何を私が言っても彼女には響かないわ。やはりお母様かお父様にお願いしましょう。
それでも、一つだけ……。
「……貴女も私もコーネリアス殿下の妃候補なのです。それに恥じない振る舞いをする必要があります。その事を忘れないで」
いくつもある彼女に言いたいことをぐっと胸に納めて一つだけ忠告をする。
だが、たったそれだけで彼女は両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくり始めた。
「全部私が我がままだったの…。私がお姉さまと同じでコーネリアス様の妃候補になっていたのが間違いなんだわ!」
泣き出した妹を見て、私のほうが泣きたいと感じてしまう。そんな私の気持ちなどお構いなしにマリーヌは私に感情をぶつけてくる。
「わたくし、お姉さまが本当に怖いの…。コーネリアス様の妃候補って事で苛められて傷付いているのに、同じ立場のお姉さままで私を責めるなんて…。もう怖くて怖くて…。そのお姿を見るだけで、わたくし居た堪れなくなるのよっ!」
その言葉を聞いた瞬間。
まるで自分の足元が砂上の城を踏んだ時のように崩れ落ちていくような錯覚を覚えた。
それでいて自分自身がひどく薄っぺらな存在のように感じてしまう。
「お姉さまがコーネリアス様をどうしようとご自由です。だから……だから……、わたくしに構わないで……」
震えたマリーヌの声が胸に刺さる。
その小さな棘で、自分の中で決して飛び越えてはいけないと自制していた柵に小さな亀裂が走ったのが分かった。
一旦傷が入ってしまうと呆気なくその柵は砕け散り、激しい感情の渦へと飲み込まれていく。
「そう……」
小さく零れるのは意味のない言葉。それ以外私は何も言えなくなった。
気まずい空気のまま、私たち姉妹はガタガタと揺れる馬車の中、沈黙の時を過ごす事となった。
一度崩壊してしまった柵。もう決して元には戻らない。
私はこの日ある決意を固めた。
・・・・・
・・・
・
「本当に決意は固いのかしら?ツィスカ」
エリーに訊ねられて私は迷うことなく大きく頷く。
「ええ。もう身内に宣言してきたし、封書も王妃様宛の嘆願書も用意したわ。後は、僻地に身を隠すだけよ」
そう。私の決意とは、栄えある妃候補を辞退する事だった。あの日の夜。私は両親に必死に懇願した。いきなりとんでもない事を言い出した私に、兄も両親も長々と説得し続けた。だが、私の気持ちは硬かったので少しも揺らがなかった。
そうして1週間ほどの攻防の末、私は見事身内の説得に成功したのだ。
それが昨日の事だった。
理由もなしに辞退する事は不遜に値するのは良く分かっている。だから、私は不治の病になった事として公爵家の領地で一番僻地である小さな館で一生を過ごす覚悟を決めた。最終的に修道院に駆け込むと脅したのが決めてだったみたいだ。
「コーネリアス殿下の事はもういいの?」
痛いところを付かれて、私は少し黙り込む。仮とは言え、婚約者候補である殿下。文武両道で容姿端麗であり性格も温厚で非の打ち所もないお方だけに、好ましく思う気持ちは常にあった。
候補者の一人に過ぎない自分にも優しく、何より同じ候補者のマリーヌと平等に親しく接してくれていた。
だから情を切り離すのは難しい。それでも、私は彼との縁を断ち切ることを選んだ。
「候補者は後、三名もいるわ。それにね……」
ここで、私は今まで秘めていた内心を暴露する事にした。
「今まで黙って妃候補になっていたのは、殿下の為でなく、マリーヌの為ですもの」
幼いマリーヌが絵に描かれたコーネリアス殿下に憧れを抱いていたのを両親が知り、彼女を候補の一人にすべく働いたのだ。
ただ、無邪気で傷つきやすい彼女だけを候補として上げる事に懸念している両親に、私はある提案を持ち掛けた。
一緒に候補者となりましょうか?と……。
私の意図をどこまで汲んでくれていたのかは分からない。悩みつつも両親は結局、私たち姉妹二人共を妃候補に仕立てた。
実際に候補になってみて、その選択が正解だったと思い知る。
妃候補である事は、思っていた以上に悪意に晒された。他の候補者を支援する貴族からは少しでも瑕疵がないか監視され続ける。
それに気が付いた時、私は出来る限り両手を伸ばして妹の盾となった。
妹を苛める姉としての悪評も妹の評判を損なわない為になるので、積極的に消そうとはしなかった。私自身にその気がない分、両親や兄がいくら消そうとしてくれても、元火までは消えない。
妹が無事、妃候補でなく、婚約者になる数年の事だ。それまでは……。
その使命感で私は意地悪な姉の汚名を甘んじて受けていた。
だが、そんなお節介もあの子にはただの煩わしいものでしかなかった。
それを本人の口から告げられた瞬間、必死に積み上げていた私の世界は崩壊した。
何とか無理くりでも身内から了承を得て、すぐに私は荷造りをする。もう決意は固かったので、説得しながらある程度並行してやっていた。だから、半刻もいらなかった。
そしてほとんど家出当然で家を抜け出してきた私は僻地に行く前に最後に一度だけと、1週間滞在して明日帰国するエリーの豪華旅館に足を運んだのだ。
事情を聞いたエリーは珍しく驚いた顔のまま固まっていたがすぐに回復して、再確認をしてきたと言うわけである。
「ツィスカ……思い切ったわね。本当に不器用なんだから。どうして、そこまで……」
「本当ね。私もバカだと思う……。でもね、エリー。彼女のせいで色々悲しんだことあったけど、それでも彼女の事恨んだことはないわ。妹を思う気持ちは見栄でなく本物なの。それでも、今回、彼女から私と言う存在そのモノを否定されて目が覚めたわ。私は彼女の影ではない。私だって、自分の人生を歩みたいの」
「それが、どうして田舎に軟禁状態になるの?何も悪い事してないんだから、おかしいわ。このお人好し。どうせ、身を隠すのも妹の為なのでしょ?」
呆れた口調でそう決めつけられたが、私はきっぱりと否定する。
「違うわ。エリーは誤解している。私はお人好しでもなんでもないわ。だって、責任を放棄するんですもの」
これだけは言える。まるで逃げるように身を隠すのは、マリーヌの為ではない。自分が彼女の傍にいる事に耐えられなくなったのだ。
ある意味、ヒロインぶるマリーヌに対しての当てつけに近い。
私はこれから起こるであろう混乱が手に取るように分かる。
今まで悪意や好奇の目を私は意識してこの身に受けていた。マリーヌの前にわざと立ちながらである。その盾がいきなり無くなるのである。
さらに先日まで悪意に晒されながらも平然とした顔で、社交界に居座っていた私。そんな私がいきなり不治の病気になり、静養する事になった。
そう聞けば、間違いなく色々な推測が沸き起こり、マリーヌは好奇の目に晒されるだろう。
それをあの気弱なマリーヌに耐えるだけの気概はない。まだ子供じみた考えから大人に成り切れていない妹。彼女が今後に大きな失態を犯し評判を下げるかもしれない。いや、そうなる可能性は高い。
それを心配だと思う気持ちはある。だけど……。
「傍に居ればどうしても手を差し伸べてしまうからね。だから見る事もやめるの」
見る事を止めればフォローする事は不可能である。
彼女自身が私に告げた言葉。
『私の姿も見たくない』
これはある意味、最強の免罪符である。
彼女が望み通り、縁を切らせてもらう。彼女を支える影としての役目を放棄するのは、私が根を上げたのではないので、罪悪感は少なくて済む。
「両親が困ろうと、兄様が困ろうと、マリーヌが困ろうと、もう私の出る幕ではないわ。公爵令嬢としての役目を果たすのは何も殿下との結婚だけではないしね。ほとぼりが冷めてみんなが無関心になればこそっと、有能な貴族の後妻にでもなるわ」
ここまで言って初めて気が付く私の身内への僻み。
心の片隅で、幼い私は涙を流していたようだ。同じ立場であるはずの私とマリーヌとの扱いの差。母にしても父にしても兄にしても、私に優しかった。だが、それ以上にマリーヌに甘かった。マリーヌを中心にわが家は動いていた。私もマリーヌに甘くなる事を無言で求めていた。
だから、マリーヌの影になる事も当然のように受け入れていた。
今回の候補辞退。私は私の為に生まれて初めて自分の意地を通した。そんな自分を誇らしく感じる。まるで新しく生まれ変わったような心境だ。
「おバカね。後妻になんかさせないわよ。それに、田舎になんか行かせないわよ。ツィスカ。覚悟しなさい。こうなったら、私の国に拉致します」
「え?」
「お兄様を選べとは言わないわ。うちの国も、それなりに粒ぞろいだから色々紹介してあげる。だから、うちの国に嫁入りしなさい」
「ありがとう、エリー。貴女が男なら絶対押しかけ妻になったのにね。でも、デリアル第三王子に死刑にされちゃうわね」
エリーを溺愛しているエリーの国の王子で婚約者の名を出す。
「ふふ。ツィスカを死刑にさせるぐらいなら婚約破棄して私も田舎に引っこむわ。男に生まれなくて残念だわ」
しばらく私たちは笑い合う。やはり彼女との一時は私にとって癒しだ。
「ありがとう。でも、私、決めたの。取りあえず、当初の予定通り僻地に行くわ。静養すると告げてしまったしね」
私の固い決意を聞いてエリーは、大きく溜息をつく。
何とか引き留めようとする彼女。結局、一晩は泊めてもらう事にした。だが、その判断は間違っていた。
次の日に事態は思わぬ方向に急展開していた。
何故か私は馬車の中にいた。
いや、もともと僻地に移動するつもりだったので、予定通りである。しかし、方向が逆方向である。それに、目の前にいる人物も……。
「何?どうかしたかい?」
柔らかく甘さのある視線を私に送ってくる男性。一週間前に会ったばかりの青年だ。彼の肩に寄りかかるように私の親友が寝ている。
「ベプヂーア次期公爵様……」
「貴女にはインディとぜひ呼んで頂きたいと」
「……インディ様。どうして私は……」
呼ぶのに躊躇したが、そんなやり取りする時間も惜しくて言われるがまま名前で呼ぶ。そして何度目かになる質問を口にした。
その答えは分かっている。分かっているが、認めたくない。
「我が国で治療を受ける為だって、エリーから説明受けなかったかな?」
そう。この豪勢な馬車は早朝から隣の同盟国へと走り続けていた。
どんな手を回したのか本当に謎なのだが、たった一晩でベプヂーア公爵家で最新の医療でもって私は治療されることになった。
これは、うちの両親だけでなく、何故か王妃様からの勅命と言われてしまえば従うしかない。
あれよあれよと言う間に、私の荷物はうちの馬車から彼らの馬車に移される。そしてエリーとインディのよって拉致同然で馬車に乗せられたのだ。
「治療と言っても、それはあくまでも表向きだけですわ」
仮病なのだから、治療の必要などない。そんな事をこの兄妹が分かっていないはずがない。
「エリーから聞きました。貴女はこれからは自分の人生を歩みたいと」
そう言いながらインディは落ちそうになっているエリーの頭の位置を正して、自分に持たれさせる。かなり疲れている様子のエリーはそれぐらいで起きようとはしなかった。
「ならば、貴女の家の領地より我が国の方が今までの柵からは解放されるだろう。それに、エリーの兄としてお願いしたい。この子の傍にしばらくいてあげてほしい」
エリーの事をそんな風に言われるとは思っていなくて、思わず彼の顔を見上げる。寝ているエリーの顔を眺める彼の目は妹を思い遣る優しい光を帯びていた。
私は黙って彼の次の言葉を待つ。
「性格もこのようにキツイせいもあるが、幼い頃より第三王子の婚約者と言う事で、他の者は遠巻きにしか接してないんでね。久々にこの子の真剣な顔を見た。本当に貴女の事が好きで大切なんだね」
そう言われて、気が付く。おそらく私が寝た後に、この兄妹はかなり強硬な手段を使って、私が同行できるようにしてくれたのだろう。
それこそ寝る暇もないほどに。
他の誰でもない、私の為だけに与えられる優しさ。エリーの事もただの口実なのは明白だ。
与えられるだけでなく、きちんとそれ以上のモノを返したい。
でもそのためにも、今はこの好意に甘えさせて貰おう。
私は彼の大きく頭を下げながら、お礼を言う。
「私も同じですわ。誰よりもエリーの事が大切です。あなた方のご厚意に対して失礼いたしました。ありがたくお世話になります」
この時、彼らのおかげで私は今までの人生で何よりも最優先していた妹との決別する事ができた。
正直、新しい世界に不安は多い。妹や家族から自ら距離を置くことに罪悪感や後ろめたさはぬぐえない。それでも、私の胸は生まれたての赤子のようにドクンドクンと聞こえそうなほど高鳴りを続けていた。
外国にいるだけに妹の詳細な情報は私の耳に入ってこない。おそらく、傍にいる兄妹があえて入れようとしないのだろう。他の情報はかなり教えてもらえるのだから、それは確実だ。
だが、私からわざわざそれを聞くことはなかった。
そして結局、他の候補者が皇太子の婚約者になった事を知ったのは、私が他国の次期公爵との結婚式の日であった。
少し蛇足な裏設定:
・両親や兄は主人公を蔑ろにしていた訳でなかったけど、すぐに感情をあらわにするマリーヌから目を離せなかった為に、少し空気扱い。今回、ツィスカが自分の意志を初めて言った事で反省して、最終的に辞退する事を許した。
・マリーヌ自身に悪意はなく、ツィスカの事も嫌いではない。ただ、ツィスカは自分の事を嫌っているという被害妄想あり。→だからこそ、たちが悪いとも言う。
・実は王太子や王妃は、ツィスカを婚約者にしようとしていた。だが、評判が良くないので、文官などから難色を示されていた。それを説得中に、ツィスカの方から辞退されてしまった。王妃が隣国にツィスカが行くことを許したのは、マリーヌを候補からすぐに外しその悪評を打ち消す為。すぐに呼び戻すつもりだったが、インディとの婚約(偽装)願いが届いた為に諦める。
皇太子は逃がした魚への気持ちに後から気が付いて、早く動かなかった自分を責めているとか、いないとか……。なんにせよ、もう手遅れですね。
マリーヌは候補から外されて今でも悲劇のヒロインとしてメンヘラ発揮して、いろんな貴公子を侍らしているのかな?
※別視点も書きましたので良かったらそちらも一緒に読んで下さると嬉しいです。