秋の夜長と秋刀魚と猫と
じゅわあーっと、熱せられて零れた脂が子気味良い音を立てた。
「ああ…良い音♪」
目を細めると、横で愛猫スケ(本名:湯原これでも女の子助太郎衛門二世── 長ければいいってもんじゃないだろう── メス・そろそろ五歳)もつられたように目を細める。
全体は白だが、お腹から背中にかけて茶色と黒のマーブル模様があるので、おそらく三毛猫という種族である彼女は、先程から日頃では近寄りもしないわたしの横で鎮座ましましているのだ。
彼女の狙いはただ一つ。
わたしの前で実にいい具合に焼けている秋刀魚を相伴にあずかりたいのだ。
この間、実家で発掘した骨董品の七厘の上に乗せた金網に、二匹仲良く並んでる秋刀魚は、脂がのっていて実に旨そうである。
立ち上る煙を追いかけて見上げた空は、丁度日暮れから完全に夜になる瀬戸際。
高みは沈んだ暗く鈍い濃紺、地の際は薄ぼんやりとしたラベンダー。その微妙なグラデーションを見る度に、何処からともなく郷愁の念が去来する。
得てして、秋という季節は人を感傷的にするものである。
そんな事を思っている横で、スケは呑気に欠伸などをしてくれるのだから、小憎らしい。
お猫様には日が昇ろうと落ちようと、さほど重要な問題ではないだろう。だが日頃、コンクリートジャングルで暮らす人間にはそういう時がきっと必要なのだ。
ふと昔、自分の中に確かにあった懐かしさと対面する── 少しばかり気恥ずかしい時間が。
煙を避けながら、秋刀魚を引っ繰り返す。ちょっと片方、尻尾がもげたが、まあどうせわたし(かスケ)のお腹に納まってしまうものである。これもまた愛嬌ってやつだ。
そうして、わたしは急いで部屋の奥に駆け込む。目的地は台所だ。
冷蔵庫を開けて、そこにキンと冷えた吟醸酒を確認し、わたしはつい口元をだらしなく綻ばせてしまう。
夏に問答無用に情緒もへったくれもなくビールを口にしてしまった事が悔やまれるほど(いや、あれはあれで他の何にも変えられない美味なのだが)、秋から冬にかけての日本酒はわたしの心のオアシス的存在なのだ。
しかし、それはまだ確認だけでいい。本命は野菜室で待っていた。
白く滑らかな肌を持つ── 大根様だ。
それを取り出して扉を閉じる。やはり秋刀魚に大根下ろしはあって欲しい。塩を利かせた香ばしい身に、この微かに夏の名残りのように辛味がある甘味が合うのだ。
スケが、待ち遠しそうにこちらに寄ってくる。それを認めながら、適当に大根を切り、皮を剥く。
独特の淡い甘い香気が鼻孔をくすぐり、わたしは嬉しくなってそれを下ろしがねで擦り下ろしながら、鼻歌なんかを歌ってしまう。
それを聞いた途端、スケがくるりと向こうに舞い戻ってしまったが、どうせ畜生にはわたしの高尚な音楽センスなどわからないのだと、自分に言い聞かせて己を慰めた。
遠くでぱちぱちと爆ぜる音。まるで急かすようだ。
香ばしい匂いが漂い、スケが細くニャオンと鳴いて、そろそろ頃合だと訴える。
大根下ろしを鉢に入れると、食器棚から皿を取り出し、箸を食卓の上に並べた。
居間の戸棚から、特別な時の為の秋空色の吹き硝子の猪口と徳利を取り出し、冷蔵庫で冷えている日本酒をそれに移す。
そして、首を長くしてスケが待つ庭先へと舞い戻った。
七厘の上で焼き上がった秋刀魚を用意していた皿にそろそろと移す。居間に舞い戻ると、スケももちろん当然のようについてきた。
ここでまた鼻歌を聞かせたらどうなるだろう、などと益体もない事を考えながら、いい匂いのする秋刀魚を食卓へ。
これで準備万端── いや、最後に一つやり残していた事がある。何よりも大事な事が。
秋刀魚を置いたまま部屋を出るのは非常に気になったが、そこはスケの理性に期待する事にしよう。
足早に奥の寝室に行き、書き物机の上に乗っている『たーさん』の写真を持って、再び居間へ。
スケは家猫らしく、忍耐強く食卓の下で待っていた。その頭を軽くなでてやってから(かなり迷惑そうだった)、写真立を卓上に載せる。
夕暮れの薄暗い部屋の中で、『たーさん』は夏の姿のまま笑ってそこにいる。
椅子に腰掛けて、『いただきます』。
取り出した猪口は二人分。
一つは私、もう一つは…スケでない事は確かだ。
皿の上の一匹を半分にしてから、横で今の一瞬の為に待ち続けていたスケに分け与えてやる。この為ではないが、彼女の食卓(?)はテーブルの下にあるのだ。
猫舌には熱いだろうに、待ち切れずに直ぐ様がっつくスケを見てから、すっかり汗をかいた徳利を傾けて、まずは差し向かいに置いた写真立の前の猪口に注いでやる。
気のせいなのはわかっているけれど、『たーさん』の笑顔が深くなったように思えた。
…そしてわたしの猪口へ。
大根下ろしをたっぷりのせて、少し醤油を垂らして。口に入れると、美味しさと一緒に何故だか切なさが胸に込み上げてきた。
── 去年まで、秋刀魚を焼くのは『たーさん』の仕事だった。
「…美味しいよ。今年も、秋刀魚……」
秋はほんの些細な事で人を泣かす。
次に口に入れた秋刀魚は、醤油よりも仄かにしょっぱい涙の味がした。
足下でスケが無心に秋刀魚を食べている。大好きだった名付け親がいなくなっても、彼女はたくましく日々を生きている…わたしと違って。
春夏秋冬、季節が巡る度にそれを思い知るかもしれない。
秋の夜は長い。
だから、そんな物思いも許されるに違いない。大丈夫、わたしも強い。また明日からは笑顔で毎日を暮らせるはずだ。
でも、今は。
秋の夜長に、秋刀魚と猫と。今はいない貴方の事を思い出す。
今から10年ほど前に書いた作品を一部加筆修正したものです。
一人称・現代が舞台と、異世界系かSF系を書く事が多いわたしにしては珍しい作品です。
元々食べ物の描写が上手い作家さんが大好きで、自分でも頑張ってみたのですが…さて、美味しそうに書けているでしょうか?