< 雲外鏡・一>
一人、自分が経営している喫茶店に残った桜木銀。
グレーのトレーナーを内側から筋肉でパンパンに膨らませ、短い顎鬚よりも前に迫り出した大胸筋に黒いエプロンがさげられている。
昼間、喫茶店を手伝っていたカズマの姿は、もう無かった。
外の景色は既に暗くなり始めており、少し前にカズマを家へと帰した。
喫茶店内には、他に誰も居ない。このぐらいの時間になると客足が途絶える。何時もこんな感じである。
まだ、タケシはバイトから帰ってきていない。妻の雪絵と娘の陽子は、今日は妻の実家に泊まりで帰ってこないことになっていた。久々に銀は、一人の晩を過ごすことになっていた。
本来ならタケシを誘って、男同士、差しつ差されつで酒でも飲み交わしたいところなのだが、あれだけ喧嘩に強いタケシが、酒にだけは弱いと来ている。実に残念な弱点だと銀は思っていた。
ふと、銀が壁に掛けられた時計を見る。もう少しで時間は八時になろうとしていた。銀は、エプロンを外して、店のシャッターを閉め始める。
そして、家の玄関から喫茶店内に戻ると、カウンターの下から一升瓶を取り出した。それと、先程まで磨いていたグラスを棚からひとつ取り出し、また外へと出て行った。
一升瓶とグラスを持った銀は、そのまま道場の中へと入って行く。
銀は、道場の明かりも付けずに中へと上がると、道場の中央に座り込む。
薄暗く静かな空気が流れる道場に胡坐を掻いて座る銀は、グラスに酒を注ぐと一升瓶を持ったまま、一気にグラスの酒を飲みほす。そして、またグラスに酒を注いだ。今度は一升瓶を床に置いて、チビチビとグラスの酒を飲み始める。
酒を飲む銀の目の前の壁には、横に長い額縁が掛けられていた。
心技体。
額縁の中には、そう豪快に力強い言葉が書かれていた。
銀が、タケシの祖父であり、銀の空手の師匠にあたる堂本拳四郎に、堂本流の免許皆伝を頂き、この町に道場を開いた際、堂本拳四郎自らが書いてくれた物であった。
心技体。それは、堂本流が空手道を進み、または導くにあたっての根本にあるテーマ。
その言葉の意味を全て習得した時に、初めて堂本流の名を名乗れるといっても良いだろう。
体。
タケシ、銀、拳四郎の肉体を見れば分かるように、ボディービルダーやプロレスラーもが驚く筋肉。それは、見た目以上にパワフルでタフネスな作りであり、想像以上にスピーディーでソフトな動きが可能である。
そんな筋肉を作り上げ維持するのに三人は、長い期間、常人が考える以上のトレーニングを続けている。その為、三人は、血の小便を出したことすらあった。
技。
堂本流の空手技は、他の空手に比べて足技やコンビネーションなどが少ない。しかし、他の空手の多くが、伝授を止めてしまったような技を、今でも教えている。
一本拳や抜き手、さらに目突きや金的などが、それに当たる。既に多くの空手が、禁じ手として使われなくなった技を、堂本流は、今でも教えている。その他の危険な技も多くあるが、この場では語らず、次回に……。
心。
それらの危険な技を得とくし、それらの危険な技を使う、それが意味することは、それらの危険な技を対戦相手が自分に使ってきても良いという意味でもある。
ナイフを使う者は、ナイフに刺されることもあるだろうし、拳銃で人を殺す者は、拳銃で射殺されても当然。堂本流が、他の流派が禁じ手としている技を使うと言うことは、それらと一緒なのだ。
そんな危険な技を使うのだ、そんな技を使っても誇れるだけの精神面の強さを持たなくてはいけない。
その精神理論は、複雑で有り、曖昧で有り、誤解されやすい。故に時間をかけて、揺るがない誇りある精神を築く為に、土台からしっかりと学ばなければならない。それがまた難しい。
心技体。
そうやって学んだ三つが、道を外さずに組み合わされた時に初めて堂本流を名乗れる。
銀は、その三つの文字が書かれた額縁を眺めながら酒を飲んでいた。
堂本流にどっぶりと漬かった銀には、初心を思い出すために丁度良い酒のつまみだった。
カチャ
銀が、再びグラスを口に運んだ時である。後方にある道場の入り口から、僅かに扉が開く音がした。
銀は、タケシでも帰ってきたのかと振り向いた。
扉を開けて入ってきた人物は、何も言わずに暗い闇の中でシルエットだけを見せていた。
「ん?」
タケシに比べて若干小柄なシルエットだった。身長も僅かに低く、筋肉の量が少なく細く見えた。
銀は、そこからタケシではなく別人だと悟る。しかし、このような時間に、この道場に足を運ぶ人物が思い浮かばなかった。
「どちらさまで?」
グラスを置いて立ち上がる銀が尋ねた。
その言葉に影は、ゆっくり前に歩き出す。
そして、窓から入る街灯の光が、その人物の歩みに連れて足元から照らし上げていく。
顔が見えた。若い男性だった。年のころは、十八歳から二十歳ぐらいだろうか。
窓から入る光に、その男の全身が確認出来るほどになると、銀と男の距離は、三メートルもなくなっていた。
「どちらさまで?」
銀は、穏やかな表情で再び男に尋ねる。
だが、男は答えない。
ブラウンカラーの袖の長いミリタリージャケットのファスナーを、立てた襟元まで上げた男。下は、少しだぶついたGパンを履いていた。そして黒いスニーカーを履いている。
男は、武道家にとって神聖である道場内に、土足で上がりこんでいた。しかし、それに気付いている銀の表情は、穏やかな物だった。
銀が、男の体を観察する。
拳には拳ダコがあった。それは、打撃系の武術を使うということ。
耳を見た。綺麗な耳だった。柔道やレスリングのようなグラウンド技は、おそらく使わないだろう。使ったとしても恐れるレベルでは無いと予想した。
じっくりとグラウンドに打ち込んだ者の耳は、床や相手の道着などに擦れて蒲鉾の様に厚くなることが多い。しかし、男の耳は、その様に見えなかった。
首を見た。鍛えてあるようだが、さほど太くない。やはりグウランド技は使わない。その為頭部へのダメージに対して耐久力が低く見えた。銀の様に、頭の大きさと首の太さが一緒でなかった
だが、見た目は細く見えるが、少し大き目の洋服の下には、しなやかな筋肉が隠されているのであろう。銀は、自分の前まで歩んだ足の運びから、彼の筋肉の動きを読み、その量を計算していた。
「尋ねたいことがある……」
「何かね?」
銀の質問を無視した男は、大きく見開いた瞳をギラ付かせながら質問を始める。銀は、そんな男の態度に、未だ紳士的な対応を見せていた。
「春子・ハルバードは、何処に居る?」
少し猫背で見開いた目が印象的な男は、意外な人物の名前を口に出した。
道場破りなのかと思っていた銀は、少し間をあけて答えた。
「何か用事でも?」
「何処に居る?」
「名も名乗らぬ者に、答える義理は持ち合わせていない」
薄暗い道場内で、男の口元が僅かに笑う。
「じゃあ、しゃべりたくしてやろうか?」
「若いの、後悔するぞ」
穏やかだった銀の表情に、随分と真剣味を佩びた力が入り始める。
「蹴り殺してやる!」
一段と大きく目を見開いた男が、狂人のような笑みを作り上げながら言うと、銀の両拳が握り締められ力がこもる。
銀の警告を無視した男は、左肩を銀に向ける形で横向きに構えると、爪先で跳ねる様にステップを刻み始める。
「言っても聞かぬようだな……」
銀は、構えを作らずに自然体で立っていた。
堂本流の構え無き構えだった。
「もう一度聞く、春子・ハルバードは何処に居る?」
無言のまま銀が、僅かに踏み出した。
その一歩が意味するもの。それは、銀の方も聞く耳は持たないという意味であろう。
此れから二人は、言葉ではなく、暴力で語り合う。
そのことに、男の顔が笑っていた。
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