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理系少女のヴァンパイア観測記録

理系少女のヴァンパイア観測記録

いつも読んでくださりありがとうございます!


 科学部と聞くと、大抵の人はいわゆるオタクっぽい男子の集まりだと思っているだろう。それは大体間違ってはいない。大体、というと例外はあって、そこにただ一人混じる紅一点が私だ。もう一度強調しておく。私は科学部の紅一点だ。といっても、女扱いなんてされた試しはないけれど。


 その日も授業が終わりいつもと変わらず部室で実験をした。重い機材を抱えて、これじゃ科学部というより筋トレじゃんなんてぼやきながら実験をする。終わったのはずいぶん遅い時間だった。

「結構かかったわね。近道してかえろ」

 うちの高校は実家から遠いので私は一人暮らしをしている。それでも普通科に関して言えば結構な進学校なので、入学に迷いはなかった。自転車をすっ飛ばし、いつもの道の途中で小路に入る。この近道はついこの間発見したものだ。この石垣を右に曲がれば、我が家はもう目と鼻の先だ。

 いつも人通りがないので、私は油断していた。曲がり角で盛大に人とぶつかってしまったのだ。

「痛いなあ、全く、人の食事の最中に」

「すみません。大丈夫ですか?暗くて良く見えなくて」

 私はうずくまっている男の子に手を差し出した。

(うちの高校の制服だ。食事って聞こえた気がするけど?)

「ああ、大丈夫だよ、良いから向こうにいってくれないかな?今取り込んでるんだ」

「えっ?はぁ、すみません」

 頭を下げて自転車にまたがろうとしたとき、男の子の下敷きになっている女の人が目に入った。気を失っているのか、ピクリともしない。顔色も少し青ざめているようだ。

「ちょっと、そちらの女性は? 今、救急車呼びます!」

「いや、いいよ」

「でも、具合が悪そうですよね」

「良いから早く消えてくれないかな?」

 男の子はこっちを見もせずに吐き捨てた。さすがの私もこれには腹が立った。

「ちょっとあんたね、倒れてる女の人ほっといて何言ってんのよ!命に関わる怪我だったらどうすんのよ!大体、こんな人気のない所で女の人連れ込んでなにしてる訳?」

 私はそう言って女の人の上からどこうとしない男の子の肩を掴んで引っ張った。体勢が崩れ、相手の顔がこちらを向いた。

「だからさ、食事の邪魔しないでほしいんだけど?」

 そいつの口の周りは暗闇でも分かるほどに、真っ赤だった。私は悲鳴をあげた。

「け、警察呼ばなきゃ」

「警察? 待ってくれ、誤解だよ」

「言い訳無用よ」

「やめてくれ、お願いだ。全部話すから、落ち着いてくれ」

 さっきまでの威勢はどこへやら、彼は慌てて私のスマホを取り上げようとした。

「誤解? その女の人をあんたがやったんでしょ?」

「違う、殺してなんかいないよ。学校に行く途中、栄養補給のために少し血をもらっただけだ。命には別状ないし、もちろんきちんと家まで送るよ」

 一体何を言っているのか全く理解できない。私は眉をひそめた。

「痛みだって無いし、気づかれないように吸ったから記憶も残っていないはずだ」

「ちょっと待って、えーっと、通学中ってことはもしかしてうちの高校の夜間部に通ってるの?」

 いやいやいや、聞くところはそこじゃないだろ、しっかりしろ私。

「そうだよ、夜間部の一年、闇原雷知」

「へぇ、ライチ、ねえ。何だか可愛い名前ね。私は普通科の一年四組、西園寺卯月よ」

 余りに突っ込みどころが多くて頭がショートしてしまったようだ。気づけば私は自分の名前を名乗ってしまっていた。それが私と彼の奇妙な出会いだった。


「この現代の世の中に吸血鬼、だなんてね」

「中々信じてくれないんだから。理系の女の子って頭が固いよね。それに、初めて血を吸おうとした時の君はとても凶暴だった。耳たぶを食いちぎられるかと思ったよ。万が一君の口に僕の血が入っていたら、君もヴァンパイアになってしまっていたかもしれないんだよ。血がまずくなるじゃないか」

「知らないわよ、そんなこと。あの状況なら普通は変質者だと思うし、抵抗もするわ」

 私はいつものように部屋に上がりこんでいる闇原にコーヒーを出しながら言った。

「それで、何で私が定期的に吸われなきゃならないのよ」

 闇原は肩をすくめた。

「現代の世の中ではね、気付かれないように吸うのが大原則なんだ。人間も色々と知恵がついて来たことだし、余り公になるのは困るからね」

「そうは言っても、吸われた人が黙ってないんじゃないかしら」

「いや、歯さえ立ててしまえば、その時の吸血の記憶は消える。人間でいうところの麻酔みたいなものさ。でも、君には吸血を見られてしまった。もう隠しても仕方ない。だから、君に血をもらえば、もう他の人間に見つかる危険を侵す必要がないだろ?ちゃんと手続きも踏んである」

「手続き?」

 私が首をかしげると、闇原は苛立ったようだった。

「もういいだろ、早く吸わせてよ」

 私は闇原の手をパシりと払いのけた。

「説明して。今度こそ噛みつくわよ?」

「僕たちが人間の血を吸うのは申請して認められた一人だけだ。決められた期間、その人間以外には手を出せない。昔は狩りをしたり派手に暴れてたみたいだけど、今は人間も随分知恵が付いてきたから返り討ちされかねないからね」

「まあ、でも、吸血鬼が実在すれば、余り派手に暴れると人間に絶滅させられるだろうし、理にかなってるわね」

「全くだよ。だからせっかく色っぽい子を見つけて承認を受けたのに。ああ、初めての狩だったのに、どうしてこんなことに」

 闇原は悔しげに唇を噛んだ。

「君に見られるという不手際を起こしてしまった今、別の申請は受理されないだろうし、背に腹は代えられないよ」

「色気が無くて悪かったわね」

 女心とは不思議なもので、例え吸血鬼にでもここまで言われると何故か腹が立つ。

「でも、そうだなあ」

 闇原が急に近寄ってきて私の顔をまじまじと見つめた。

「な、何よ」

「元は悪くない。もしかして磨けば艶が出るかもしれない。試してみるか」

「何ブツブツいってんのよ」

「君の血が美味しくなる方法を思い付いたんだ。僕に惚れればいいんだよ」

 闇原は無駄に美しい笑顔で私に告げた。

「はいはい、精々頑張ってね」

 私は軽くあしらった。

「そろそろ吸わせてくれるよね」

「仕方ないわね、いいわ。吸血鬼とはいっても飢えたままなのは可愛そうだもの」

 その言葉を聞いた闇原は、私を抱えあげてベッドに運んだ。

「今日もたっぷり可愛がってあげるから、僕を堪能してよ」

 私は声を上げて笑った。

「堪能ってなによ、せっかく顔はいいのに一遍に台無しだわ。そういうのはムードを作ってから言うものよ。それに言葉の使い方を間違っているわ。あなたは食事をしにきただけでしょう」

 その時は私も闇原の言葉を気に留めていなかった。


 しかし、次の日からベクトルを間違えた闇原の猛攻は始まった。いつも通り放課後に部室に行くと何やら騒がしい。ドアを開けた瞬間、何故か私の目に飛び込んできたのは闇原だった。満面の笑みで手を振っている。悪夢だ。そのままドアを閉めてしまいたい。

「西園寺さーん」

「何であなたがここにいるのよ」

「ひどいなあ、今日から僕もここの部員だよ。もう入部手続きは済ませてきた」

 闇原は女の子たちに囲まれていた。どうやら、オタク、変人の集まりと称される科学部に突然入部した「謎の美形夜間部学生」はすでに広く噂になっているらしかった。闇原の声で女の子たちの目が一斉にこちらに突き刺さる。探るような目付きとはこのことだろうか。

「えーっと、闇原君はただの友人で、それ以上の関係は何もないですよ」

 本当は友人ですらない。迷惑な押し掛け人だ。だがそんな事を言ってややこしくするわけにもいかない。

「闇原くん、あの人とはどういう関係?」

 案の定、取り巻きの女の子たちは私の話を全然聞いていなかった。しかもこの子達、何だか目付きが怖いんですが。

「ああ、僕の彼女だよ」

 とんでもない爆弾を投下した闇原はこっちを見ながらニヤリ、と笑った。絶対にわかっててわざとやっていると思う。

「寝言は寝てから言ってね。闇原くん。皆さん、今のは面白くもない冗談ですから」

「えっ? 彼女?」

 やっぱり、闇原の声しか耳に入ってないようだ。

「そうだよ、僕らは愛し合っているからね」

 二発目の爆弾を投下した闇原は勝ち誇ったような笑みを向けた。たった今、私は女子達を悉く敵に回してしまったようだ。

「いや、だから全くそういうのじゃないわよ」

「へぇ、彼女さんかぁ」

 視線がグサグサ突き刺さる。勘弁してほしい。皆、闇原の外見に騙されているのだ。中身はどうしようもなく狩りが下手で女心の分からない吸血鬼だというのに。

「断じて違います」

「照れなくてもいいのに。昨晩みたいに素直になったほうが可愛いよ」

 闇原は特大のミサイルを発射した。万事休す。女の子たちにどよめきが起こった。しかも、素行不良なんて変な噂が立つと奨学生の身としてはかなり困る。私は闇原につかつかと歩み寄り、襟首をつまみ上げた。

「ちょっと、ふざけるのも大概にしなさいよ。これ以上おかしなことをほざくなら、私にも考えがあるわ」

 そういったとたん、女の子たちの一人が飛び出してきた。

「やめて!」

「えっ?」

「闇原くんになにするのよ!」

「いや、あの、こいつタフだからこのくらい平気よ」

 女の子は無言で私を睨んでいる。ああ、また面倒なことになった。私は仕方なく、闇原を解放した。女の子の背後にさっと隠れた闇原は、私を見てニタリと笑った。完全に分が悪い。結局、私の方が尻尾を巻いて逃げるはめになった。機材室に逃げ込む。

「はぁ、皆騙され過ぎよ。あんな化け物」

「誰が化け物だい?」

「うわあ!」

 いきなり耳元から声がした。神出鬼没の吸血鬼は心臓に悪い。

「いい加減慣れなよ。一々叫ぶなんてバカみたいだ」

「バカはどっちよ。よくもあんなことをしてくれたわね」

「ああやって皆の前で自分のものだと宣言した方が好感度が高いって、本に書いてあったよ」

「それは時と状況によるのよ! 最悪だわ。明日からどうしよう」

 そんなやりとりをしていると、二年の先輩に呼ばれた。何やら話があるそうだ。

「西園寺、闇原の面倒を見てやってくれないか? お前の紹介で入部したそうだからな」

 すぐさま断ろうとして私は思い止まった。闇原のことだ、きっととんでもないことをするに違いない。他の部員や先輩たちに迷惑をかけるわけにはいかない。

「わかりました。色々教えておきます」

 そして先輩は私を肘でつついた。

「こんな美形の彼氏なんて、中々やるな、西園寺」

「断じて違います」

 私は闇原を横目で睨むと、彼は小憎らしい笑顔で答えた。

「そういうわけで、西園寺さん、よろしくね」


 家に帰るとどっと疲れが込み上げた。闇原は当然のように家までついてきている。

「ああ、疲れた。これからは毎日学校でもあなたと顔を突き合わせなきゃならないなんて。あり得ない」

「部活の時はあんなに生き生きした顔をしているのに」

「楽しいもの。新しい仮説を考えて実験して確かめる。一つ一つ分かって行くたびに新しい世界の扉が開けるのよ」

「詩人みたいなこと言うんだね」

 私は恥ずかしくなり、とっさに話題を変えた。

「それより、前から気になっていたんだけど、あなた家に帰らなくていいの?」

 闇原の顔が一瞬曇った。

「いいんだよ。あっちは兄がきちんと取り仕切っているはずだから」

「お兄さんがいるの?」

「ああ。兄は完璧なんだ」

 闇原は目を伏せた。

「兄には人間を引きよせる天賦の才能がある。女の子を口説くのも朝飯前だ。それに狩りもとても上手くて、僕みたいにヘマをやらかすことも無い」

「へえ、そうなの」

「君だって兄に会えばきっとすぐに鞍替えするんだろうな。人間のほうから吸ってください、と言い寄って来てるのをよく見かけるよ」

 闇原は寂し気に肩を落とした。そんなに尻軽と思われていたのか。とても心外だ。

「勘違いしないで。私はあなたもお兄さんもどっちも勘弁よ。吸血鬼なんてもうたくさんだわ。それに、完璧であることだけがいいとは限らない」

 私は続けた。

「そういう口説き上手な男って、誠実さに欠けるから私は苦手。あなたも余計なこと考えずに、面倒な家の事は全部お兄さんに押しつけてしまえばいいじゃない。人生なんて楽しんだもの勝ちよ。嘆いてる暇があるなら、通りがかりの女の子をナンパする練習でもしたら?」

「人間のくせに言うね、君も」

 そういいながらも、彼はふっと口許を緩めた。

「どうしてだろう、君と話すと少し楽になった。ありがとう」

 闇原が見せた笑顔に、私は不覚にもどきりとした。吸血鬼独特の白い肌、通った鼻筋、そして清んだ栗色の目。いつもどこか皮肉っぽい表情を浮かべている彼が初めて見せた屈託のない笑顔は、完璧すぎた。

「今日はもう帰るよ。疲れてるんだろ? おやすみ」

 闇原は私が引きとめる間もなく忽然と姿を消した。

「急に素直になるなんて反則よ。顔だけはいいんだから」

 ベッドに入った後も、瞼の裏にあの笑顔が焼きついて中々眠れなかった。

 

 予想に反して闇原は真面目に部活に取り組んだ。彼は夜間部が始まる前の短い時間だけで機材の使い方をすぐに覚え、薬草園の植物の蒸留や試薬の調整などの簡単なことは任せられるようになった。取り巻きの女子たちはと言えば、やはり闇原目当てに何人か入部して来た。しかし地味な実験にみんな音を上げてすぐに辞めてしまったので、久しぶりの女子入部者に色めいていた先輩たちは意気消沈した。とは言え闇原はその人当たりの良さを活かして部活内のムードメーカーになっており、部内の空気は一気に明るくなった。


 そして人間の適応力というのは恐ろしいもので、私も次第にこの奇妙な生活に慣れていった。時計を気にしながら早めにお風呂をすませて可愛らしい部屋着に着替え、闇原の好きなコーヒーの準備をするのはいつの間にか私の日課になっていた。

 ある夜のこと。鼻歌を歌いながら髪を整えるために鏡に向かい、急に我に返った。これではまるで、彼が来るのを楽しみにしているみたいじゃないか。私は首を振った。

(これはただの身だしなみよ)

 しばらくすると闇原が音も無く現れた。手に何か包みを抱えている。

「それはなに?」

「人間は一年に一度誕生日というものを祝う、って聞いたんだ。君の誕生日は今日なんだろ? おめでとう。開けてみてよ」

 私は柄にもなく純粋に感動した。

「ありがとう! まさかあなたがそんなことをしてくれるなんて思わなかったわ」

 しかし、包みをほどいた私の笑みは固まった。中から出てきたのはどうやって付けたらいいか分からないくらい布地の少ない下着だった。

「一応聞くけど、これはどういうことかしら」

「部活の先輩方が、彼女へのプレゼントと言えば下着だって教えてくれたんだ」

 彼らの悪ノリには困ったものだ。許すまじ。先輩の持っている試薬に水道水を混ぜたいくらいの気分だ。

「女の子、しかも人間の下着の良し悪しなんて全く分からないからさ、店員のお姉さんに相談したらこれを勧められたんだ。どうかな? 着けて見せてよ」

「冗談でしょ、こんなの無理よ」

「そうか、気に入らないのかい、僕は二時間もかけて悩んだのに。やっぱり僕なんかには」

「ああもう、着ればいいんでしょ、分かったわよ! 着替えるからあっち向いてて」

 闇原は大人しく従った。

「ほら、着たわよ」

「ふふ、優しいよね君は。僕が少し悲しそうな顔をするだけでそんなに慌てちゃってさ」

 闇原の声がすぐ耳元で聞こえた。私はまんまと乗せられたのだ。こしゃくな笑顔も様になってしまうのはずるいと思う。

 


 吸血鬼の餌という言葉からは想像もつかないほどの平穏な生活と、努力もせず美形を手に入れてしまった幸運に私は浮かれていたのだ。それを思い知らされたのは間もなくのことだった。

 その日は部活が休みだった。雨雲が空を覆っていて今にも降り出しそうな天気だった。早く帰って洗濯物を取り込んで闇原を迎える支度をしよう。そう思い、私は放課後の廊下を急いでいた。ちょうど音楽室の前を通り過ぎようとした時、ピアノの音色が聞こえてきた。その音色はとても美しかった。引きよせられるように窓から覗くと、弾いていたのは闇原だった。

 曲はショパンのバラードだった。彼は私が見ていることには気づいていないようだ。ピアノを弾いている闇原の顔からはヘラヘラした笑みが消え、ほんの少し憂鬱な影を帯びていた。切なく狂おしい冒頭部から、甘やかに歌うメロディー。長く美しい指が鍵盤に流れるように触れ、次々と表情豊かな音を生み出していく。私は息をするのも忘れて聴き入った。

 少しだけのつもりが最後まで聴いてしまい、そろそろ帰ろうとしたその時、虚空から一人の男が現れた。黒髪に白い肌のその男は整った顔をしていたが、どことなく人間離れした雰囲気を持っていた。吸血鬼だ。私はそう直感し、とっさに身を隠した。黒髪の男が口を開いた。

「えらくあの小娘に執心しているようだな」

 闇原は言い返した。

「お言葉ですが兄上。私は執心してなどおりません。獲物を見張るのは当然のことです」

「そんなことは使い魔にでも任せておけばいいだろう。あの娘も所詮はただの人間だ。いつ裏切って密告するかもしれないものを手元に置くなんて何を考えている」

「申し訳ありません」

「全く。お前と言うやつは」

 黒髪の吸血鬼は懐から小瓶を取り出した。

「この薬を飲ませれば、あの娘のお前に関する記憶はすべて消える。上には私がかけあっておく。お前には他の女を用意してやるから、今度こそ首尾よくやれ」

 闇原は淡々と言った。

「分かりました、兄上」


 私は居たたまれなくなってその場から走り出した。所詮浮かれていたのは私だけだった。馬鹿みたいだ。階段を駆け下りて、校庭に飛び出し、科学部の薬草園に駆け込んだ。ここならきっと誰も来ないだろう。

 曇り空は雨にかわり、冷たい雨が肩を濡らした。どれくらいそうしていただろう。座り込んでいる私の前に現れたのは、今一番会いたくない人だった。闇原は、当然のように私に傘を差しかけた。

「傘も持たずにどうしたんだい」

「雨に濡れた薔薇が綺麗だから見に来ただけよ」

「今日は結構肌寒い。君は人間なんだから風邪を引くだろ?」

「そうよ、ただの人間よ。餌のことなんて放っておいてよ」

「そんな事は言ってないだろう、一体どうしたんだ」


 そして私の手を引き寄せた闇原は驚いたように言った。

「どうして泣いているんだ」

「泣いてないわ。寒いと人間はこうなるの」

 私は目と鼻をこすりながら言った。彼は有無を言わせない口調で言った。

「この傘を貸してあげるから、早く帰るんだ。いいね」


 私は重い気持ちで自宅へ戻った。しばらくするとドアをノックする音がして、ドアを開けると闇原の姿があった。制服は濡れそぼり革のように張り付いている。髪からは透明な滴がぽたり、と落ちた。彼は私に色とりどりの薔薇の花束を差し出した。

「外はもう寒い。今日はこれで我慢してよ」

 そして私に微笑むと、言った。

「暖かくして寝るんだよ。よい夢を」

 私は闇原を呼びとめた。

「待って。これは受け取れないわ」

「どうして? 気に入らないかい? 何せ自分で花を摘むなんて初めてで勝手が分からないんだ」

 私は言った。

「違うの。そうじゃなくて……さっき音楽室で弾いてたでしょ、ピアノ。とても良かったわ。上手く言えないけれどすごく感動した。下手に口説くより女の子は喜ぶんじゃないかしら」

「聞いていたんだね。気付かなかったよ」

 闇原はバツが悪そうに肩をすくめた。

「気にしないで。あなたたちは悪くないもの。最初からただ食事のためだってことは知っていたし、惚れさせようとしていたのも血の味を良くするため。悪いのは勝手に浮かれていた私よ」

 彼はいつものように軽口を叩かず、真剣な表情で聞いていた。

「最後にこれだけは言っておきたかったの。短い間だったけれど私もそれなりに色々楽しかったわ。今までありがとう」

 もうこれ以上はだめだ。余計なことを言ってしまいそうになる。

「さっきの瓶を渡して。早くおしまいにしましょう」

 私は上手く笑えているだろうか、あまり自信がない。闇原はしばらく考えるそぶりを見せて、こう言った。

「いや、僕が飲ませてあげるよ。最後の思い出にね。こっちにおいで」

 そう言って制服のポケットから小瓶を取り出した。改めてまじまじと見て私は身震いした。中には禍々しい緑色をした液体が詰まっている。

「何だかすごい色ね。変な味じゃなきゃいいけど」

「さあ、どうかな」

 闇原はクスリと笑った。

「じゃあいいかい? 目を閉じて口を少し開けて」

 彼は私の顎をすこし持ち上げた。


 目を閉じるた私の唇に、冷たい、けれど柔らかいものが当たった。腰を引き寄せられ、闇原が持っていた薔薇の花束がパサリ、と床に落ちる。状況が理解できたのは彼の唇が離れてからだった。長い口付けのあと、彼は私の頬に流れる涙を長い指で拭った。

「泣きやんでくれないの?」

「今は悲しくて泣いてるんじゃないわ。そんなことも分からないなんて、やっぱりあなたは」

「ただの餌に骨抜きにされた大馬鹿者、だね」

 琥珀色の瞳が私を真っ直ぐ捕らえた。

「最初は失敗を取り返そうと躍起になっていただけだったんだ。兄にまたガミガミ言われるのも癪だったし。でも、段々そういう小さな事はどうでも良くなって、君といるのが楽しいと思うようになってた」

 そこまで言うと、闇原は小さくくしゃみをした。私は吹き出した。泣いたり笑ったり、もう顔がぐしゃぐしゃだ。

「吸血鬼も風邪引くのね。あなたっていつも良いところで台無しだわ。それじゃあ私くらいしか引っかけられないわよ」

「僕も随分冷えきってしまった。暖かい部屋に入れてくれないかい?」

「いいわ、上がって」

「ああ、そうだ、その前にこれを。ちょっと待ってて」

 闇原は床に落ちた薔薇の棘で自分の指を刺し、その指を私の口に押し込んだ。とっさのことに抵抗する暇もなかった。

「何するのよ。血の味がして気持ち悪いわ。って、ちょっと!」

 私は青ざめた。闇原は飄々と言った。

「平気さ、この程度では完全にヴァンパイアになったりはしないよ。少し夜目が利いたり寿命が延びたりはするかもしれないけどね。これで万が一、兄が君の記憶を消しに来たとしても、薬は効きにくくなるはずだ。この薬は人間用なんだ」


 私の部屋のベッドで彼が耳に軽く口づけた。そしてそのまま首筋から鎖骨へと舌を這わせる。いつもならすぐに牙を立てるはずなのに彼は中々そうしない。愛おしむような触れかたに私は気恥ずかしくなって、上ずった声で尋ねた。

「それにしても、あなた、どうして薬草園なんかに来たの?部活は休みじゃない」

「ああ、それはね……」

 とたんに歯切れが悪くなる。私が問い詰めると、闇原は観念したように白状した。

「薬を作ろうとしてたんだ。これだよ」

 闇原は制服のポケットをごそごそと漁り、先程とは別の小瓶を取り出した。なかには綺麗な薄桃色の液体が入っている。

「何の薬?」

「えーっと」

「ごまかさないで。飲ませるわよ?」

「これは惚れ薬だよ。君が中々靡いてくれないから、もうこれしかないと思ったんだ」

 私はため息をついた。

「えらく部活を頑張っていると思ったら惚れ薬を作ろうとしていたの?」

「手段なんて選んでられないよ、それくらいどうしても君を手に入れたかった」

 真摯な瞳に射ぬかれて、私は何も言えなくなった。

「でも、もうこれは必要ない」

 そういうと闇原は小瓶をしまった。

「第一、これももう君には効かないだろうからね。君はもう純粋な人間じゃないから、僕が牙を立てても意識を失うことは無いよ。この意味はわかるだろ? 今夜は寝かせないから覚悟するんだね」

 そして彼は意地悪な笑みを見せた。

「僕を堪能してよ、ね?」

 私はもしかしてこの世で一番危険な吸血鬼に囚われてしまったのかもしれないと気づいたのだった。



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[良い点] 理系少女とヴァンパイアの恋愛ストーリーに最後までハラハラさせられます。 ヴァンパイアの雷知が様々な形で想いをぶつけて、淡々として恋愛に興味がなさそうだった卯月の心を次第に変えて行くところは…
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