泣き虫健人
「ただいまぁ!ゆき姉、気分はどう?大丈夫?あ、やった!カレーの匂い!」
健人が急いでブーツを脱ぎ、バタバタとリビングにやって来る。
まるで子供が外遊びから帰って来たかのように、一気に部屋が賑やかになった。
「お帰り!もう大丈夫だよ。けど、買い物しないで真っ直ぐ帰って来たから、
カレーぐらいしか作れなかった。
つぐみちゃんからも、『無事、家に到着!』って六時頃メールが来たよ。」
「またどっかに寄り道でもしてんじゃないかと思って、心配だったんだ。
そっか、良かった!じゃ着替えて、コンタクト外してくるわ。」
健人は足元に寄ってきためめの頭をなでてから、またバタバタとリビングを出て行った。
雪見は、まるで小学生の妹を心配するかのような健人に苦笑しながら、
カレーの鍋を温め直す。
遅い夕食を終え、健人はソファーに座ってくつろぎながら、明日のドラマ撮影の台本を開く。
隣では、健人が帰って来て安心した顔のめめとラッキーが、仲良く居眠りを始めていた。
「ふぅぅ…。取りあえずはこんなとこかな?ゆき姉、終ったからお風呂入ってくる。」
健人が台本を暗記してる間、雪見は静かに写真を整理したりお風呂に入ったりして、
健人の邪魔にならないように気を配る。
そして健人の声を合図に寝酒とつまみの準備をして、お風呂から上がってくる
健人を待つのが最近のパターンだ。
「あー、さっぱりした!じゃ、今日も一日お疲れ!」
チン!と軽くグラスを合わせ、冷えた白ワインを喉に流し込む。
「うめぇーっ!身体に染み込むわぁ!
あ!ゆき姉は一杯だけだよ!まだ病み上がりなんだから。」
「わかってるよっ!今日だけね。けど風邪じゃなくて良かった!
健人くんに移したら、どうしようかと思ったもん。」
雪見が健人のグラスに、二杯目のワインを注ぎながら安堵する。
「俺だって心配したよ!一人置いて仕事行ってるあいだに、ゆき姉がどうにかなったら
どうしよう!って。タイミング良くつぐみが来てくれて助かった!」
「心配し過ぎ!けど、ほんと、つぐみちゃんが来てくれて私も助かったよ。
お陰で大っ嫌いな点滴も、どうにか頑張れたし。」
雪見はすぐにでも、大沢真麻のその後を聞きたかった。
だが健人に気を揉ませたくはなかったので、もっと後にさり気なく聞いてみることにする。
「点滴してる間、ずっと二人でお喋りしてたわけ?一時間半も、なに話す事あったのさ。」
健人が不思議な顔して聞いてくる。
「えーっ!まだまだ話し足りなかったよ。だってお昼は健人くんも一緒だったから、
ガールズトークなんて出来なかったもん!」
「ガールズトークぅ?つぐみと?まさか男の話とか…。」
健人が、あまりにも真剣な顔をしてるのが可笑しかった。
「健人くん!つぐみちゃんが何歳になったか、知ってるよね?
彼氏の一人や二人、いたっておかしくないでしょ!」
「二人もいたら困るだろ!ねぇ、どんな奴か聞いた?写メとか見なかったの?」
世の中の兄と言う人物は、こんなにも妹の事が心配なのだろうか。
普段はつぐみの「つ」の字も言わないし、会えばお互い憎まれ口ばかりなのに、
本当はいつも気に掛けてるのだろう。
からかうのは止めにして、ちゃんとした情報を教えてあげよう。
「残念ながら、今は彼氏いないんだって。でも、その方が受験勉強に専念できるから、
ってさばさばしてたよ。どう?少しは安心した?お兄ちゃん!」
「マジで?ほんとにいないの?それもどうかと思うけど。」
口ではそうは言うものの、明らかに健人の顔はホッとしてる。
「それにしても、あいつが看護師になりたいなんてね…。全然知らなかった。
大変な仕事だろうけど、まぁ、あいつなら頑張れるかもな…。」
健人はきっとつぐみの成長が、嬉しいような寂しいような、複雑な心境なのであろう。
グイッとワインを飲み干して、「もう寝よっか。」と言った。
ベッドに入ってから、雪見は大切な事を思い出した。
「そーだ!熱騒ぎで大事なこと忘れてた!ちょっと待っててねっ!」
雪見はぴょん!とベッドを飛び降り、鞄の中から何かを取り出す。
そして、「はい!これ。やっと出来上がったよ!」と言いながら、健人の目の前に差し出した。
「俺の写真集だ!出来上がったの?見ていい?」
健人はガバッ!と身体を起こし、ベッドの上に足を投げ出して座る。
「もちろん!あとちょっとだけ手直しがあるけど、ほぼこれが完成形だから。
早く見て、感想を教えて!」
雪見も健人の隣りに座って膝を抱えた。
今までの健人の写真集は、健人も写真の選定作業に参加し、大部分が
自分の気に入った写真で構成されていた。
だが今回は、カメラマン浅香雪見の目から見た、『素顔の斎藤健人』が
第一のコンセプトであったので、雪見を始め編集スタッフにその殆どを任せてみたのだ。
この日初めて目にする自分の写真集を、健人は感慨深げに眺める。
「この写真を表紙に選んでくれたんだ…。
俺ね、今回の写真の中で、これが一番好きかも知れない。」
竹富島のオレンジ色の夕日が優しく身体を包み込み、胸がいっぱいになった健人が涙を流す。
それは撮影用の演技でも目薬を差した偽物の涙でもなく、心を許した人の前だからこそ流れた
本物の涙であった。
「私もこの写真が大好きなの。だから編集部の中では意見が割れたんだけど、
これだけは譲れない!って押し切っちゃった。
健人くんも気に入ってくれて良かった!
ねぇねぇ、早く中も見て!自分で言うのも何だけど、いいショットばっかりだから!
めっちゃ選ぶのには苦労したけどねっ。」
表紙を眺めたまま、中々ページをめくろうとしない健人を促した。
一ページ、また一ページとゆっくりめくる。
そこに写し出された数々の写真は、全てが生身の斎藤健人であり、魂を持ち合わせていた。
「やっぱりゆき姉だけだよ、本当の俺を撮せるのは…。
ゆき姉に出会えて良かった…。」
雪見と再会してから今日までの事が、走馬燈のように頭の中を駆け巡り、
またしても胸がいっぱいになった健人が、出来上がったばかりの写真集の上に
ポタポタと涙を落とした。
「あーあぁ!濡れちゃったぁ!普段は絶対泣かないくせに、なんで私といる時は
泣き虫になっちゃうの?しょーがないなぁ。」
そう言いながら雪見は、手で濡れた写真の上を拭く。
その指に光る指輪を見た時、健人は自分でも訳が解らぬほど、幼子のように涙が溢れた。
「よしよし、もう泣かないの。」そっと健人を両腕で包んで頭を撫でる。
腕の中の無防備な健人は、やはり生まれたてのバンビのように思えた。
私があなたを守ってあげるから…。
やっとみずきの宿題に答えが見つかった。