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第5章―【6】夕凪
 ボクは水泳大会で優勝した。
 自由形100メートル小学生の部で、1位の表彰台に昇った。
 その後の団体メドレーで50メートル自由形を担当した競技も、同じく1位でフィニッシュする事が出来た。
 ボクは2枚の賞状を手に、広いプールサイドを歩き回った。
 もちろん千春を探していたんだ。
 でも彼女の姿は見つからなかった。
 マイクロバスで学校へ戻り、小さな打ち上げの食事会があった。
 体育館で一人ずつに小さなお寿司の鉢が配られて、何だか気だるい気持ちでそれを頬張る。
 女の子達は意外と元気で、男連中は静かだった。
 学校を出たのは四時をまわっていて、ボクは家に着くと親に声もかけずに外へ出た。


 千春は何処で暮らしているんだろう。
 何処かのアパートに入っているのだろうか。
 だったら別に転校なんてする必要ないのに……。
 子供のボクに、その事情の詳細は判らなかった。
 やっぱり、世間体が彼女の家族をこの地から遠ざけようとしていたのかもしれない。
 ボクは引込み線の古い線路に腰掛けたまま、コーラを飲み干して時間を持て余していた。
 古びたコンクリートの駅のホーム。
 後ろ側は、石で引っかいて書いた落書きで埋め尽くされている。
 誰かの悪口。学校の先生の悪口。
 女の子の名前。男子の名前。
 そして、二人の男女の名前を囲んだハートマーク。
 あいあい傘……。
 ボクは暇に任せて、くまなくそのいたずら書きを眺めていた。
 中には知っている教師の名前の後に「死ね」とか書いてある。
 三、四年生の時に同じクラスだった娘の名前が、遠慮気味に小さく薄い引っかき傷で書いてあった。
 何時の間に、誰がこんなに書いているんだろうか……。
 ボクは場所を移動しながら、落書きを眺めた。
 ホームの端まで来た時、ボクの視線は止まった。
『バイバイ、TOMO』
 それが千春の字かどうかは解らないけれど、まだ新しい引っかき傷なのは確かだった。
 ボクはその傷跡に手を触れる。
 彼女の心を感じる事は出来ない。
 空は緋色に変わり、気がつけば西の空が焼けるように紅く染まっていた。
 水あめのように透き通ったオレンジ色の雲が、遠くに波間を作っている。
 ボクは再び落書きを見つめた。
『バイバイ、TOMO』
 心の中で、「バイバイ」と呟く。
 その日、千春は来なかった。
 いや。ボクより先にここへ来たのかもしれない。
 解っているのは、もう彼女に逢う事はないという事実だった。
 近くの踏み切りが、不意に鳴った。
 振り返ると、小さく見える踏切の赤いランプが、夕間暮れの中でキラキラと点滅している。
 電車の時間ではない。
 普通は上りが毎時間五分と四十分。下りが十一分と五十五分だ。
 夕方のラッシュ時間でも、この時間に電車は無いはずだ。
 蒸気の音が聞こえた。
 ボクは夕陽に染まる景色を見つめる。
 緩いカーブの向こうから、白い煙が見えた。
 車輪を回す機械的な轟音が響く。

 駅のホームを挟んで目の前を機関車が通り過ぎてゆく。
 相変わらず客車は引いていない。
 駅を抜けた機関車は、木々の合間を縫う様に夕闇に背を向けて走り去る。

 草原を駆け抜ける機関車の煙を、ボクは消えるまで何時までも見つめていた。
 ゆったりと尾をひいた白い煙は、ゆらゆらと空へ上りながら霞んで夕映えに溶け込んだ。
 それは、ボクが観た蒸気機関車の走る、最後の姿だった。
 ヒグラシの声だけが夕凪の景色の中に染み渡り、まだ早い夏の終わりを告げようと辺りに響いていた。



 …………
 大人は忙しい。
 会社などに属する日々は想像以上に忙しくて、遠い昔を振り返る暇などなかった。

 今年、地元をSLが走るらしく、街角で宣伝ポスターを見かけた。
 あの頃見た、C62だった。
 不意に頭を過ったのは、けたたましい蒸気の圧縮される音となだれ込むような蝉の声……。
 そしてあの頃出逢った彼女たちの姿だった。
 もうオバサンになっている彼女達は、どこかで元気にしているのだろうか。






              END
最後までお読み頂き有難う御座います。
このお話は、別になにかメッセージ性を含んではいません。
過ぎ去った遠い夏の思い出が蘇える……。
そんな雰囲気を味わってもらえたなら、それでいいのです。
有難う御座いました。
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