今回は少々腐ったシーンがあります。
アレルギーのある方はご注意ください。
第二章 オレンジ色の空 2
セイラを見送ったあと案内されたのは、トイレの先の廊下を右に曲がった奥の部屋だった。
その部屋はリビングらしく、L字に組まれた長短二つのソファとテーブルがある。その向こうは床までの大きな窓になっていて、左奥には四人掛けの食卓がある。
長いソファーの真ん中で背筋を伸ばし、壁に備えつけられたモニターでニュース番組を見ていたトーマスが、ドアの開く音に振り向いた。
ニュースはラグランジェ国際宇宙港に入港した超豪華客船の話題で、女性のアナウンサーの声が「エーオース号は十ヶ月ぶりに帰港し、これから約二か月のドッグに……」と告げている。
それはちょうどクリスたちの乗ったシャトルといれかわりに入ってきた船だった。白く大きな美しい船体が画面に映し出されている。
「どうなりました?」
声をかけてきたトーマスは、ユージンの後ろから現れたクリスを見て目を丸くした。
「この子、うちに泊めることになったから」
ユージンはポケットの中から出した自分の端末でモニターのスイッチを切った。
「ちょっと、ひとが見てるのに……どうしたんです?」
明らかに不機嫌そうなユージンの様子に気がついたトーマスは、問いただすような目で見上げる。
「そういうわけで、部屋の準備とかよろしく」
ぶっきらぼうに言い捨て、ユージンはクリスを残して部屋を出て行こうとした。
「あ、ドア。ちゃんと閉めてくださいよ!」
「はいはい」
投げやりな返事と同時にドアは音を立てて閉められた。残されたクリスは、どうしたらいいのかわからずにそのまま突っ立っていた。
トーマスは立ち上がって、そんなクリスをソファーに連れて行き座らせた。
「君のせいじゃないです」
隣に自分も腰を下ろしながら続ける。
「大したことはありません。あの人、気分屋なところがあるから、気にしないで」
そして安心させるようにクリスの肩に軽く触れた。
それで落ち着いたというわけでもないのだろうが、クリスはあたりを見回してみる気になった。
ドアのある方の壁際には食器や酒瓶などがしまわれた棚が二つ、左の奥の方にはカウンターが設えてある。その奥にもスペースがあるらしいが、ここからはよく見えない。
クリスの視線が止まったのに気づいたのか、トーマスが説明する。
「あのカウンターの奥はキッチン。水を飲みたかったら冷蔵庫にミネラルウォーターがあるから自由にどうぞ。冷やしてないのは冷蔵庫の横の箱に入ってまするからね。ああ、そうだ。君の携帯端末貸してくれるかな。登録しないと家の中では何もできないから」
思い出したように言って手を差し出したトーマスに、クリスはポケットからブルーの端末を出して渡す。
「へえ、きれいな色だね。青が好きなの?」
「うん」
意外に元気そうなクリスの返事に微笑んでみせると、トーマスはモニター下のサイドボードの上にあった箱形のターミナルからコードを引っ張り出して繋げ、登録を始めた。
家庭や建物によって設定は異なるが、登録された端末がなければ灯りもつけられないし、電子レンジも使えない。
「それから君が疲れてなければ、部屋に案内しようと思うんだけど、どう? 後からにする?」
トーマスは登録の終わったクリスの青い端末を手渡しながら尋ねた。
「大丈夫。元気だから案内して」
クリスはバッグを掴んで立ち上がった。
広いだけが取り柄とユージンが言っていただけあって、家は大きかった。
リビングを出て廊下を曲がり、玄関に戻った。最初に入った応接室の奥にももう一つ部屋があり、そこで建物の右翼は終わっていた。
「こっちだよ」
玄関から正面奥の扉の手前に二階に上がる階段がある。黒く塗られた鋳鉄がつる草のように絡んだ手すりがついている。
きょろきょろしながら階段をあがっていたクリスは、躓きそうになった。
「大丈夫? 気をつけてね」
即座に差し伸べられる手が何となく居心地悪い。でも悪い気分ではない。
階段を上がりきったところに、木で作られた簡単な扉のようなものがついていた。扉といっても大きなものではなく、せいぜいクリスの胸くらいの高さで、大人でなくても乗り越えるのは難しくはない。
「これ、何ですか?」
トーマスにはなんとなく質問もしやすかった。
「ああ、これは猫の脱走防止柵だよ。お客さんが来るから一階には出さないようにしてるんだ」
「猫、何匹いるの?」
「八匹」
「八匹!」
「ユージンのせいでね。おかげで知り合いには『猫屋敷』って呼ばれてるよ」
ドアを開けるように柵を動かして廊下に出たトーマスは、窓を背に立ち止まった。
「僕の部屋は一番奥のあそこ」
右手を指さす。応接室の奥の部屋の、ちょうど真上あたりだ。
「あそこにいなければ隣の書斎で仕事をしてるよ。君の泊まる部屋はこっちね」
今度は左手に向かって歩き出す。
「ここがトイレ」
と歩きながら一つめのドアを軽く叩いた。
「ここは二階のバスルーム。バスルームは一階にもあるから、好きなほうを使ってね」
次のドアを叩く。
「ここは空き部屋」
そのまた隣のドアを叩く。それから廊下を右に折れ、最初のドアの前に立つと振り返って尋ねた。
「猫を見たい?」
「見たい!」
クリスが言うと、ドアを少し開いて右足だけを素早く突っ込んだ。そのまま、クリスを手招きをする。
「今、部屋に閉じこめてるから外に出したくないんだ」
クリスがドアからのぞき込むと、がらんとした部屋にボロボロのソファーが二つと、奥の壁際にいくつかの妙な棚のようなものがあった。棚といっても太い棒に板きれや小鳥の巣箱のようなものがくっついていて、何なのかわからない。
猫たちはソファーや棚の上でそれぞれくつろぎながらも頭だけ上げて、警戒心と好奇心の入り交じった瞳でこちらを眺めている。
トーマスはドアを静かに閉めて、先に進んだ。
「ここがユージンの部屋」
またドアを叩いた。その先に左に曲がる短い廊下があって行き止まりになっていた。
「そしてここが君の部屋」
行き止まりの手前にドアがある。
「実はまともなベッドがあるのはここだけなんだ。ベッドを用意してあげるから、ちょっと中で待ってて」
言われたクリスが部屋に入ると、ベッドとナイトテーブルと作りつけのクローゼットのある殺風景な部屋だった。ひとけがなくて、寒々しかった。
おまけに、むきだしのベッドマットは汚れている。ベッドに腰かけてよく見ると、茶色のがびがびしたものがこびりついていた。
こんなベッドに寝るのはイヤだなあとクリスが眺めていると、パッドやシーツや毛布を山のように抱えてトーマスが入ってきた。そしてクリスの視線の先のガビガビを発見し、絶句した。
「猫のゲロが……。だからドアはちゃんと閉めるようにあれほどいつも言っているのにあの人はっ!」
持ってきたものを乱暴に床に置くが、もともと柔らかいものなのでちっともそうは見えない。トーマスは上着を脱いで、シャツの腕をまくった。
「仕方ないな。今夜はユージンのベッドを使ってもらうことにして、と」
それからクリスの背を押すようにして一緒に廊下に出る。
「僕はあの後始末をするから、君はリビングでテレビでも見ててくれるかな。それから、設定してないから番組の年齢制限は自分で守ってね」
トイレのドアを開けながら念を押す。掃除道具が中にあるのだろう。
「わかったよ。トーマスさん、早くきてね」
クリスはまんざら嘘でもなくそう言った。トーマスの近くの空気は暖かい気がしたのだ。
パスワードが解析不能だったことといい、一人でいるとどうもこの家からは拒絶されているようで心細い気持ちになる。
本当は自分が嫌いなのに相手こそが自分を嫌いなのだと思い込むというような、心理的防衛機制――つまり自分がこの家を拒絶しているから拒絶されているように感じる可能性も考えたものの、ここは自分の居場所じゃない、という強い違和感はぬぐえなかった。
暗くなり始めた窓から見える空の色が、見慣れたものとは違いすぎるからだろうか。
もっとネオンがきらきらしていなくては、夜は寂しすぎる。
リビングに戻ったクリスは、登録したばかりの端末を使ってテレビをつけてみた。
他にもいろいろいじってみたが、クリスの端末に施されたのはゲスト用の登録らしく、許可されているのは家電の操作だけのようだった。サーバにはアクセスできない。またしても拒絶されている気がした。
デフォルト表示になっていたのはニュース・チャンネルで、視聴履歴を見てもやはりニュースやドキュメンタリーばかり。たまに人物のサムネイルを見つけても普通のドラマや映画だった。番組の検索キーワードをチェックしようとしても即時消去設定になっていているらしく、残っていない。
アタリはないだろうと思いながらも、映画とドラマの作品名、キャスト、スタッフリストを作成し、保存しておく。そこからキーワードを拾い出し、組み合わせて後でパスワード解析のときに試してみるつもりだった。
一万文字のパスワードが設定できても、端末の声紋や指紋認証に慣れている一般家庭なら、パスワードはせいぜい二十文字程度のことが多い。多くても五十文字以下だ。
そしてそういった際、ソーシャル・ハッキングは、古典的だが有効な手段なのだ。
番組は、ローカルからワールド・ニュースへと変わろうとしている。
「トーマスさん、遅いな」
なんとなく心細くなってきたクリスは、トーマスを探すことにした。
ユージンもどこへ行ったのか、あれから姿を見ない。
片っ端からドアを開けていくが、一階には誰もいなかった。
二階にあがってすぐ、廊下に湯気が漂っているのに気がついた。窓ガラスの内側が白く曇っている。
トーマスにバスルームだと教えられたドアが少しだけ開いていているのが見えた。そっと覗いてみると、トーマスの後ろ姿が見えた。奥の浴室の手前、脱衣所に立っている。ガラスか強化プラスティックらしい折り戸が開いて、そこから湯気があふれていた。
「抵抗するなよ?」
ユージンの声がした。
「しませんよ」
あきらめたようにトーマスが答える。その向こうにぼんやりとした人影が見えた。
「……いい子だ」
笑いを含んだ声と同時にトーマスのシャツが脱がされ、彼の裸の背中があらわになる。
クリスの脳はそこで動きを止めた。
気がつくと、クリスはリビングでニュースを眺めていた。いつの間にか芸能ニュースになっていて、映画スターらしい男女が笑顔で口づけと抱擁を交わしていた。
「……ええと」
チャンネルを子ども向けアニメに変えてみた。魔法使いの少年と黒ウサギが画面の中で掛け合いをしているが、内容はまったく頭に入ってこない。
同性婚が一般化しているとはいえ、子どもの親になるのは異性愛か女性同性愛のカップルが自然と多くなる。そして、クリスの住んでいたあたりでは女性同性愛カップルも少なく、異性愛こそが正当だという風潮が強かった。
そういうこともあって先ほど二階で見た光景は、さすがのクリスにとっても大変ショッキングなものであった。

参加作品