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第2章―【6】手のひら
 ユミの家が在るのは踏み切りの向こう側で、ボクの家の前の駅から線路に沿って道路を歩くと直ぐに踏切が在る。
 その踏切を渡って線路沿いに戻るように、ちょうど駅を挟んでぐるりと道なりに回りこんでから路地を奥へ入ると彼女の家は在った。
 コンクリートブロックを積み重ねたような灰色の四角い家だった。
 何度か遊びに行った事があるけれど、父親のモノだというアルトサックスがユミの部屋に置いてあって、吹こうとしたら彼女に怒られた事がある。
 いま考えると、それだけ父親のモノを大切にしていたという事だ。
 おそらくユミは、不在である父親に親しみを感じている。もしかしたら、毎日顔を合わせるボクよりも、父親を大切に思っているのかもしれない。
 毎月第3日曜日に父親が帰ってきて、その日だけ父親と一緒に食事をすると、以前ユミが言っていた事が在る。
 ボクは単身赴任とやらから帰宅しているのだと思っていたけれど(たぶん、ユミもそう思っていた)、おそらく別居宅からユミに逢いに来るのだ。
 当たり前のように父親が傍にいるボクには、彼女の心理の全ては判らないし、性別も違うからその想いも判らない。
 でも、ユミはきっとヒミツの隠れ家にそっと影を潜めているに違いない。

 鉄橋を渡る頃には、だいぶ辺りが暗くなっていた。
 緑の茂みは黒々と姿を変えてボクに覆いかぶさろうとしている。
 こんなに速く駆け抜けた事はないというスピードで、鉄橋の中央に敷かれた網を渡った。
 ガシャガシャという網の震える音が、背中からボクを追いかけるように聞こえた。
 黒く聳える松林の遊歩道を抜ける頃、ボクは手に持っていたマグライトを点ける。
 白い光が湿った黒い土の歩道を照らす。
 正面に黒い建物が見えたのでライトを正面へ向けると、青い古ぼけた建物が光の中に浮かんだ。
 去年の夏、幾度となくユミと来たボクたちだけのヒミツの隠れ家。
 彼女の唇を感じた、古びたボート小屋にボクは来ていた。
 相変わらずボロで、壊れたトタン壁の隙間も健在だった。
 マグライトで小屋の中を照らすと、直ぐに人影が見えた。
 小さくて、仔犬のようにうずくまった人影が誰なのか、ボクには直ぐに判った。
「ユミ、いるのか?」
 とりあえず声をかけてから、ボクは小屋の中へ足を踏み入れる。
 返事は無かった。
 フラッシュライトの明かりが、小さく丸まった影を照らし出す。
「ユミ、何してんだ? みんな探してるぞ」
 ユミは膝を抱えてそこに頭を着けた状態で、微動だにしない。
 足先がちょっとだけもぞもぞと動いたのを見て、ボクは彼女の隣に腰を下ろした。

 どのくらいそうしていただろう。
 ボクはユミの隣で黙ったまま、ただ座ってフラッシュライトが照らすボロい天井を見上げていた。
 何かを言おうとしたけれど、何となく言葉が探せなくて、ただ傍にいた。
 ボクの親は昔から共働きで、父親は山の向こうの隣町へ車で食料品を売りに行っていた。
 新しい道路開発の事業者や、広がる部落集で食料品は飛ぶように売れたらしい。
 母親は自宅と繋がる店にいたけれど、姿は見えるが相手をしてもらう事は少なかった。
 幼稚園に通うようになったボクは幼稚園バスで送り迎えされていたが、バスの止まる踏み切りの向こうまで歩いてゆく必要があった。
 どの園児も母親が付き添いで送り迎えをしていたが、ボクは何時も一人だった。
 そんな頃、ユミの母親はウチのパート募集に来た。
 色黒で小さなユミを連れて来た日の事はボクも覚えている。
 長い髪の毛にサロペット姿の彼女は、キョロキョロとボクの家とボクを見渡して笑った。
 明るい子なのだと、子供心にボクは感じた。
 ユミには三才上の姉がいるが、そっちは滅多にウチへ来ない。社交的なユミに対して、どこか内向的なところが在る姉のミキは、家で読書をするのが趣味らしい。
 母親にくっついて来るのは何時もユミで、幼稚園は違っていたけれど徒歩で通う保育園の帰りに直接、ユミは母親のいるウチへ寄っていた。

 ユミのお母さんや他のパートさんが帰った後も、ボクの母親は店で仕事が残っていた。
 何時も視界に入る母親は何時でも忙しくて、滅多に構ってもらえなかった。
 ユミにとって、父親はそんな存在かもしれない。
 彼女の場合、視界にさえもなかなか入らなかった父親……それが、もしかしたら永遠に会えなくなる存在になるかもしれない。
 ボクは膝を抱え込んだまま動かないユミの左手に自分の手を乗せた。
 小学校三年生のボクに、その時かける言葉なんて思いつくはずも無い。
 ユミの右手が僕の手に覆いかぶさり、強く握られた。
 冷たい手のひらが、ボクの手の甲を包み込む。
 そのまま暫く、ボクらはただ沈黙したまま時を過ごした。
 砂嵐が通り過ぎるのを静かに待つ、砂漠のジプシーのように……。




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