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頬に残る紅いあと
作:雪場



 いつもと変わらない、のどかな日差しが窓からやさしく差し込んでくる昼下がり。
 少し恨めしそうに窓の外を眺めてから水の張った黄色のバケツに雑巾を浸し、固く絞ってから本棚の上を拭く。
 普段なら書斎の椅子に座って、新作の推理小説を読みふける、一日で最も有意義なひと時も、今日ばかりは過ごせそうにない。

 「ったく、なにも今日やんなくたっていいじゃねえかよ…」

 ぶつぶつ言っていいながらも、雑巾は順調にクリスティの棚を過ぎ、コリン・デクスターの領域に差し掛かっていた。
 半年に一度の大掃除。
 普通の家ではそういう類のものは、年末に一度しかやらないものなのだが、工藤家では、『半年に一度、妻が言い出したときにやる』が家訓となっているのだから仕方ない。
 夫よりも妻のほうが平素強い権限を持っているのは、きっとあの親譲りだろう…。

 「ま、しょうがねえか」
 多少割り切れない思いをため息と共に吐き出して、また水拭きを再開する。
 早く終われば、一冊ぐらい読めるかもしれないな…。
 前向きにそう考えて、少し気が乗ってきたちょうどそのとき、


 「パパ、この写真、なあに?」
 書斎のドアが開いて、あの小さな愛らしい声がした。

 「ちゃんとママのお手伝いしてないと、後で怒られるぞ」
 あどけないわが子のおでこを人差し指で軽く衝いて、その小さな手から一枚の写真を受け取った。

 「ああ、この写真か…」
 しばらく見てなかったから、てっきり間違えて捨てたと思っていたけれど、どこかの本の隙間にでも入り込んでいたのだろう。
 懐かしさと共に、思わず苦笑いが込み上げてくる。

 オレのほうを指差しながら悪戯っぽく笑ってる服部。
 不機嫌この上ない、といった様子のおっちゃん。
 服部の頭を片手で抑えて、ちょっと心配そうにオレを覗き込んでる和葉ちゃん。
 その三人に囲まれた真ん中には、純白のウェディングドレスに身を包んだ蘭と、
 左頬にくっきりと赤い手形を残したまま、引きつった笑みの…オレ。


 「よし、今教えてあげるからな」
 書斎の椅子に座ると、まだ小さなわが子の体を抱き上げ、自分の膝の上に載せる。
 「その代わり、後でちゃんとお掃除、頑張るんだぞ」

 あの写真の隅に刻まれた、デジタル表示の日付は…忘れもしない、あの六月の日。


 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 「ったく、何もこんな日に…」
 米花シティホテルの前にタクシーが完全に停まりきらないうちに、オレは飛び降り、エントランスへと駆け出した。
 走りながら覗き込む腕時計は、8時半を少し回った時刻を示している。
式は10時から…2、3時間前には会場入りしろと言われていたけど、まあ許容範囲内だろ。
 そう自分には言い聞かせながらも、やっぱりイベントがイベントなだけに気が急いて、入口の自動ドアが開くのももどかしく、ホテルの中を走った。

 『式、いつがいい?』
 数ヶ月前に蘭にそう言われたときに、確かにオレは『別にいつでもかまわねーけど』と答えたけど、よりによって新名任太郎の最新刊『堕天使の滑り台』の発売日に被らなくてもいいじゃねーかよ…。
 本屋のおやじさんに無理を言って、何とか店を開けてもらったのが朝の8時。
 そっからタクシーをすっ飛ばしてきたわけで…。

 「こら旦那、式当日から遅刻?蘭にしめられても…」
 こういう急いでるときに限って、いつも園子に捕まる。
 レモン色のドレスを着て、いかにも嬉しそうに何かまだ言おうとしている園子に、
 「るっせー園子、んなことより、蘭は?」
 と少し乱暴に問い、あっち、と指差されたほうに駆け出す。そんなオレの後ろで、
 「せっかく鈴木財閥が総力を挙げて応援してやってんだから、しっかり頑張んなさいよ!」
 へいへい、感謝してます。




 「新ちゃん、これで完璧ね♪」
 結婚式のメイクまで担当してくれる、ひじょーにありがたい親がセットしてくれた自分を、控え室の姿見に映す。
 真っ白なタキシードに淡いピンクのネクタイ。急いで家を飛び出したお蔭で残っていた寝癖も、もちろん跡形もなく消えている。

 「ん…まあこんなもんか」
 そう呟いた刹那、
 「ほら新ちゃんこっち向いて。パパ、写真お願いね」
 強引に振り返らされ、母さんに肩を抱かれての記念撮影。

 ったく、入学式じゃねえっつーの。
 大体いーかげんもう親に肩抱かれて写真撮られる年でもねえのに…。
 そういう非難めいた感情を最大限に顔に出してみたけれど、その程度でひるむ両親なわけもなく。

 「次はパパも一緒にね、シャッターはそこの人に頼めば…」
 むしろ新郎よりも幸せそうな親に二枚目の写真を撮られそうになっていた所に、


 「新一〜、遅かったじゃない。結構待ったんだから」
 奥の部屋からドアを開けて来たのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ蘭。
 「………、そ、それなりに似合ってるじゃねーかよ」
 正直ちょっと見とれてから、急いで言葉をひねり出す。
 まあ、そんぐらいあん時の蘭は綺麗だったわけで…。

 「どうしたの新一、顔、赤いよ?」
 まだ少しポーッとしているうちに蘭からそう訊かれて、まさか午前中の室内で『夕日のせいだよ』と言える訳もなく、

 「いや、その…まあ要するに…」
 適当に分けの分かんないことを言っていると、今度は廊下側のドアが勢いよく開けられた。


 「た、大変…あ、スミマセン、間違えました!」
 そう言って慌てて飛び出していこうとするホテルマン。
 彼があまりにも普通でない慌て方だったので、急いで呼び止める。
 「何かあったんですか?」
 「いえ、お客様、どうかお気になさらず…」
 躊躇するホテルマンを、控え室の中へ引っ張り込んでドアを閉め、そのドアにもたれかかってから、もう一度訊いた。
 「それで…何があったんですか?」

 「あ…。どうか落ち着いて聞いてくださいよ、決して騒いだりなさらずに…」
 腕組みしたオレに出口をふさがれ、ようやく観念したのか、声を一段と落とすと、
 「実は向かいのビルで、殺人事件があったみたいで…」



 式場のホテルを飛び出して、向かいのビルへと飛び込む。
 飛び込んでから気がついたのだが、そこもホテルだった。

 そういや、この地区は再開発で新しいホテルが林立してたっけ…。

 そんなことを考えながらホテルのフロントから奥に入り、『従業員以外立ち入り禁止』と書かれたドアのその先。
 廊下が一部広がったような感じになっていて、そこが従業員用エレベーターホールだった。
 オレがついたころには、もうガムテープで簡易立ち入り禁止区域が作られて、人が一人、しゃがんで何かしていた。

 「警察もまだ着てねーのに、手際のいいやつがいるな…」
 そう感心すると同時に、嫌な予感が頭をよぎる。

 今日はオレの結婚式だろ?
 多分…いや、間違いなく、アイツも呼んだはずだよな…。
 しゃがんでたやつが振り向いた。
 「なんや工藤、やっぱオマエも来よったんか」
 推理…的中。


 「工藤が首突っ込みたい気も分かるけど、新郎やろ?こっちはオレが片付けとくよって、早よあの姉ちゃんのとこ戻っとけや」
 「バーロ、オレと蘭の結婚式の日に事件起こすようなヤツ、いくら服部でも他人に任せられっかよ」
 「ま、そうゆうやろ思うたわ」
 そう軽く肩をすくめると、服部はクルリとエレベーターのほうへ向き直って、
 「ガイシャはここの従業員の保科 博嗣ほしな ひろし。…現場見るか?」

 服部にそう言われ、ドアが開きっぱなしになったエレベーターを覗き込んだ。
 その中には、ホテルの制服を着た男が体を曲げ、奥の壁に頭をもたれかけさせて、うつ伏せに倒れていた。
 顔が見えないので年もよく分からないが、髪の黒さや体格からいって、それほど年をとっているようには見えない。薄いグリーンの制服は、乱れてはいるものの血痕や目だった外傷も見られず…、刺殺でないことは明らかだ。
 「第一発見者は…そこの彼?」
 振り返ると、服部の隣に三人ばかり人が立っているのが目に入った。
 「ああ、一番左におる、湯川さん、エレベーター乗ろ思うて待っとって、開いた中見たら…まあそいつは後でゆっくり話し聞けばええんやけど…」
 わざとらしくアイツが話しを区切れば、その後に言いたいことは大体分かる。

 「問題は隣の二人、ってわけか」
 『当たりや』と言いたげに服部の目がオレと合う。
 「せや。それも右の粟田とか言う男。相当被害者と仕事上のことでもめとったらしいで。先入観持つんはあかんけど…。ま、予備知識程度に、頭の隅に入れとくぐらいなら別にかまへんやろ」
 服部はポン、と軽くオレの肩を叩いて、
 「ほな、オレはちょっと上見てくるで」
 そう言うと、階段のほうへ歩いていった。

 …アイツがわざわざ行くからには、上に何かあるんだろうな。
 でも『オレは』ってことは、とりあえずオレにはここに残れって言うこと。
 この三人から何か直接聞かせたいわけね…。

 そこまで勘ぐると、予想通り服部が、階段に一歩、足をかけて止まった。
 「ああ、言い忘れとったけど…」
 バーロ、何が『言い忘れてた』だよ。白々しい。
 そう思いながらも一応、
 「ん?どうかしたのか?」
 …お互い様だぜ。

 「さっき言うた奴…、動機は充分なんやけどな…」
 低く抑えた声を、また不自然に区切る。
 「手段がひっかかる、ってことか」


 「確かに、事件が起こるすぐ前に私はエレベーターに乗りましたが、そのときには死体なんてありませんよ!そんなどこかに隠せるようなものでもないし…。
大体、私は四階で彼女と一緒に下りたんですよ。どうやったって、彼をあそこで殺すなんて…」
 念のため、隣の女子従業員に訊いてみると、「ええ、その通りです」の一言。
 死体が発見されたのは、粟田と女子従業員が降りてから一度最上階まで上がって、戻ってきたエレベーターの中。
 つまり、粟田が下りてから、その上のどこかの階で保科が乗ってきたことになる…か。
 「保科さんが殺される前、どこにいたかご存知じゃありませんか?」
 「ええ…。彼は五階の担当のはずですけど」
 ま、とりあえずそこから始めるか…。



 「やっぱり服部もここか」
 五階の従業員用エレベーター室前で、再び鉢合わせ。
 「ここしかないやろ?」
 そう言って、手にした鍵束でドアを開け、中に入る。
 少し広めに作ってあるのは、ルームサービスを下から持ってくるためだろう。
 その証拠に、部屋の隅に使い終わった台車が一台置かれている。

 「なあ服部…オメー、あれ、読んだか?」
 チラッと服部に目を向ける。アイツもその一言の真意を見抜いたらしく、
 「今日発売やろ?まだ読んでへんけど、オカンがもう買うてるはずやさかい、家にはある、思うで」
 そう答えてアイツは、ニヤッと口元だけ笑って見せた。


 「粟田ハン、あんたやろ?保科ハン殺ったんは」
 「五階で保科さんを絞殺したあなたは、このエレベーター室まで彼を運んできて、あらかじめ準備していたのか、偶然そこにあるのを見て思いついたのか、置いてあったルームサービス用の台車に死体を載せた。この台車、そこそこ大きさもありますし、体を折り曲げさせれば容易でしょう。その後あなたはエレベータの扉の前で台車の前輪を固定し、後部に何か…枕でもなんでもいいから車体と床との間に挟んで、台車を前に傾ける…そう、ちょうど『滑り台』のように。急いで引き返して、同僚と一緒にこの下の階でエレベータを降りるときにさりげなく五階のボタンを押しておけば、あとは勝手にこの階でドアが開き、充分な角度を保っていた台車から死体が滑り落ちて、鉄の箱の中に納まる…。エレベーター室は施錠も出来ますし、他人の目に付く可能性も少ない。あとは下で死体が発見されてる混乱に乗じて、台車を元に戻しておくだけ。…そうですよね?」


 服部に後のことは任せて米花シティホテルに戻り、今日二度目のホテル内短距離走。
 今度の時間の危うさは、前の比なんかじゃない。
 「式に新郎がいなかったらシャレにもなんねーぜ」
 そんなことを呟きながら、とりあえず走る、走る……

 会場へと繋がる、大きな扉の前に、ようやく蘭を見つける。
 「あ、新一!」
 蘭が続けて何か言うより先に、

 おっちゃんが無言でオレのほうへ歩いてきて、

 『パシィィン』という小気味よい音と共に、オレの左頬に焼け付くような熱さが走る。

 「っ…」
 思わず頬に手を当てるオレ。
 「馬鹿野郎!どんだけ蘭を待たせたら気が済むんだ!」
 廊下に響き渡る怒鳴り声。何人かの人が、何事かとこっちを振り返った。

 「事件だって聞いたらすぐに飛び出して行きやがって…。蘭と事件とどっちが大切なんだ」

 …世の中には、比べられないものがある。
 レモンパイとアップルパイのどっちが好きだとか、そんなんじゃなく、例えば…空気と水とどっちが大切なんだ、そんな感じのもの。
 どっちも無いと生きて行けねえもの。

 …でも、水は無くても数日は生きられるけど、空気は10分とすら失うことを許されない。
 「…蘭の方が大切です」そう言おうとして、口を開きかけて、ふと気づいた。
 おっちゃんの目…怒ってねえ…。

 そうか…
 おっちゃんも、とにかく探偵。
 事件と他のものが比べられないことぐらい、よく分かってる。
 それに…
 自分の娘と、この前まで息子同然に一つ屋根の下で暮らしてきた幼馴染。
 オレがどう答えるかなんて、オレが蘭をどれだけ大切に想ってるかなんて…おっちゃんにとっては、明日の天気よりもはるかに分かりやすいこと。
 それを知った上で、最後に刺しておいた釘。

 「…事件は、解決してきたのか?」
 静かな口調で聞かれ、
 力強く頷いて、オレは「はい」と答える。

 「…行け」
 オレから目を逸らし、後ろの扉を親指で示す。
 そのままおっちゃん自身はエントランスホールへと歩き出した。

 「ちょっと煙草吸ってから行くから、先始めてろ」

 「またお父さん、強がっちゃって…」
 蘭と目を合わせ、二人でゆっくりと微笑む。

 「じゃ、行くか、蘭」
 蘭の肩に手を回して、オレは扉へと歩き出した。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 「それでその後…」
 言いかけて、腕の中のわが子を覗き込む。
 いつの間にか、純真無垢な表情のまま、規則正しく静かな寝息を立てていた。
 「ちょっと退屈な話だったかな」
 そう呟いても、やっぱり自然と口元がほころんでしまう。
 この寝顔、どっちに似たんだか。
 最近見つけた、推理小説を読むよりも、もっと幸せなひと時。
 服部は『親バカや』とか言ってるけど…この至福が分からないなんて、アイツも不幸なやつだぜ。

 ふっと思い出すことがあって、もう一度手の写真を持ち上げる。
 そういえば確か…
 写真を目にずいぶん近づけて、目を凝らす。
 「あった…」
 白いタキシード姿のオレの左頬には、赤い手形。
 右頬にも、よく見ると赤いあと。

 「訊かれたら、なんて答えようかな」
 腕の中のわが子の頭に、そっと手を乗せる。

 こいつには…まだ早いかな。
 小さな、二人の愛情の印。

 いつか、きっと話してやるよ。

 そう心の中で言いながら、

 小さな額に、そっと唇を重ねた。

                        〜FIN〜




どうも、雪場です。
長編の合間に書き溜めた短編を投稿していますが、今回は前のとはまた違った趣向で。新蘭の結婚後を書くのは初挑戦でした。(といっても後で読み返して蘭がほとんど出ていないことに気づいたり(滝汗))
間にエセ推理を入れてみましたが、思い切ってはしょってもよかったかもしれません。

えっと…子供の名前も性別も、あえて決めませんでした。不可欠な要素でもなかったので、読む方が違和感無いように心の中で決めていただければと思います。

それでは、駄文にお付き合いくださいましてありがとうございました。













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