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救われし世界のシンフォニア 作者:折坂勇生
36/43

34・澄佳


「返事が聞きたいんだ」
 ドキンとした。
 動くことのない心臓が、大きく跳ね上がり、鼓動が激しくなったような気がした。こんなときにと思ったけど、こんなときだからなんだと思い直した。
 建て直すしかないほどに壊滅された校舎の横を、澄佳は、窓ガラスや瓦礫の破片やコンクリートの鉄筋を踏まないように気をつけながら走っていた。走るといっても、足に怪我を負った樋村先輩に肩を貸した状態だから、歩いているに近い速度だった。
 第二校舎を突き当たった先にある野球専用の第二グラウンドは、すでにヘリコプターが止まっている。救助にきた自衛隊は、グラウンドにいるゾンビを銃で撃ち、は駆付けてくる生徒たちを誘導する。
 お姉ちゃんたちは、まだ戦っているようだ。後方にある体育館から、アクション映画の効果音のような激しい音がしてきて、それが「危険だから速く逃げなさい!」と言っているかのようだった。
 樋村先輩が巻き込まれないためにも、早くヘリコプターの所に行かなければいけない。
 なのに澄佳は、気持ちとは正反対に、足を止めてしまった。
「澄佳?」
 樋村先輩のほうを見ると、心配げな顔を向けていた。出会う切っ掛けになったときの表情と重なった。
 サッカー部のエース。
 明るくて、裏表のない、誰とでも平等な付き合いをできる性格なので、男女年齢関係なく誰からも好かれている。美桜ちゃんがよく言う「漂白剤のような笑顔」のチャームポイントは影を潜めて、似合っていないシリアスな顔つきをしていた。
 ちょっと顔を近づけるだけでキスできそうな距離。
 キス。
 こんなことが起きなければ、いつかそんな日が来たのかもしれない。
 樋村先輩と、親しい仲になれたのは美桜ちゃんのおかげだ。

「ミーハー」
 下校の時間。
 昇降口を出ると校門に向かわず、わざわざ第一校舎前のグラウンドに遠回りしていき、練習にあけくれる樋村先輩を、目立たないようにこっそり、フェンスの網を掴みながら眺めていた澄佳のことを、美桜ちゃんはそうバカにしたものだった。
「いいじゃん。美桜ちゃんはいじわるや」
 恥じらっていると、美桜ちゃんはあきれたように肩をすくめた。
「見る目はあるんでしょうね。樋村陽介は、男性的ながらも肉体派でない美男子といえるルックスに、中学生にしたらハイレベルな運動神経を持っていて、バカではないけど頭がちょっと緩い所が返って母性本能を誘わせるという、澄佳のような思春期に入って恋を知りたがっている子にとって、憧れの男性として相応しい相手であるもの。それでいて、女にモテたいから見栄を張っているわけでもなく、天然なのだから、人気あるのは当然といったところね」
 樋村先輩のことを好きな女性は多い。澄佳がこうして見ている間も、別のところから「樋村くーん」と女生徒が声をかけて、樋村先輩は笑みを向けて手を振っている。
「美桜ちゃんも、好きなん?」
「まさか」
 ありえない、と首を振った。それはちょっとホッとすること。澄佳のような地味な子と違って、美桜ちゃんはどんな男の人も振り向いてしまうほどの美少女だし、ものすごく頭のよい子だから、恋のライバルになったなら、自分が負ける方に全財産賭けられるぐらいだ。
「美桜。彼とお付き合いしてみたい?」
 そんな思いが顔に出てたのか、美桜ちゃんは言った。彼女の顔から、感情は読み取れなかった。
「樋村陽介の彼女になりたいんでしょ。私が協力してあげるわ」
「できるんか?」
「簡単」
 男の心理なんて、と人差し指を鼻先に当てた。美桜ちゃんは滅多に表情を変えないけど、その分、ジェスチャーは多彩だった。
「告白するんやろ? うち、恥ずかしがり屋だし、そんな勇気ないねん」
「なにを言っているの? 樋村陽介にとって、名も知らない下級生Aでしかない澄佳がいきなり『好きです。私と付き合ってください』といったところで、『ごめんなさい』とフラれてしまう可能性が九十九パーセントよ」
「残り一パーセントにかければええんか?」
「そんな博打に出ることもないわ。ものには過程が必要なの。近づかない限り、恋愛成功率はあがらないわ」
「でも、樋村先輩モテモテーやし、わたしのようなヘーボン族なんか、とっても無理やねん」
「なにもしないで負けてどうすんのよ。この子は、他の子とは違うんだと思わせればいいの。大丈夫。澄佳はそういう魅力を十分にもっているわ」
 でも、と不安な顔をしていると、美桜ちゃんは澄佳の額に指をツンと突いた。
「勇気を出すこともないの。澄佳のありのままの姿を見せれば、みんな好きになるもの……」心の中で何かを呟いてから、「樋村陽介だって例外ではない。だからね、私が樋村陽介から告白されるようにしてあげる」
「告白? わたしがするんやなくって?」
「そうよ。私に任せなさい。まずは出会いから」
 美桜ちゃんは自分の人差し指をぺろっとなめると、澄佳の前でささっと文字を書いて、澄佳の下唇をリップクリームを塗るように左から右になでていった。
「こっち」
 澄佳の手を引いて、校庭の階段を何歩か登らせる。途中で手を離すと、一人で階段を一段飛びで登っていく。美桜ちゃんは、一番上にくると、くるっと振り返って、びっくりとした表情を作った。
「澄佳、あぶないっ!」
 え? と首を傾げると、後ろからも、サッカー部の男子たちが「あぶない!」「よけろっ!」との叫びが聞こえてきた。
 その声のなかに樋村先輩もいた。
 澄佳が顔をあげると、目の前にサッカーボールがあって、どかっと視界と思考が一気に真っ暗になった。
 目覚めてからの澄佳は、まるで自分が魔法にかかったかのような心地になった。
 澄佳は保健室のベッドにいて、「大丈夫?」と樋村先輩が心配そうにのぞき込んでいた。
 憧れの先輩と二人きり。
 美桜ちゃんはどこにもいない。樋村先輩は、ごめんと謝ってから、
「何かおごるよ。どっか行きたいところない?」
 お詫びとして、次の日曜日にデートの誘いをした。

「ね、うまくいったでしょ?」
 夢心地で寮の部屋に戻ると、美桜ちゃんは読んでいた本を閉ざし、ipodのイヤホンを外すと、澄佳の制服を脱がしていく。
「美桜ちゃん、なにをしたんや?」
「別に、あなたのキックで澄佳を怪我させたんだから、おわびになにかおごってあげなさいっていっただけ。はい、手をあげて」
 普段着用のセーターを着せる。襟から顔を出すと、目の前の美桜ちゃんは「よかったわね」とにっこりと微笑んだ。
 彼女の、はっきりと笑みだと分かる表情を見たのは初めてだ。
 樋村先輩とデート。そのような服なんて持ってなかったので、ひびねぇに相談をしたら、「ついに澄佳に、そんな日が来たのね!」と大はしゃぎとなって、土曜日にファッションビルに連れて行かれて、澄佳にはもったいないほど、おしゃれな服を買ってくれた。
 シャツと短ズボンがいつものスタイルだったので、ワンピースはちょっと歩きにくかった。
 でも、約束の十五分前に待ち合わせ場所に着いたら、先に来ていた樋村先輩に「それ、かわいいね。似合っているよ」と言われて、すごく嬉しかったし、心の中でひびねぇに感謝した。
「赤沢さんって、ユニークな言葉遣いするよね。関西に住んでたの?」
 大きな公園の噴水のある広場で、アイスキャンディーを食べながら、池の周りを二人並んで歩いていく。
 他の人たちにカップルにみえるかな?と期待しながら。
「んーん、生まれも育ちもここや」野乃原市から離れたことは一度もない。「えーとな、うちにお兄ちゃんいるんやけど、ヤクザやっとんや」
 どん引きされるかと心配したけど、「へー、そうなんだ」と、特に気にした様子はなかった。
「お兄さん、優しいの?」
「うん、とっても優しく、かっこいいねん。お姉ちゃんは、極道はカンドーだと、追い出しちゃったけどな、私はお兄ちゃん大好きや、手紙のやりとりやっとるし、ちょくちょく会っているんや」
 お兄ちゃんのアパートには、よく遊びにいっている。澄佳にとっての第三の家といってもよく、置き場のなくなったマンガなどを置かせて貰っている。
「それでな、ヤクザといえば方言やろ、関西風や」
「そ、そうかな? お兄さんは、方言使っているの?」
「ううん、標準語。フツーに喋ってるで。そんなん、つまらんから、うちが代わりにやってあげとんのや」
「それで、そんな言葉遣いなんだ」
「そうや。それにヘンなしゃべりしてたほうが、オーサカとかヒロシマとかベンベンとかゴクドーとか、おもろいあだ名、つけてくれそうやん?」
「それ、うれしいかなぁ」
「したら、エセ関西人。略してエセ人ってあだな付けられた」
 樋村先輩はアイスキャンディーを落としそうになるほど大笑いをした。
「赤沢さんって面白いね」
 そんなに面白かったのか、涙をぬぐっている。
「そっか? わたし、個性ないし、特技なんてなんにもありまへーのヘーボン族やよ」
「いや、十分個性的だよ。怪我をさせたお詫びで誘ったけど、俺の方が得しちゃったな」
「え?」
「君といて、楽しいってことだよ」
 もし空を飛べたなら、澄佳は雲の上でバンザーイとやっていただろう。それぐらい嬉しかった。
「君といて、楽しいってことだよ」
 寮に戻ったら、美桜ちゃんに早速報告する。彼女は「はいはい、良かったわね」と、本のページをめくっていく。
「君といて、楽しいってことだよ」
「分かったわよ」
「君といて、楽しいってことだよ!」
「良かったじゃないの」
「君といて、楽しいってことだよっ!」
「澄佳、これ以上言うと、くすぐるわよ」
 食事のときも、お風呂の時も、お勉強の時も、ベッドに入ってからも、ずっと言うものだから、うんざりとしていた。
「君といて、楽しいってことだよ」
「えいっ」
「あははははは、美桜ちゃん、やめてーな」
 澄佳の布団の中に入ってくると、美桜の脇やへそをくすぐっていく。笑いすぎて涙がでてきたら、美桜ちゃんはコチョコチョするのを止めて、澄佳の顔に、自分の顔を近づける。
「良かったわね」
 優しく髪の毛を撫でていく。美桜ちゃんは、澄佳の幸せを吸収したような、最高の笑顔を見せていた。
「うん。美桜ちゃん、ありがとう」
「いいのよ。澄佳が幸せなら、私はそれでいいの」
 美桜ちゃんは澄佳を抱きしめる。
 澄佳も、美桜ちゃんをぎゅっと抱きしめる。
 幸せだと思った。
 お父さんとお母さんは小さいときに亡くなったけど、お姉ちゃん、ひびねぇ、お兄ちゃんに愛情いっぱいに育てられてきたし、美桜ちゃんという最高の友達がいるんだもの。
「美桜ちゃん、ずっと友達でいような」
「ええ」
 抱き合って、その幸せに浸りながら、澄佳は心地よく眠りについた。
 澄佳自身がそのスピードに驚くほど、樋村先輩との仲は、急速に近づいていった。廊下でばったりあうと、必ず声をかけてくれて、しばらくお話することになるし、サッカー部の試合を観戦しにいけば、手を振ってくれて、試合が終わると直ぐに澄佳の所に来てくれるし、部活が終わったときにタオルを渡せば、それを喜んで使ってくれた。なにか困ったことがあると、美桜ちゃんに相談して、そのアドバイス通りにしたら、すぐに解決してしまう。いい仲になのを気に入らない女生徒たちが結構いて、意地悪なことをされたけど、美桜ちゃんが「なんとかするわ」と言ってから、不思議なぐらいにぴったりとやんだ。
 澄佳は、樋村先輩とのことで、ほんのちょっとのことでも何かあると、美桜ちゃんに報告をする。そのたびに「よかったわね」と微笑んでくれる。美桜ちゃんは、澄佳の恋愛が順調なのを喜んでくれて、笑顔をよく見せるようになったので、澄佳はさらに嬉しくなる。
「そろそろ、くるわね」
 なにがと美桜ちゃんをみると、「告白」と自信満々に人差し指をあげた。
 その通りとなった。

 それから二日後の、雨の日だった。
「今更かもしれないけどさ。俺、澄佳のこと好きだ。付き合ってくれ」
 降ると思わなかったから、澄佳は傘を持ってきてなくて、樋村先輩と相合い傘をしていた。樋村先輩は上の空で、澄佳がなにを話しても、「ああ」「うん」「そうだね」と相打ちをうつぐらいだった。不思議だった。けれど、美桜ちゃんが言っていた「そろそろ、くるわね」を思い出して、ついにこの時がきたんだと心が高鳴った。ぽつぽつと、傘を叩く雨の音が聞こえてくる。澄佳が暮らしている寮が見えてきた。樋村先輩は、今しかないと覚悟を決めて告白をした。
 うん、と言ったはずだった。
 けれど言葉にならなかった。
 抵抗感。
 何故か分からないけど、付き合ってはいけないと、必死で引き留めようとするもう一人の自分がいるのに気がついた。樋村先輩に告白されるという目標を達したんだから、もういいじゃないか、これ以上、恋に落ちてはいけないと警告されているように。
 樋村先輩のこと好きじゃなかった? ううん、そんなことない。樋村先輩のことが好き。大好き。このときが来るのを心待ちにしていていて、力強く「うん」とうなずいて、「私も好きです」と、舌を噛まずにちゃんと返事ができるようにと、練習をしてきていたぐらいだ。
 なのに言えない。
 樋村先輩に、私も先輩のことが好きです、と伝えられない。
 ――私はなにを怖がっているの?
 分からない。なにかが違う、これが私の求めていることじゃない、という気持ちがわき上がってくる。じゃあ、なにを私は求めていたのだろう。
 分からない。
 なんにも分からない。
「澄佳?」
 樋村先輩は、もう付き合っているようなものだし、正式にカップルになろうと、告白したのかもしれない。澄佳が動揺したことに、独りよがりだったのかと、悔やんでいる。
「考える時間が、欲しいです」
 澄佳は、そう言うのが精一杯だった。

「悩む必要がどこにあるのよ。好きなんでしょ。なんも問題ないじゃない」
 美桜ちゃんから、案の定な答えが返ってきた。
「分からない」
 ベッドの隅で三角座りをして、お姉ちゃんがプレゼントしてくれた大きなウサギのぬいぐるみを抱きしめる。
「分からないという、澄佳の気持ちが分からないわ」
「本当に分からないんや。うち、樋村先輩と付き合ってええんか?」
「なんで、私に聞くの? 澄佳は、私がこうしなさいと言うことしかしないわけ?」
「そんなこと、ないけど」
「初めて彼氏が出来ることに怖がっているのね。そんな心配いらないわよ。すぐに、あなたのお姉さんたちのようになるわ。男と女なんだし、なんの障害ないんだから、みんなが祝福してくれる。なにも問題ないのよ」
 美桜ちゃんは、澄佳の傍に寄ると、肩に手を置いた。
「澄佳、よかったわね。あなたの恋は叶うのよ。おめでとうといわせてもらうわ」
 美桜ちゃんはにっこりと笑った。恋の応援をしてから、よく見せる笑顔だった。
「うん。美桜ちゃんありがとう」
 そうだよね。この不安は、男の人と付き合うのは初めてだから、怖がっているだけだよね。
 明日。放課後になったら、私も好きですと告白しようと決めた。
 でも、それはできなかった。

 ――私は死んでしまったのだから。

「ごめんなさい」
 黒魔術研究部。気がついたら夜になっていて、澄佳は美桜ちゃんに抱きしめられていた。柔らかい美桜ちゃんの感触。頭の中からとても美味しそうなにおいがしてくる。ノーミソのにおい。食べてみたいという、今までになかった、気味の悪い食欲が湧いてくる。それが、ゾンビという体なんだと後になって知った。
「ごめんなさい」
 美桜ちゃんはもう一度謝った。いつもの無表情の美桜ちゃんだったけど、笑顔を見せていた時よりも、感情がはっきりと伝わってくる。
「ええよ」
 許す、許さないじゃない。
 ごめんなさいと謝るのは澄佳のほうだ。
 今になって気づいた。美桜ちゃんの笑顔は心からのものじゃない。
 自分の気持ちを殺すためのものなんだって。
 なんてバカだったんだろう。美桜ちゃんが笑っていたのは、澄佳の恋がうまくいきそうで、一緒に喜んでいたんじゃない。まったくの正反対で、笑えば、笑うだけ、彼女は傷ついていた。傷ついた心を隠すために、その気持ちを悟られたくないために、笑うよう務めていた。
「澄佳が幸せなら、私はそれでいいの」
 いいわけがない。美桜ちゃんを不幸にしてまで、澄佳は幸せになりたくない。美桜ちゃんは自分の恋を諦めるために、澄佳の恋の応援をしていたのだ。それがどんなに彼女を苦しめ、心をズタズタにしていったのか。
 おしどり夫婦以上にラブラブなお姉ちゃんとひびねぇが、澄佳の育ての親だ。同性の恋愛に抵抗はなかった。なかったはずなのに。澄佳はなんでこうも、大切な人を傷つけてしまうのだろう。
 これは罪だ。
 私の。
 ゾンビになるぐらいの大きな罪だ。
 そう。澄佳の答えはひとつしかない。

 返事を待つ樋村先輩に、澄佳は真摯に向き合った。
「樋村先輩の気持ちは嬉しい。でも、わたしは、付き合うことができないです」
 ごめんなさい、と謝った。
「そっか」樋村先輩は寂しそうに笑った。「僕の勘違いだったんだね」
 勘違いじゃありません。好きです。好きでした。樋村先輩と付き合いたいと思っていました。
 でも、もうできません。私はゾンビだから。美桜ちゃんを傷つけてしまうから。付き合ってはいけないんです。

 私は恋人よりも、友達を選びます。

 グラウンドにいる自衛隊の人が澄佳たちに気づいた。怪我をしていると分かると、こちらへと駈けてくる。澄佳は、支えていた先輩の手を離した。
「やること、残っているから」
 やることなんてない。
 本当は一緒に逃げなくてはいけなかった。でも、今の自分の顔を樋村先輩に見せたくなかった。澄佳は背中を向けると、先輩の引き留める声を無視して、美桜ちゃんがいる所へと走っていく。心のなかで、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝りながら。
 涙を拭おうと目をこすった。泣いてなかった。
 目からなにもでていない。
 そっか、私はゾンビだから、涙がでないんだ。

――見つけましたよ、こころの闇。

 体育館に続く曲がり角の先にある焼却炉の付近に男の人が立っていた。だらりと下がった顔が、ロングの髪の毛で隠れていて、逆方向にひん曲がった足を、不安定に動かしていた。
「木村さん?」
 脳をやられたはずだった。なのにゾンビのように動いている。いや、違う。木村さんの顔は硬直としていて、死体そのものだ。
「この男に、勇気なんてありません。ゾンビを見ただけで、しょんべんをちびらして、すくみ上がる臆病者ですよ。あなたたちを、観察するのにうってつけの体でした」
 口からではなく、胸から声が聞こえてきた。
「え? なんで……」
「私がとりつくのは、脳ではありません」
 木村さんの心臓から、昆虫のような生き物が現れた。にょろりとしたヒゲ状の触覚の先端に大きな目の玉がついていて、髭もじゃの顔の下にある尖った歯が細かく生えた小さな口を開いて、澄佳のことをあざ笑うかのように眺めていた。
「心臓なのです」
 カタカタと何十本もある針金のような足を鳴らしながら、背中の翼をトンボのように振るわせた。
 遠くから美桜ちゃんが叫んでいる。内容までは聞き取れないけど、澄佳のことを呼んでいて、目の前にいるこのバケモノに気をつけろと伝えているのは分かった。
 逃げる時間なんてなかった。
 木村さんの中にいた不気味な生物は、一瞬の速さで飛んでくると、澄佳の心臓の中に入っていった。

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