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群青の燭影  作者: 狐塚仰麗(引退)
1.薔薇色の火のScherzo
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雪冠る椿。

 駅からは徒歩だった。もちろんこの道は、前にも一度通っているのだし、これから毎日歩きまわる街の事である。こうして散策する事は先ず行うべき事の一つであることに疑いは無い。

 私はゆったりとしたペースで、駅前の繁華街から路地に入り、坂を上がって、突き当たりのT字路を右折、そこからまた少し蛇行気味のなだらかな坂を上がり、人気のない咲矢間さきやま神社の外を回って、更に住宅街を進む。ここら一帯はどうやら高級住宅地と言うべきものらしく、家々の間隔はとにかく広い。土塀やら石垣やらと手が込んでいて、なんだかよく解らない土地に迷い込んでしまったような心地がする。西洋建築と言うか、日本の穏やかな街並みを想像していると面食らう。庭からそれぞれ枝を広げる木々も背が高く、きっと夏はこの道は木陰になって涼しいだろう。

 目に見える範囲の建築も凝っている。だがこの時間は本当に歩いていても人の気配を感じる事は無い。ベッドタウンというやつだろうか、きっと都心のオフィスビルか何かで日中は、家主たちは仕事に勤しんでいるのだろう。そんな閑静な住宅地を抜けた所にある、比較的地味な生け垣に囲まれた、私の目的地に着いたのは、電車を降りてから三十分ほど経ってからだった。周りを眺めたりせずにさっさと進んで来れば、もう少し短縮できるはずだ。

 先ほど眺めた通り、高級住宅地を抜けて来て辿りついたと言うのもあるかもしれないが、トイレ、キッチン共同という一部木造二階建て築三十二年――木造は一部というのは、一度火事で一部が焼失したためで、実際は建て直されておりその三十二年の歴史は途絶えているとも言えるかもしれない――というアパートが、私のこれからの住みかなのだ。

 全体で101から104、201から204号室の八部屋からなっていて、一室は十畳一間という案外広いスペースだ。ちなみに私は203号室。アパートと言うより、いかにも日本の文学作品にでも出てきそうな、寮とか下宿然とした趣がある。


 時は三月の暮れ――まだ冬の寒さは残っているが春の足音がすぐそこまで近づいている頃。私が中学の卒業式を迎えてからまだ数日。これからの生活の準備を進めているところだった。

 新生活、高校生活を始めるに当たり、この度一人暮らしをするという結論に至った。英断であると言えるかもしれない。元から両親が不在であることが多かったため、私自身一人でいることに違和感は全くない――が正直、不安が無いということもない。ほかにも選択肢は有ったかもしれないが、何事も挑戦、これからの自分のためにこうした経験も必要であると判断してこうなった。

 さしあたって、この〈椿雪荘ちんせつそう〉は私が思い描いていた一人暮らしというイメージにぴったり合致するのである。建物の名前は、サスペンスドラマに出てきそうなロッジとかペンションみたいな感じがする。雪と椿というのは、実際に見た事は無いが趣のある景観だろうと思う。とにかく、新参者の私は、これから他の住人たちと挨拶したり、交流をしなければいけない。

 なにせ、寮のような設計のために共同スペースが多いのだから、必然的に全員との遭遇率が高くなる。私はそういう生活に憧れがあった。しかし、期待と同じくらいに、そこに不安が無い事もない、ここはできれば同年代の友人でも一人くらい、いてくれればな――と願うところであった。


 椿雪荘は、生け垣に囲まれたなかなか広い土地に建っていた。先ほど見て来た住宅も、それぞれこれくらいの庭を抱えていたから、アパートに庭があっても不思議ではない。しかし、これくらいのスペースならばちょうど、駐車場でも作ったら良いのに、と思えるほどの庭だ。と言ってしまっては無粋かもしれない。広さはその通りとはいえ、この庭の草木は雑然としているようで、細かい手入れが行き届いているようにも見え、管理人のさじ加減と言ったところか。

 春先の風のそよぎにのせて薫る草花は、どうやら雑草の醸すそれとは一味違っているようだった。朝起きて窓を開ければ、この香りがする。そう思うとなにやら胸が小躍りする。そんな気分にさせてくれる香りだった。植物の造詣が有るわけではないので、あくまで素人の感想であるが、心地よいのは間違いない。

 そうして庭を過ぎ行き、いよいよ椿雪荘へと足を踏み入れてみると、建物の正面玄関から廊下が奥まで続いているのがわかる。私は靴を脱ぎ共同下駄箱に置いた。何となく学校の朝の感じだ。この建物の中は土足厳禁。他の人の靴も置いてあるみたいだが、横に私物らしい別の靴箱が三つほど並んでいる。これだけ靴があると言う事は、恐らく女性だろうか。それにしても、この廊下、とてもいい雰囲気である。ちょっとしたシューティングレンジにもできそうな距離に見えた。

 玄関の脇には二階へ続く階段が有り、吹きぬけになっている。僕の部屋は203号室であるから、この階段を上っていけばいいわけだ。そうして階段を上がり切った所に、厠のマークが書かれた扉があった。見まごうことなく、これは共同スペースである。男女兼用だっただろうか。確認したところでは確か各階に二つあった気がする。もう一つは反対側、廊下の突き当たりにあるのだ。扉を開けて覗いてみると、男性用の便器が二つ並んでいて、奥に個室がある。トイレはとても綺麗である。少なくともカラオケ屋よりは清潔に保たれているようだ。見た所ではここは男子トイレ、ちゃんと覚えて、間違えないようにしなければ。

 ここは廊下にも、学校の廊下のように窓が並んでいて開放的だ。風通しも良いだろうし、夏も快適に過ごしやすそうだ。

 そう言えば、外観からすると部屋にベランダがない様だった。203号室、これから僕が暮らす部屋。

 鍵を開け中に入ると、玄関には段ボールが三つ積まれていた。後で中身を整理しなければ。けして多い荷物ではないが着いて今すぐという気分にはなれない。十畳一間ともなると、家具のあまりないこの状態はとても広く感じる。この状態を少し楽しみたいと思った。

 窓を開け、そこから顔を出して庭を見下ろすと、物干し台が並んでいるのが見える。なるほど、開放的だ。下着とかもお構いなしに、皆あそこに干すんだろうか。ただ、布団を干す事に関しては二階からでは少々面倒かもしれない。まあ、頑張ろう。

 空気が入れ替わり部屋の中が少しひんやりとしてきた。まだ三月、少し暖房にも頼る日がある時節。

 私はフローリングにゆっくりと腰をおろし、駅から歩いてきた道のりを思い返しながら軽くストレッチをした。ちょっとした気分転換だ。その後、段ボールを一つ開け、中から電気ケトルを取り出した。水道、と言うよりもはやキッチンと言ってもいい流し台は、部屋にちゃんと備わっている。なぜ共同キッチンがあるのかと思ったが、ガス関係はそちらにあるわけだ。火事が起きる前は、各部屋にガスコンロも設置されていたのかもしれない。今後は共同スペースでみんなで目を光らせましょうという事か。

 とは言え、私みたいに家電に頼ればあまりそちらを使う機会は多くなくなるのかもしれない。やかんでお湯を沸かすと言うのも乙なものだとは思うけど。

 ケトルに200mlほど水を入れ、湯を沸かす。インスタントのカフェオレ粉末をティーカップにあけ、お湯を注ぐ。160mlくらいで入れろと作り方の説明にはあるが、それだと少し甘過ぎると感じるため、私は少しお湯を多めに入れるのだ。これくらいでちょうどいい具合になる。それを飲みながら一息つく。

 あったかい。

 ――そうか。

 これから本当に一人暮らしが始まるのか、と思うと先ほどまで抱えていた不安は不思議な事にいつの間にやら霧散していた。……

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