第四章 グッドモーニング、メリー・サンシャイン 3
二階のユージンの部屋にトーマスが上がって行ってからしばらく経つ。一人でいるクリスには、時間が過ぎるのがやたらと遅く感じられた。
時計ならちゃんとサイドボードの上にあるのに、つい携帯端末で時刻をチェックしてしまう。見ると、メールが入っていた。セイラからだ。
――朝ご飯、ちゃんと食べた?
「あ、メールするの忘れてた……」
食事は既に終わって、皿も片付けてしまった。朝食のメニューなんて特殊なものでもないから良いだろうと、テキストだけの連絡を入れることにする。返事はすぐにきた。
――他に問題はない?
「今日からはやっぱりホテルに泊まりたいんですが」と入力しかけて指が止まる。
本当に、午前中でなんとかできるのか? なんとかできなければ、おめおめ帰るのか?
それでは、なんのためにこんなところまで来たのかわからない。
それに――。
明日からは一緒に食べようね。
トーマスはそう言ったのだ。
それは何気ないひとことだったのだろうが、海底に深く打ち込まれた船の錨のように、クリスを引き留めようとしていた。
せめてあと一日だけ――。
儚い泡のように浮かび上がってきた願いを、クリスは現実的判断に書き換える。そんなの関係ない。鑑定結果が出るまではどうせ動きようもないから、ここにいるだけだ。どこに泊まるかなんてそのくらいの手配、いつでも融通は利くはずだ。
書きかけのメールは一応仮保存して、「特に何もありません」と送信した。
――安心しました。
――何かあったらすぐに連絡してね。
――じゃあ、また後で。
セイラとのやりとりが終わると、もうすることはなくなって、ソファーに席を移し、壁のモニターに流れるニュースの映像をただ眺めることことになる。ニュースは昨日とほぼ同じで、あまり代わり映えもしない。
画面に映っているのは、またあの宇宙船。白くて大きな。
途端に画面は真っ暗になった。
「ったく朝っぱらから最低だ」
ぶつぶつと文句を言いながらダイニングに入ってきたのはユージンだった。不機嫌な様子で、色の抜けかけた紺色のカーディガンのポケットに端末を突っ込む。
「だからこの時期は嫌いなんだよ。どうして俺がこの部屋に入ってくるたびに、あの船がでかでかと画面に映ってるんだ! クソむかつく。そもそも……」
そこでユージンはやっと、まっ黒なモニターの前で彼を見つめるクリスに気がついたらしい。
「よ、おはよう」
特に笑顔を作るでもなく、軽く右手を上げる。
「おはようございます」
暗いモニターに向き直ったクリスが挨拶を返す。
その時にはもうユージンはキッチンに入りこんでいた。ガシャガシャと鍋をコンロにかける音が聞こえる。
ほどなく、開けっ放しのドアに眉をひそめながら空の鍋を持ったトーマスが入ってきた。クリスと目が合うと微笑む。後ろを通りすぎていくトーマスを、振り返ったクリスが目で追うと、カウンターに鍋を置き、ダイニングテーブルに座った。その向かいのプレースマットが残っていた席には、キッチンから出てきたユージンが座る。
「仕事の話を少しするから、暇だったら何か見てて」
モニターがついていないのに気づいたトーマスが、ダイニングテーブルの方を向いているクリスに声をかけた。
「ニュース以外でな」
ユージンが付け加える。
また勝手に消されるのも不愉快なので、当たり障りのなさそうなアニマル・チャンネルを選ぶ。これなら大丈夫だろう。
番組は、海の生き物特集。開発された惑星の限られた生物種とは違って、地球の海は多種多様な生命で埋めつくされているらしい。
顔は画面を向いているものの、テーブルの二人の会話がクリスは気になった。そうするつもりもなく聞き耳を立ててしまう。
ユージンの声は少し低くて聞き取りにくいが、トーマスの声は通るので聞き取りやすい。どうやら本当に仕事の話のようだ。人名や日付が聞き取れた。
「わかりました。明日は午前中で切り上げます」
トーマスの声が話のピリオドを打つ。椅子を引く音に振り返ると、トーマスが立ち上がるところだった。
「あ、ちょっと待って」
ユージンがトーマスに制止をかけ、こちらを見ているクリスを手招きをした。と思えば、自分は立ち上がってキッチンへと入っていく。
クリスがテーブルに近付いて、座る必要があるのか決めかねていると、トーマスが横から椅子を引いてくれた。クリスはトーマスに軽く礼を言って座る。
ほどなく戻ってきたユージンの両手は、ミネストローネのボウルとコーヒーカップでふさがっていた。
「今日のことで、いくつか言っておくことがある」
ボウルとカップをプレースマットの上に置き、席に着いたユージンが切り出した。改まったもの言いにクリスは、背筋を伸ばして何となく身構える。
「その一。今日の食事は俺が作る。昼は中華に決定済みだけど、夜はリクエスト受付中。何か食べたいものはある、クリス?」
椅子に座りながらユージンが尋ねてきた。何事かと思えばそんなことかと、クリスは脱力しながら首を横に振る。
「トーマス君は?」
「僕も特にリクエストは……。でも、何故昼は『中華に決定済み』なんですか?」
その点はクリスも気になった。
「その二。昼にエセルが来る」
「遊びに来るんですか? 僕には連絡ありませんでしたけど」
嬉しそうではあったが、不思議そうに連絡がなかったと言うところからすると、その人物とトーマスは親しいらしい。そして、その彼もしくは彼女が中華料理好きなのだろう。
トーマスの友人がどんな人物なのか、クリスは気になった。
「親子鑑定の件で仕事を依頼した。ついでだから昼飯でも食っていってもらおうと思ってさ」
「ああそうか。彼は私立探偵だから、そういう関係の代理店ライセンスも持ってるわけですね」
そういうこと、とユージンが頷く。
私立探偵と聞いて、クリスはますます興味が湧く。
「最後に、その三。十四時には弁護士も来る」
「エックハルトさんですか?」
「いや、彼女じゃなくて別口」
「というと?」
「こういうの得意な弁護士が知り合いにいたから頼んだ。以上。何か質問は?」
ユージンは確認するようにトーマスとクリスを交互に見る。視線を合わせないように目を伏せたクリスは、無言で首を横に振った。
「今日の予定は?」
「十四時に昨日の市役所の人の立ち会いで親子鑑定用の試料採るくらいで、後はヒマ」
トーマスの質問に、ユージンはミネストローネをかき回しつつ答える。加熱したトマトの匂いが漂ってくる。
「だったら、クリスをどこか遊びに連れていってあげたらどうです? 暇なんでしょう?」
トーマスがこちらを向く。
「クリス、どこか行きたいところがあるなら言ったほうがいいよ。休みだからって、どうせこの人は何にもやることなんかないんだから」
トーマスの声には、あきれたような響きがあった。
「行きたいところなんて別に……」
消えるクリスの語尾に
「悪かったね、無趣味なつまんない男で」
ユージンのぼやきが重なる。
「そこまでは言ってませんけど、自覚があるなら結構。ところで、奥の部屋のベッドマットはクリーニングの予約を入れておきましたから、もうすぐ取りに来るはずです。引き渡しよろしくお願いします。夕方には仕上がってくるはずですから」
「えーっ、一人であのマットを上げ下げしろと?」
「何を甘えたこと言ってるんですか。元凶は自分でしょう? 僕は手伝いませんからね」
はいはいと投げやりに返事をするユージンを一瞥すると、「じゃあ、僕は仕事します」とトーマスは席を立った。
「何かあったら端末で呼んでね。直接来てもいいし。仕事部屋はわかるよね?」
トーマスはクリスの肩に軽く手を触れてドアに向かいかけ、足を止めた。
「ああ、そうだ。洗濯も忘れてるでしょう? 二週間も溜めて。いい加減カビが生えますよ」
「そうだった……」
憂鬱そうに頭を抱えるユージンには目もくれず、トーマスは笑顔でクリスに手を振ってドアを閉めた。
トーマスが出ていってしまうと、クリスはソファーに戻った。
テーブルにひとり残されたユージンは朝食中で、時折食器の触れ合う音がかすかに聞こえる。
番組は変わって、今度はカッコウの生態についてらしい。画面には大きく不格好なヒナが映し出される。そのヒナを世話するのは、そのヒナより体の小さなオオヨシキリ。
既に卵のあるオオヨシキリの巣に、親鳥の不在を狙って忍び込み、カッコウは産卵する。成鳥の大きさは全く違うが、オオヨシキリとカッコウの卵はよく似ている。数をかぞえたり憶えたりすることのできない鳥ならではの愚かさで、卵が一個増えてもオオヨシキリは気がつかない。
オオヨシキリより孵化の早いカッコウのヒナは、孵ると同時に同じ巣で生まれた兄弟=ライバルたちを蹴落としにかかる。文字通り、巣から落としてしまうのだ。もちろん落ちたヒナや卵は絶命し、親のオオヨシキリは一羽残ったカッコウのヒナを大事に育てる。自分の子どもでもないのに。
「気分の悪い話だよなあ」
頷いた後で我にかえる。今のは自分の心の声ではなく、ユージンだ。
こちらを見ていたのかと思うと、もう画面には集中できない。後ろが気にかかる。
椅子が動く音がした。足音はキッチンを回って、しばらくごそごそしている。食器の触れ合う音に混じって、鼻歌まで聞こえる。どこかで聞いたことのある明るいメロディ。
と思っていたら、それが近づいてきた。
オレのことは放っておいてくれ!
クリスの祈りも虚しく、足音の主は右隣にどっかりと腰を下ろした。
目の前に昨日のタルトの皿と、マグカップに入った紅茶がつきつけられる。
「食えよ」
その意志があるかどうかを尋ねるでもなく勧めるでもなく、いきなりの命令形に、思わず睨みつける。
「……よかったら」
付け加えられた言葉に多少は溜飲が下がった。あまり反抗的な態度をとって、警戒されるのもよくないだろう。
「ありがとう」
礼を言って、受け取った皿とカップをテーブルに置いた。画面に注意を戻すと、今度はなにやら右側から痛いほどの視線を感じる。
「何ですか?」
わざとそちらを向かないように、そっけなく尋ねる。
「食べないの、タルト? 美味いよ?」
「食べます、後で」
「食べさせてやろうか?」
ユージンはクリスの言葉を聞いてなどいない。
「結構です! ……っ?」
文句を言おうとしかめ面で振り向いたクリスの顔に、何かが張り付いた。ぐいと押されて頭が後ろに倒れそうになる。
これはユージンの右手だ。額の皮膚がVの字の指で横にひっぱり広げられる。指の隙間から薄く笑ったユージンの顔が見えた。
「お前、朝っぱらから眉間にシワなんか寄せてんじゃないよ。子どものくせに」
「やめてよ!」
両手で引きはがしにかかる。案外あっさりと手は外れて、視界はクリアになった。
文句を言ってやろうと思ったのに。
彼の手を掴んだまま、クリスは動けなくなった。
指の形に切り取られて歪んで見えた笑顔は、障害物を取り去ってみればひどく優しいものだったから。
ユージンは自分の手からクリスの両手をそっとはずした。どうしたらいいかわからずに、クリスは彼から視線を逸らす。拒否するために宙に上がっていた小さな手は、やがてゆっくりひざの上に軟着陸した。伏せた視線の端でユージンの右手が動き、今度はクリスの頭をなではじめる。
「ねえ、なんでこんなことするの?」
しばらくしても終わらない慰撫の動作に、俯いたままクリスが尋ねる。
「俺がそうしたいから」
「いつまでこうしてるつもり?」
「紅茶が飲み頃になるまでかな」
結局それは、間もなくやってきたクリーニングの集配によって中断された。慌てて下ろしたベッドマットを引き渡してきたユージンが帰ってきたとき、紅茶は、猫舌の人間たちにとってちょうど良いに温度になっていた。

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