第二章 オレンジ色の空 3
ここで話は少し前に戻る。
簡単にマットの掃除をし終えたトーマスは、ユージンを探していた。
ドアを開けたまま放置して、結果、予備のベッドを猫のゲロまみれにしてしまったことに文句を言うためと、彼のベッドをクリスに使わせることを伝えるためだった。使わせていいかという確認や許可をとるためではない。それはトーマスによってすでに決定済みなのであった。
それから今日の夕食をどうするかも聞いておいたほうがいいだろう。外食のつもりだったから、何も用意していない。というより、昨日からの夕食当番はユージンだったのだから、トーマスが考えるべきことでもないのだ、こんなことは。
自室にはいなかったので、バスルームへ向かう。ユージンが風呂に入りたいと言っていたのを思い出したのだ。
買ったときからほとんど手をつけてないという家の中で、大きなバスタブがほしいと言ってユージンが唯一手を入れたのが、二階のバスルームだった。
案の定、バスルームの入り口には服が脱ぎ散らされている。
「ユージン!」
折り戸をあけると湯気が一斉に迫ってきた。が、本人の姿は見あたらない。
「どこ行ったんだ、あの人……」
苛立たしげに戸を閉めようとしたとき、バスタブの中からざばっという音と共に何かが現れた。いうまでもなく、トーマスが探していた人物である。
「びっくりした?」
水泳用のゴーグルを外しながら、嬉しそうに笑う。わざわざ湯の中に潜って隠れ、彼が来るのを待ちかまえていたらしい。トーマスは激しい脱力感に襲われた。
「あなたの隣のあの部屋のベッドのマット、猫のゲロまみれでクリーニングに出さなきゃ使えません。だから、クリスはあなたの部屋に寝かせます」
「えー、やだよ。俺、昨夜は寝てないんだからさー。ベッドで寝たいよー」
「誰のせいで予備のベッドが使えなくなったと思ってるんですか。そもそもあなたがドアをいつもちゃんと閉めないから、猫が入り込んで悪さするんでしょう?」
「だって猫たちが入りたがるんだもん」
半分湯に沈みながらブクブクと反論する。
「言い訳になってない」
びしっと言い捨てて背を向けようとしたトーマスは、もう一つ聞くことがあったことを思い出した。
「ところで、今日の夕食はどうするんです? クリスもいるし、パーさんももうすぐ来ますよ」
「みんなで食べに行けばいいじゃない。子ども連れでも大丈夫なとこ、あるだろ?」
「店側の問題じゃなくて」
トーマスはどことなく心細そうだったクリスのことを思い出す。
「あの子、母親を亡くしたばかりでしょう? できるだけ静かな環境で、ストレスは与えないようにしたほうがいいんじゃないですか?」
「それもそうだね。んじゃ、誰かが作るってのは?」
いかにも名案を思いついたように人差し指を立てたユージンを、トーマスは睨む。
「昨日から向こう四日間の食事当番は誰になっていたか、覚えてますか?」
「……俺がなんか適当に作るよ。ところで」
階下に戻ろうと背を向けたトーマスは呼び止められた。
「お願いなんだけど、タオル持ってきてくれない? 補給するのうっかり忘れててー」
「お断りします。用意しなかった自分が悪いんでしょう。そもそも二階の管理担当はあなたじゃないですか」
「そんなこと冷たいこと言わないでさー」
「嫌です。自分で何とかしてください」
「あっ、そう」
湯から上がったユージンが、水滴をしたたらせて近づいてくる。濡れた床をふくべきかどうか一瞬悩んだ隙に肩をつかまれ、強引に対面させられる。
「抵抗するなよ?」
言いながら、ユージンはトーマスのシャツを脱がし始めた。
「しませんよ」
こうきたかとあきれながらも抵抗はしない。そんなことをしようものなら押さえ込まれて無理矢理脱がされるに決まっている。外見に似合わず彼は荒事が得意なのだ。無駄に痛い思いなどしたくない。
「……いい子だ」
脱がせたトーマスのシャツで体を拭きながら、ユージンは揚々と素っ裸で出て行った。
「あっ、またお湯抜いてない!」
バスルームでは残されたトーマスの叫び声が響いていた。
母親が男を連れ込むこともあったから、行為そのものは見たことがないにしても、情事の気配には慣れているつもりでいた。
しかし、リビングに戻ってきたトーマスの顔をクリスはまともに見ることができなかった。
「もう少ししたらユージンが食事を作る予定だけど、それまで保ちそう?」
「大丈夫です」
「お客さんも来るけど、いい?」
「問題ありません」
ふとトーマスの襟元を見ると、ジャケットは同じだがシャツは変わっていた。さっきの光景を思い出し、思わず顔が赤くなる。
「……クリス、熱がある?」
「ありませんっ」
だから近くに来ないでってば!
心配そうにトーマスが寄ってくるのを、ずりずりとソファーの端に移動しながら避ける。
「それならいいんだけど……」
トーマスは戸惑うように少し微笑んでもう一つのソファーに座った。側の小さなテーブルに積まれている本の中から一冊取って読み始める。
窓の外は完全に日が暮れて、庭が黒く見える。敷地の外に街路灯がぽつんとともっている。
その遠くで空に向かって何本も伸びる光の柱は、地下都市を支えるための大きな塔で、そのまま一つの小さな街にもなっているそうだ。
そんなことをタクシーの車中で話してくれたセイラのことを、クリスは思い出した。
何か連絡が来ているかもしれないと、端末をポケットから出して見てみるとはたして彼女からのメールが届いていた。
「ふうん……メシの内容を報告しろってか。そんなことするんだ」
右耳のあたりで声がした。驚いて見ると、いつの間に部屋に入ってきたのか、ユージンがソファの後ろからクリスの手元を覗き込んでいる。慌てて端末をポケットにしまう。
「隠す必要ないのに」
クリスの頭をくしゃっとかき混ぜて、ユージンは奥のキッチンに向かう。服が替わっていて、黒いハイネックのセーターと同色のズボンを身につけている。黒ずくめのその背中に「プライバシーの尊重は大事ですよ」というトーマスの言葉が当たって落ちる。
確かに隠すような内容ではない。それなのに隠してしまいたくなるのは、自分に後ろ暗いところがあると言っているようなものではないだろうか。
不安になって様子をうかがうと、ユージンはカウンターの奥、冷蔵庫や保管庫の前あたりで唸っている。
「ろくなものがないな」
「ええ。買い出しをさぼった人がいたので」
「……まあいいか。あるものでなんとか」
「くれぐれも『食べられるもの』にしてくださいね」
ページから目もあげずにトーマスが突っ込む。
そのやりとりを見ていて、クリスは微妙な違和感を感じていた。
彼らは恋人同士ではないのか。それにしては、なんともドライすぎるような気がしたが、身近に男性同士のカップルはいなかったのでわからない。こういうものなのかもしれない。
そのうちに何やらいい匂いがしてきた。油とニンニクの匂い。ナイフで刻む音が続く。時々止まって、鍋に何かが放り込まれる。炒めた玉ねぎの甘い匂いも漂ってきて、クリスの腹は小さくくうと鳴った。
「そういえばクリス、嫌いな食べものはある?」
一段落ついたのか、キッチンから出てきたユージンに聞かれて、クリスは首を横に振った。
「そりゃ素晴らしい。嫌いなものが多いやつより三十倍は楽しい人生が送れるね」
持っていたタンブラーを空けて、ユージンは満足そうにうなずいた。カウンターの上にはいつの間にか、中身の減った白ワインの瓶が乗っている。
「そろそろテーブルの用意してよ。トーマス君、それくらいはいいだろ?」
「それくらいなら」
読んでいた本にしおりを挟み、トーマスは立ち上がった。サイドボードの引き出しから布をひっぱりだして、テーブルにふわりと被せる。
開きっぱなしになっていたドアをノックする音に、皆が気づいた。
玄関の呼び鈴は鳴らなかったので、直接入ってきたのだろう。ということは、玄関のキーロック解除を許されているほど親しい人間ということになる。
「こんばんは、諸君」
背の高い来客は片手を挙げて挨拶した。ユージンとトーマスもそれぞれ、やあとかこんばんはとか挨拶を返しているので、クリスもこんばんはと声を掛けた。
「これ、トーマス君にお土産。食後のデザート」
菓子店名の入った高級そうな紙袋をクリスの前のテーブルに置いた。
それから客は手袋を取り、コートを脱いで、ドア近くのハンガーに自分で掛けた。
そのままクリスの横を通りすぎて奥に行き、カウンターの上に用意されていた白ワイン入りのグラスを取る。カウンターの奥から突き出されたユージンのタンブラーと軽く合わせると、立ったまま一気に空ける。すかさずユージンがグラスを満たす。
「返事した通り食事は外でなくても構わないけど、どうみても君の関係者っぽいあの子は何?」
「やっぱりそう見える? クリス、紹介するからちょっと来て」
客の露骨な視線に、見せ物にされているような居心地の悪さを感じながらも、仕方なく立ち上がる。トーマスの方をちらりと見ると、クロスを整えていた彼は、大丈夫というように小さくうなずいた。
「クリス、これが俺の友だちのパーさん。パーさん、これが俺の子どもかもしれないクリス。ほら、握手、握手」
また奥のキッチンに引っ込んでいたユージンが、寸胴の中に乾麺をぼりぼりと折り入れながら、簡潔すぎる紹介をする。
パトリックはユージンより少し年上に見えた。ポケットから鮮やかな色のチーフがのぞいていて、着ているのはダークスーツなのに、どこかしら華やいだ印象がある。
「初めまして。パトリック・グリーンです」
「クリス・バーキンです」
いつの間にか加わっていたトマトの匂いの中で、クリスは握手した。
「今日はガワなしのキッシュとミネストローネ。キッシュはツナとほうれん草の足りなきゃピザでも焼くよ。冷凍でよければ」
カウンターの奥から聞こえるユージンの声に、洗い物でもしているのか水音が混じる。
学校のカフェテリアでも見るようなありふれたメニューだ。トーマスの『食べられるもの』にしてくれというリクエストを聞いて、少し警戒していたクリスはほっとした。
「サラダだけなら出来てるから先に食ってて」
カウンターの上に大きなサラダボウルがどんと乗せられた。クロスのかかったテーブルにトーマスはそれを運ぶ。
続いてパトリックがボトルと自分のグラスをテーブルに移し、そこを自分の席と決めて落ち着いた。
トーマスがその向かい席の椅子を引いて、クリスに座るように促す。椅子は少し高い。足が完全には床に着かず、頼りなく揺れた。
取り皿やカトラリーを準備し終えたトーマスは、サラダを取り分け、やっとクリスの隣に座った。
「先にいただきますよ」
カウンターの奥のユージンに声をかけて、トーマスはサラダに手をつけた。異常はないようなので、クリスも自分の皿に手を伸ばす。ブロッコリーとカリフラワーをドレッシングで和えたもので、砕いたナッツがまぶしてある。
「……面白い味」
「口に合わなかったら、無理しなくてもいいんだよ。他のものを用意しようか?」
トーマスがフォークを置いて立ち上がろうとする。
「ううん、そうじゃなくて。美味しいんだけど、変わった味がする。ドレッシング?」
「面白い味か。子どもの言うことって面白いね」
頬杖をついたパトリックが、残り少ないボトルの中身をグラスに注ぐ。
「できたよ」
ユージンがボウルにたっぷり入ったミネストローネを盆に載せて運んできた。角切りの野菜の間に短いパスタが揺れている。
続いて間の抜けた電子音が鳴った。いそいそと奥に戻ったユージンは、今度はグラタン皿を皆に配る。ほどよく焦げ目がついたキッシュは、熱とチーズの香りを発散していた。
自分の席に座ろうとしたユージンの前で、催促するように空になったボトルが振られる。
「パーさん、今日はワインはおしまい」
これでは足りないと主張するパトリックを無視して、ユージンはしつこいほど息を吹きかけて冷ましたミネストローネに口をつけた。美味いじゃないかと自画自賛する。
クリスもつられるようにうす赤いスープを一口含んだ。確かに学校のカフェテリアのよりおいしい。続けてキッシュも少しだけ味見する。これも近所にあったデリカテッセンと同じくらい、いや、いつも冷め切っていたあれよりもずっとおいしい。
「いつもまともに作ってくれればいいんですけどね」
言いながらどこか遠い目をするトーマス。
「あ、そうだ。セイラさんにメールしないと」
クリスは携帯端末を取り出した。文字だけの報告メールなら後でもよいのに、なぜか目の前の食卓を写したくなった。端末付きのカメラを使って、料理を一枚、静止画像で撮る。
「どうせなら記念にみんなで写せば? 僕が撮ってあげよう」
手を出すパトリックに、クリスは軽い気持ちで端末を渡した。
「俺は写真嫌いだから……」
キッチンに逃げ込もうとしたユージンの耳を掴んだトーマスは、引っ張ってきた彼を無理矢理自分の席に座らせた。鎖骨の上あたりをがっちりと掴み、逃げられないように固定する。
「クリス、もうちょっとこっちに寄って。パーさん、今!」
はいチーズのかけ声がかかる。フラッシュが光った。
「トーマス君のバカ。写真撮られると寿命が三年縮むんだぞ」
「いつの時代の人間ですか、あなたは」
文句を言いながら自分の席に戻るユージンに、トーマスがあきれている。それを見ていたパトリックは笑いながらクリスに端末を返した。
「よく撮れてるよ」
礼を言ってデータをチェックする。端末の小さな画面には、仲の良い家族のように身を寄せた三人が写っていた。
遺伝的な関係は正式の鑑定待ちなので、今の時点ではクリスとユージンとトーマスは他人同士でしかない。
義父や義母と本当の親子のように仲の良いクラスメイトもいたから、家族というのは単純に血のつながりではないというのはわかる。反対に、血がつながっていても、憎み合う家族もいる。
遺伝子だけでもなく、経済だけでもなく、愛情だけでもない。
家族というのは、もっと複雑なものではないだろうか。
死んだ母親を愛していたのかと問われると、クリスは頷くことはできない。彼女は鬱陶しい枷だった。しかし同時に、確かに彼女だけがクリスの家族だったのだ。
こんなところで、何やってるんだろう、オレ。
再び口した料理は、急に温度が下がっているような気がした。それでも美味しかったのだが。

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