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  緑の冠 作者:黒木露火
第四章 グッドモーニング、メリー・サンシャイン 2
「それにしても、いつまで寝てるつもりなのかなあの人は」
 茶器を片付けようとトーマスが立ち上がったとき、時計は八時を回っていた。
「当分起きないと思うけど」
 オレンジジュースのグラスを手にしたクリスが、意外なことを言う。
 クリスの寝ていたのはユージンが寝ているはずの猫部屋の隣だから、帰ってきた物音が聞こえた可能性はある。しかしこの場合、そういうことではないかもしれない。
「まさかと思うけど、彼は君の寝てる部屋に来た?」
「うん。三時くらいだったかな」
「それで?」
「まだ寝てる」
「どこで?」
「オレが寝てたベッドで」
「クリス、君はどこで寝たの?」
「仕方ないから一緒に寝たよ」
 水を止めて、テーブルに座っているクリスをトーマスは見た。別段おかしな様子はない。
 トーマスの知る限り、ユージンに幼児性愛ペドフィリアの趣味はない。他のアブノーマルな性向もないように思われた。
 しかし、出会ってから七年間、トーマスは恋人を紹介されたことがない。男女問わず、特定の誰かとつきあっている気配もない。身体的にも宗教的にも何の問題もない成人男子が、である。
 とりあえずクリスの出現によって、彼が成人女性とはつきあえるらしいことはわかったけれど、他人に言えない性癖をひた隠しにしている可能性もないではない。
「変なこと、されたりしなかったよね?」
 ううんと首を横に振った後で、クリスがふと不安そうな顔をする。
「……そういう人なの?」
 その反応にトーマスは却って安堵した。そんなところは見たことがないが、適当に取り繕う。
「いや、そうじゃなくて、彼は寝ぼけることがあるんだよ。いい加減起きてもらわなきゃ困るから、ちょっと起こしてくるね」
 五リットルはあろうか、たっぷり水の入った鍋を片手にダイニングを出て行くトーマスを、クリスは不思議そうに見送っていた。


 ドアを開けたとたんに、「ちょっと待て」という声が聞こえた。無視して部屋に入ると、うっすらと酒の臭いが残っている。端末で窓を全開にすると、朝の冷たい空気がアルコールを洗い流すように入ってくる。
 トーマスはそのまま至近距離まで近づいた。水の入った鍋を右手に構える。
「起きてください」
 ユージンはしぶしぶというように起きあがり、ベッドの上で背中を丸めて胡座をかいた。
「殺気垂れ流し。暗殺者には向かないなあ、君」
 まだ眠そうな彼の声は少ししゃがれている。
「そういう方面への転職予定はないので問題はありません。ところで、なんであなたがここで寝てるんです? 僕は隣の部屋で猫と寝るように言いましたよね? 子ども相手に何やってるんですか? どういうことか説明してもらいましょうか?」
「そんな怒らなくてもいいじゃない。うちにきた子はいつも最初は俺と寝てるんだし」
「うちにきた子?」
「タマラとかジェイとかフレディとか、みんなそうだったろ?」
「……みんな猫じゃないですか。クリスと、人間と一緒にしないでください。水浸しになりたいんですか?」
 ユージンの服は昨夜出かけたときのままだった。着替えてもいない。人を食った返答に加えて、そのことにもトーマスの苛だちは募った。水を掛けるだけじゃなく、いっそのこと鍋ごとぶつけてやろうかと思うくらいに。
「ああ、それ水? のどが渇いてたんだ。ちょうどよかった。飲ませてよ」
 右手を伸ばしたユージンから、トーマスは鍋ごと身を遠ざける。
「もっとまともに説明してください。僕が納得できるように」
「質問は一つずつにしてくれ。まだ頭まわってなくて」
 ユージンは酒臭い息をついた。
「それじゃまず、なぜここで寝てるんです?」
「話せば長くなるんだけど」
「コンパクトにまとめてください。コンパクトに」
「コートを置きに来たんだよ。それでそのまま」
「端折りすぎです。それじゃ意味がわかりません」
 そうか、とユージンが俯く。
「どうしても言わなきゃダメかな?」
「当然です」
 上目遣いのユージンに、鍋を構えたままのトーマスが威圧的に答える。
「実は、コートを置きに来たらさ、泣いてたんだよクリス。眠りながらだったから、自分が泣いてたことは憶えてないみたいだけど」
「……そうでしたか」
 何度か泣きそうな表情をしていた昨夜のクリスを思い出していた。鍋を持つ手が自然と下がる。
「寝言で『母さん』って言ってたな。資料を見た限りでは、母親とは折り合いはよくなかったようだったけど。……そんで添い寝してやろうと思ったわけよ」
「だからなんでそういう結論になるんです? 添い寝はしなくてもいいでしょう。彼、嫌がりませんでした?」
 ユージンは一瞬、興味深げな表情を浮かべた。
「嫌がった。けど、子どもがひとりで泣いてるとこなんか見たら放っておけないだろ」
 悪意はないのだ。
「俺も眠かったしな」
 善意だけでもないけれど。
 だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたトーマスは、鍋を持ったままベッドの足元に腰掛けた。
「で、どんな手を使ったんですか?」
「実はここは『出る』んだけど、一人でも大丈夫かって。やっぱり子どもだね。お化けは怖いんだね。一発だったよ」
「……またそのネタですか。僕は見たことないんですけど」
 人の悪い笑みを浮かべるユージンに、トーマスはうんざりとため息をつく。顕微鏡でも望遠鏡でも見えず、レーダーにも各種検知器にもひっかからないものなど、信じられるわけがない。
「そりゃあ、君はいろいろと鈍いから」
 そんなトーマスを横目に、ユージンが鍋に手を伸ばす。
「それ、水道水ですけど」
 月やコロニーや宇宙船の中のように閉じられた生活空間では、水は使い回される。浄水処理はされているといえども、元は下水も混じっているのかと思うと気持ちのよいものではない。故に、飲料水は地球から取り寄せたミネラルウォーターか、電気分解した水を再合成した再生水が使われることが多い。
「他人の内臓を通った水が怖くて宇宙船フネに乗れるか」
 ユージンは構わず、鍋に直接口をつけた。
「で、昨夜はどうだった? 変わったことは?」
 ひとしきり水分補給に努めたあと、ユージンは鍋をナイトテーブルに置き、ベッドから降りた。クローゼットから適当に服を物色しつつ、着ているものを脱ぎ始める。
「あなたたちが出て行ってから、少しおしゃべりしてました。十時過ぎにベッドに入れたらすぐに寝ついたから、そのあと僕は自分の部屋に。変わったことは特にありません」
「ふうん。さっそく仲良しになったんだ」
「仲良しっていうほどでもないでしょう」
 着替えるユージンの背には、これから子ども一人を育てていかなければならないという緊張感も気負いはない。これで大丈夫なんだろうかとトーマスはいささか心配になる。会ったばかりでまだ慣れてないとはいえ、我が子にさっそく苦手宣言されているというのに。
「君から見て、クリスってどんな子?」
 着古したTシャツに頭を突っ込みながら、ユージンが質問する。
「頭の良い子ですね。情緒的に不安定なところがあるようですが、それは慣れない環境で緊張しているのと、お母さんが亡くなって間もないせいでしょう。しばらくしたら落ち着くんじゃないでしょうか」
「そうか。他に気づいたことは?」
「たまに泣きそうな顔をするのが気になります。話の流れや雰囲気として、泣くようなところじゃないはずなんですが。なんなんでしょうね、あれは。でも……笑うと可愛いんですよね、あの子」
「ふうん。やっぱり仲良しじゃないか。あいつ、俺には愛想笑いしか見せないのに」
 少しふて腐れたように着古したTシャツに頭を通すと、ユージンはまじめな顔でトーマスを振り返った。
「あの子のこと、どうしようか?」
 続いて毛玉のできたカーディガンを羽織るユージンの背中を、トーマスは戸惑いながら見上げた。オンかオフかはっきりした、具体的かつ明解な発言を好むユージンが、こんなふうに漠然とした――まるで相談するような言い方をするのは珍しい。
「どうしようかって、どういう意味です? なぜそんなことを僕に?」
「だって、一番面倒見てくれそうなのは君じゃないか。もうすっかり仲良しなんだろ」
 思わず納得しそうになり、慌てて首を横に振る。
「自分の子どもくらい、自分で面倒を見てください」
「それなんだけどさ」
 着替え終わったユージンがこちらを向く。閉じたクローゼットの扉に背を預けて腕を組むその仕草に、トーマスは何となく嫌な予感を覚えた。
「あいつ、俺の子どもじゃないんだ」
 多分、と彼は付け加えた。
「根拠は? 確かな根拠があるんでしょうね? 他人ならどうしてうちに泊めたりしたんです? 期待を持たせるようなことしてどうするんですか?」
 トーマスの脳裏を、昨日ドアを開けるなり抱きついてきたクリスの体の軽さが、ベッドサイドから去ろうとしたとき引き留めるように伸ばされた手が、時々見せる泣きそうな表情が、そして今、ダイニングに一人で座っている姿がよぎった。
「……今のは冗談ですよね?」
「うん。冗談だ」
 ユージンがふっと笑って腕組みを解く。
 ナイトテーブルの上の、まだたっぷり水の残っている鍋を投げつけたくなる衝動を、トーマスは堪えた。
「言っていい冗談と、悪い冗談があるでしょう」
「そうだな。度が過ぎたよ。ごめん」
 茶化しもせず、いつになく素直に謝ってドアに向かおうとするユージンの腕を、ベッドから立ち上がったトーマスが掴む。
「どこに行くんですか?」
「顔洗って何か食うよ。腹減った」
「ちょっと待ってください」
 さっきのクリスは自分の子どもではないという発言は本当に冗談なのか。そうだとしてもしなくても、何故そんなことを言うのか。
「もし、仮に、クリスがあなたの子どもでないなら、彼をどうするつもりですか?」
 かまをかけるトーマスに、ユージンは含み笑いを返す。
「心配しなくても、悪いようにはしないから」
「何を隠してるんですか? それとも、企んでるんですか?」
「トーマス君、君はまず、大きな誤解をしてる。その訂正は後日することにして、とりあえず今は」
 掴まれている方の腕をユージンが勢いよく跳ね上げた。
「飯を食わせてくれ」
 あっさりと掴んでいた手を外されて立ちつくすトーマスを残し、ユージンは部屋から出ていった。
 何か言い忘れたような気がして背後を見ると、ベッドの上には脱いだ服がそのまま残されている。
「また脱ぎっぱなしにして!」
 今日はオフだし、彼が自分でなんとかするだろう。というより、するべきだ。
 それは放っておくことにして、何気なく目を移すと、シーツには寄り添うような大小二つの人型が残っていた。
 彼が悪いようにしないと言うなら、トーマスは心配するつもりはなかった。そのくらいの信頼関係はできているつもりだった。
 しかし――。
「誤解……?」
 わからない。何を誤解しているというのか。
 だらしないスフィンクスが閉め忘れていったドアを見つめながら、トーマスは眉間に軽く皺を刻んだ。

空想科学祭2009
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