僕はいつも1人だった。
最後まで1人でいるつもりだった。
それなのに、突然現れた1人の道化師が、それをぶち壊してしまったのだ。
白い光をたたえる薄暮の中で、彼が纏う闇色のマントは、翻るたびに周囲の色を際だたせた。
僕は呆然としてそれを眺めた。
彼は、にこにこと愛想笑いを浮かべながら、まるで僕を以前から知っているかのように親しい口調で、こう話しかけてきた。
「 ごきげんよう。
あなたはなかなか珍しいものをお持ちですね。
そして、
とても変わった場所に立っておられる。
不思議な方だ。
そこから何が見えますか。
見たいものが見えますか。
ねえ、
ばかなことを考えるのはおやめなさい。
考えれば考えるほど、
人は何も見えなくなるのです。
そう例えば、
自分の存在価値とかね」
僕は何も答えなかった。
もともと喋るのは得手ではなかったし、いきなり目の前に現れたこの男が、一体何を言っているのか、あまりよく理解できなかったからだ。
男はそんな僕を見て、くすくす、と無邪気に笑いながら両腕を広げた。
そしてダンスを始めた。
「 何も難しく考えることはない。
ひどく簡単なことですよ。
私にあなたの真似が出来ないのと同じように、
あなたにも私の真似は出来ません。」
くるりとターンして、真っ黒な道化師はにっこりと笑った。
冷たいコンクリートの上で、踊りながら話すその姿は、滑稽を通り越してもはや不気味だった。
「 おや、理解できませんか。
つまりはこういうことなんです。
私はあなたになれないし、
あなたも私にはなれないのです。
誰かの代わりなんて、
誰にも務まりはしないんですよ。」
そう言うと、道化師は大げさに溜め息を吐きながら、胸に手をあてて空を仰いだ。
「 ああ、
人とは無力な者ですねえ。
世界にはこんなにも沢山の人がいるというのに、
その中の誰も、
あなたの代わりになれないんだから!」
こちらの息が詰まるくらい悲壮な表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間にはもう笑っている。
くるくると変わる道化師の表情は、僕をからかって遊んでいるようにも見え、しかしその実、僕とは全く別の次元に存在しているようだった。
この世ならぬ者が、気まぐれに舞い降り、気まぐれに僕に話しかけているだけなのだ。
もしくは、僕の妄想が作り出した、ただの取るに足らない幻なのかもしれない。
目を閉じれば消えてしまうほどの、儚い影だ。
それなのに僕は、その黒い道化師から目をそらすことが出来なかった。
彼の話す内容に興味があったわけでは、決してない。
にもかかわらず、どうしても惹きつけられずにはいられなかった。
道化師は、そんなふうに硬直している僕を見ると、それはもう面白そうに、けたけたと笑った。
真っ赤な紅を塗りたくった唇が、にんまりと弧を描く。
「 何も、
難しく考えることはない。」
闇色のマントを、ばさばさとまるで翼のようにはためかせ、道化師が呟いた。
次の瞬間、彼は僕の目の前にいた。
マントと同じ闇色の瞳の中に、真っ青なサファイアのような光を見つけ、僕は思わず息を呑んだ。
道化師が嗤う。
「 ひどく簡単なことですよ。
つまり、
あなたはあなたしかいないということ。
あなたは1人で、
あなた以外のあなたは存在しないということ。
ですから、
他には誰もいないのです。
あなたは、
あなたの他には。」
ぞわぞわと何かが背筋を這い上がっていく。
僕は掠れた声で、来るな、と囁いた。
それを聞いた道化師は柔らかく目を細め、芝居がかった動作で肩をすくめた。
「 誰にも、
あなたの代わりを務めることなど出来ません。」
まるで睦言のような甘い声。
もう一度、瞬きをすると、彼は既に僕から離れていた。
離れた場所で、くるくると回り、楽しそうに踊っている。
マントの中から赤い縦縞のズボンが見えた。
靴の先はとんがっていて、彼が踵を打ち鳴らすたびに、その靴はカンカンと小気味よい音を奏でた。
かん、かん、かん。
かん、かん、かん、かん。
かん。
コンクリートに反射した音が、何回も何回も、僕の耳を叩いていく。
規則的なそのリズムは、まるで心臓の鼓動のように温かく、それでいて無機質な硬さを併せ持っていた。
やがて道化師が首を傾げて僕を見た。
「 わかりましたか。
つまり私はこう言っているのですよ。
あなたは1人しかいない。
そして、
その穴を埋められる人間は1人もいない。」
ダンスを止めて、彼は静かに言った。
その頃には、もう僕は体の力が完全に抜けてしまって、立っているのがやっとの状態だった。
口もきけない状態で、ずるり、とその場に沈み込んでいくのを待つばかり。
道化師はそれを見ると、ああやはり私の言うことは正しいのですね、と嬉しそうに呟いた。
「 それならば、
さぁ早く、
その手に持った銃をお捨てなさい。
そんな人間ごときが作ったオモチャで、
あなたの魂が救えるものか。」
道化師が、今度はゆっくりと、僕に近づいてくる。
一歩、一歩。
ゆっくりと確実に。
僕の方へと、近づいてくる。
「 あなたは哀れな人間だ。
そこから飛び降りたところで、
鳥のように羽ばたくことは出来ないし、
その銃で頭を打ち抜いたとしても、
苦しみから逃げ出すことさえ出来はしない。
ああ、
人とは可哀想なものですねえ。
死んでも生きても、
私のような存在につきまとわれる。」
僕は呆然とした。
現実感のない、まるでおとぎ話の世界に放り込まれたような感覚だった。
いま自分は劇場の中にいて、遠く離れた席から彼の芝居を眺めているのだと、そんな気分にさせられた。
くすんだ灰色の視界の中で、赤と白の滑稽なメイクがやけに浮き立つ。
僕は無意識に、あなたは神なのか、と彼に問いかけていた。
彼は笑って首を横に振り、けれどそれに近い存在かもしれません、と穏やかな表情で呟いた。
「 私は何者でもない。
ただの気まぐれな道化師です。
あなたのような風変わりな人間に出会うため、
光と闇の狭間を飛び回る、
ただの愚かなピエロです。」
がらんどうな屋上を、ひゅうひゅうと吹き抜けていた冷たい風は、いつの間にか止んでいた。
僕の手から、ごとっ、と小さな鉄のかたまりが落ちていった。
沈みゆく太陽の残滓が、周りに薄い影を作り出す。
その影の中で道化師は微笑んでいた。
そして僕の手を引いた。
「 お立ちなさい。
生きるのです。
あなたが死んだら困るのですよ。
誰も、
代わりがいないのだから。」
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