< 夜道 >
日が落ちると、街のあちらこちらにネオンの光が灯り始める。
彼女は、五時までのバイトを終えると、アパートへの帰り道に有る商店街のスーパーマーケットに寄り、夕飯の材料と明日の朝食用の食パンを買って、帰宅する途中であった。
彼女は片手にバック、もう片方の手にスーパーの買い物袋を持ち、慣れた帰り道を楽しそうな表情で歩いていた。
年の頃は十八歳ぐらいであろうか、スーパーの買い物袋が自立した女性のイメージをさせていたが、顔付きは若干だが幼さを残していた。
今日はスーパーで、豚のひき肉とお豆腐が安かった為、夕飯のおかずをマーボー豆腐に彼女は決めた。
仕事に疲れて夕飯は簡単な物を作ろうと決めていたので、ちょうどいい献立だと鼻歌まじりで自画自賛しながら歩いていた。
時折、軽やかなスキップを見せる彼女。その表情は新婚の若妻のように楽しそうな笑みであった。
そして彼女は、商店街を抜けて住宅街に入る。
「ふんふうふうーん」
携帯に彼氏から届いたメールを見る彼女は、鼻歌が止まらないほど充実感が溢れていた。
何が嬉しいのか、何が幸せなのか、彼女は幸せな表情で帰宅の道のりを急ぐ。
その仕草は、彼女の歩いた後に、満開の花を咲き誇らせていた。
今が幸せの絶頂期を迎えている彼女は、周りの異変に気付くことはなかった。
ほんの少し注意していれば気付くだろう異常。
浮かれ心で携帯の返信メールを打ってなければ、気付いていただろう異変。
彼女が気付かなかったほんの少しの異常とは、既に日が落ちた住宅街に有った。
電信柱に設置されている街灯が、道を明るく照らしていた。
だが、周辺の民家からは、明かりが一軒も漏れていなかった。
それがただの偶然なのか……。
この通りの民家だけが、たまたま全部留守なだけなのか……。
それに気付けば、なんて寂しげな住宅街だと思ったのだろう。
しかし彼女は、鼻歌まじりでメールを打つのに没頭して、それに気付くことはなかった。
人気の無い住宅街を歩き続ける彼女が、完成したメールを彼氏に返信すると、携帯電話をパタリとしめてカバンの中にしまった。
カバンに携帯をしまった彼女が、寂しい住宅街の様子に気付くよりも先に、少しはなれた進行方向の電柱に有る街灯の下で、不気味に街灯の光に照らされて居る一人の男の存在に気付いた。
和風の白い割烹着に黒い前掛けを腰に巻いた板前風の男。
商店街や繁華街ならまだしも、明らかに住宅街に居るような格好ではなかった。
その板前は、彼女の気付かなかった、この場に流れる異様な空気を、具現化させたような存在だった。
今まで幸せ全開だった彼女の背筋に、嫌な物が走った。
板前風の男は、力なく俯き、後頭部から電灯の光を浴びて、その顔の様子は影に隠れて窺えなかった。
それが更に怪しさと不気味さを醸し出す。
この道を進まなくては、彼女の住むアパートまでは行けない。
別の道も有るのだが、今からでは遠回りになってしまう。
疲れている彼女は、板前風の男の前を、気持ち悪いが通り過ぎることにした。
彼女は、板前風の怪しい男を避けるかのように、道の反対側の壁際すれすれを、肩を強張らせながら通り過ぎる。
その間も板前風の男は、じっと動かずに、電灯の明かりで出来た自分の影を見るように下を向いたままであった。
遊園地のオバケ屋敷で、今にも動き出しそうな幽霊の蝋人形を通り過ぎた後に、やっぱり何の仕掛けも無く安心したお客の様に、彼女はほっとした溜息を吐く。
しかし安心したところに、不意を付いたドッキリが来るものだ。
少し歩くと彼女は男が気になり、後ろを振り向く。
だが電灯の下には男の姿はもう無かった。
彼女は少しキョトンとした表情をして首を傾げた後に、再び前を向きなおす。
そして何事も無かったように、帰宅の足を進めるつもりだった。
だが、前を振り返った彼女の目の前に、大きく目を見開いた男の白い顔が有った。
「ひっいぃ!」
いきなり現れた男の顔は、ほんの数センチの距離まで、いつの間にか迫っていた。
あまりもの驚きに、まるで豚の悲鳴のような声を彼女は上げた。しかし、それ以上の声は、彼女の震える口から続いて出ることはなかった。
目の前の男は、手に有る長い包丁を、横一線に振るう。
「ぁぁあぁぅぅ……ぅぅぁあ……」
そして彼女は、今度は直ぐに気付く。
自分に起きた異変に。
体から力が抜けて、両膝をアスファルトに打ち付けた。
その理由が、自分の首から噴水の様に吹き出る出血が原因だと直ぐに理解できた。
彼女はもっと早く気付くべきだった。
この住宅街の人気の無さに。
その異常な空気に。
気付いていれば、幸なまま帰宅できたのかもしれない。
「いい素材を仕入れたぞ……うへ」
板前風の男は、首から血を吹き出しながら、足元に倒れこむ女性を見下ろすと、満面の笑みを作った。
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